『今和次郎 採集講義』青幻社
昨年(2011年)の今和次郎の郷里である青森県立美術館での開催に続き、現在、東京のパナソニック・汐留ミュージアムに巡回中(会期は3月25日まで)の展覧会の公式カタログ。今が各地をフィールドワークしながら残した膨大なスケッチなど資料を収録するほか、藤森照信、山田五郎、都築響一、内井乃生らがエッセイや談話を寄せている。とくに、自身と今和次郎のスタンスの違いを語った都築のインタビューが面白い。

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どれだけ一般的な言葉なのかはわからないけれど、サブカルチャー、あるいは略してサブカルという言葉がある。本来は「下位文化」「副次文化」とも訳される社会学の用語だが、最近では、マンガやアニメなどといったジャンルに対しそれらをひっくるめてサブカルと呼ばれることも多い。

が、いまの日本においてサブカルという言葉は、特定の文化ジャンルを指すというよりはむしろ、ある種のモノの見方や考え方を指すのではないか、とふと思うことがある。たとえば、みうらじゅんといとうせいこうの『見仏記』あたりを発端に、ここしばらく続いている仏像ブームはどうだろう。仏像は、ジャンルからいえば伝統的な宗教美術ということになるのだろうが、みうらじゅんのフィルターを通すとまるっきり違ったものになる。その見方や語り口こそサブカルと呼ぶべきなのではないだろうか。

もちろんこれに対しては異論も多々あるだろう。けれども、この記事ではひとまず、サブカルチャーを「作品や事物に対する新たな価値づけ」と定義したい。そう定義した上で歴史をひもとけば、サブカルのパイオニアともいうべき人物が何人か見つかる。たとえば現在、東京で展覧会が開催中の今和次郎(1888〜1973)と石子順造(1928〜77)なんかは、まさにそれにふさわしい人たちだと思う。このうちきょうはまず、今和次郎について紹介したい(なお今和次郎は「こん・わじろう」と読む)。

残念ながら地方在住のぼくは、いまパナソニック・汐留ミュージアムで開催中の「今和次郎 採集講義」展(会期は3月25日まで)にはまだ行けていないのだが、幸い同展の公式カタログは市販されているので、その概要はだいたいうかがえる。このカタログ以外にも、泉麻人編による今和次郎・吉田謙吉『東京考現学図鑑』や畑中章宏『柳田国男と今和次郎』と、ここ1年ほど今和次郎に関する本があいついで出版されている。いま、なぜ今和次郎なのか? そこにはやはり昨年3月の東日本大震災が影響しているようだ。上記のうち『柳田国男と今和次郎』は「災害に向き合う民俗学」とサブタイトルにあるように、今和次郎が柳田国男に師事した民俗学を出発点として、いくつかの自然災害を経て独自の活動を展開していくその経緯をたどったものである。

今和次郎が体験した災害のうち、最大のエポックとなったのは1923(大正12)年の関東大震災である。震災で家を失った人たちは、廃墟のなか自分たちで材料を手配し、バラックなどと呼ばれる仮設の住処を建て雨露をしのいだ。その3年前に早稲田大学建築学科となっていた今は、もともと日本各地の民家を調査していたこともあり、バラックに大いに関心を抱き、それらを丹念に調べてまわるとともに、後輩や教え子たちとともに「バラック装飾社」なる団体を発足している。これは、その名のとおり被災者支援の一環として、バラックほか街の建物にペンキで装飾をほどこそうという目的でつくられたものだ。これはおおいに好評を博し、次々と注文が舞いこんだ。

震災から東京が復興していく過程で、都市の生活様式、風俗にも大きな変化が現れる。今和次郎の関心はやがて、そういった新しい風俗へと範囲を広げていく。1925年に雑誌「婦人公論」の企画で、銀座の街頭を行き交う人たちの服装や持ち物を調査したのを手始めに、その後もさまざまな調査を行ない、1927(昭和2)年にはその成果を新宿の紀伊國屋書店の開店記念として開かれた「しらべもの(考現学)展覧会」で発表した。考古学に対し、現代を研究対象とする「考現学」が提唱されたのもこのときだ。考現学調査としては、その後も、銀座の三越本店を出入りする客たちについて調査を行なうなど、その後のマーケティングの先駆けのようなことも手がけている。

さて、「採集講義」展のカタログをパラパラ見ていたら、時代を下って、晩年の今和次郎がかかわった「ユニホーム考現学」(1967年)と題するテレビのドキュメンタリー番組が紹介されていた。カタログに再録された、放送時に新聞に載った紹介記事によれば、この番組では「もしユニホームがなかったら」との仮定のもと、銀座の交番に和服姿のタレントを立たせて、それに対し通行人がどんな反応を示すのかといった実験が行なわれたらしい。

一体どんな結果が出たのか。カタログではそこまで触れられていない。が、これを読んで、ぼくはふと、昔、それも小学生の頃(いまから25年ほど前)に読んだ本に、この実験について結果までたしかに書かれていたことを思い出した。幸いにも実家の本棚にまだその本が残っていて、おかげで以下のような記述を確認することができた。

《今和次郎氏の提案で、和服の着流しにへこ帯姿、それに、警棒とピストルを腰につけた警察官を、銀座の交番に立たせてみました。/すると、通行人は何事かと驚いたり、立ちどまってゆっくり見て、おかしくてたまらないというような表情をみせたのです。/また、私鉄の駅の改札口に、暴力団のような色めがねをかけてジャンパーを着た駅員を立たせたところ、お客は、不思議な表情をして、ぐっとにらむようにして大急ぎで切符を切ってもらい、しばらくいってからふり返って、またじっと見た、というのです。/結論は、警察官は警察官らしい、駅員は駅員らしい印象をあたえる制服がないと、社会秩序がうまくたもてない、と今先生は断定されています》(有田和正『おもしろ教科書ゼミナール10 生活が10倍おもしろくなる』)

それにしてもこのテレビの企画は、社会や人間心理の実験という以上に、ドッキリ企画に近いものを感じる。あるいは、街頭を舞台とした一種の芝居のようにも思える。

そもそも今和次郎が考現学を創始するひとつのきっかけには、演劇にかかわった体験があるという(川添登『今和次郎』)。今が少壮の学者として活動を始めた明治末から大正初めはちょうど、西洋近代劇の影響を受けたいわゆる「新劇」が勃興した時期にあたり、彼も求めに応じて舞台装置をはじめ衣装の時代考証やデザインまで手がけていた。母校である東京美術学校(現・東京藝術大学)でも、舞台芸術について講義を行なっている。

一方で、先に書いたように日本各地の民家を調査していた今和次郎は、ある農家の土間を訪れた際、そこにどんな物がどう置かれたり散らばったりしているかを詳細に記録し、そこに住む人の行動や性格まで読み取ろうとした。演劇にかかわった体験から、今は民家の土間をドラマの舞台に見立てる視点を得たのである。考現学とは、こうした視点をそのまま都市に当てはめたものだった。

今と演劇のかかわりは関東大震災のあとも続き、バラック装飾社の仲間たちと築地小劇場の活動や、村山知義などによるアヴァンギャルド演劇にも協力した(黒石いずみ『「建築外」の思考 今和次郎論』)。村山は前衛美術団体「マヴォ」を主宰するなど、大正から昭和にかけて日本の前衛芸術をリードした人物である。

……と、ざっと振り返っただけでも今和次郎の仕事は、民俗学、社会学、家政学や美術、建築、演劇とじつに多岐におよぶ。その影響を受けた人も多いのだが、とりわけぼくが以前から気になっているのは、日本におけるコラムニストの嚆矢といわれる植草甚一(1908〜79)との関係だ。

植草は1927年に早稲田大学理工学部に入学、3年後に建築学科に進んでいる。ちょうど今が同学科の教授だった頃だ。植草は2回の落第の末、結局月謝未払いで大学を中退するのだが、この間演劇に熱中する。前出の村山知義の影響を受け、コラージュをつくりはじめたほか(彼は晩年にいたるまでたくさんのコラージュ作品を残している)、のちに映画監督となる谷口千吉たちと英語劇を上演したり、村山や吉田謙吉の手がける舞台装置に魅せられ模倣したりしている。吉田は、考現学における今のパートナーでもあった。

今和次郎は教え子たちと喫茶店で話をするのが好きで、植草もよくコーヒーをおごってもらったという(津野海太郎津野海太郎『したくないことはしない 植草甚一の青春』)。ただ、もともと文学少年だったのに建築学科に進んだ理由や、今や吉田たちの考現学からの影響について植草はあまり多くを語っていない。それでも、老いてますます精力的に散策の達人として街を歩き続け、そこで見つけたものについてあれこれ書き続けた植草甚一に、ぼくはどうしても今和次郎のスピリッツの継承を見てしまう。今はある時期から背広を脱ぎ捨てジャンパーにズック靴というラフなスタイルを貫き通したが、晩年の植草もまた、誰かに見られることを意識してか、派手なTシャツにジーパンという格好で街を歩き回った。

今和次郎は1973年10月に85歳で亡くなっている。これと前後して1960年代末あたりから、植草がさまざまな雑誌に発表してきた文章が続々と著作にまとめられるようになり、彼は“ファンキーなおじいさん”として若者たちの支持を集めていた。65歳になっていたこの年には、新たに創刊されたサブカルチャー雑誌「ワンダーランド」の編集顧問に担ぎ出される。のちの「宝島」である。

独自の事物の見方を提案し、多様なフォロワーを生んだ今和次郎。今回の展覧会に出品されたスケッチなど膨大な記録には、きっとまだまだモノの見方や考え方に関する多くのヒントが隠されているに違いない。(近藤正高)