「やっと安心して聴けるようになったな」 世界的トランぺッター「日野皓正」が“こんなうれしい言葉はなかった”と振り返る父親のひと言
夕刊紙・日刊ゲンダイで数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけているコラムニストの峯田淳さんが第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第87回は日本が誇る世界的トランぺッター・日野皓正さん。華々しいキャリアを支えた人たちとの交流や、人生に影響を与えた一言を振り返ります。(以下、記事中の敬称略)
世界の日野が築地にやってきた
正直に言うと、ジャズは学生時代に何度か通ったライブハウス「新宿ピットイン」の記憶くらいしかない。若い時分にはちょっと難しい、チック・コリアの曲などを聴きながら、ジャズを理解しようと静かに音に耳を傾けていたような気がする。

そんな中、サントリー・ホワイトのCMで日野皓正(83)が奏でる、どこかけだるく郷愁を誘う、枯れた感じのトランペットの音色は衝撃的だった。それと同時に、日野は生まれつき天然の明るさを持っているのではないかと感じていた。
筆者がこの世界に入った当時のイメージでは、サックス奏者の世界のナベサダ=渡辺貞夫(93)とともに、固定ファンだけでなく広く世に知られ、タレント的でメジャーなジャズミュージシャンだったと思う。
そんな日野にインタビューしたのは、2015年のこと。
あの日野皓正が築地の会社までわざわざ来てくれるというので、ビックリ仰天だった。築地の街を歩いた有名人としては、会社そばのラーメン店でラーメンを食べていた世界の小沢征爾と並ぶ。
それにしても、日野皓正が本当に会社の一室にやってくるのか。誰もが半信半疑だったのだが……。
取材を予定していたのは会社の奥の会議室。開いたドアからバッと入って来た日野は満面の笑みを浮かべ、やあやあ、こんにちはの体。こちらが挨拶しようとするのも待たずに、両手を差し出し、ギュッと固く握手された。
よろしく、よろしくといった感じでノッケからハイテンション。世界的なトランペッターの気さくさに、本当に呆気にとられた。まさに電光石火といっていい対面。そもそもの話になるが、インタビュー相手と、取材が始まる前に握手したのは、後にも先にもこの時が初めてだった。
ミュージシャンのDNA
日野の父はタップダンサーでトランぺッター。曾祖父も近衛兵のラッパ拭きだったそうで、トランぺッターになったのはDNAのなせる業だろう。中学の時に父に連れて行かれた日劇ミュージックホールでサッチモ(ルイ・アームストロング)の演奏を聴き、その時にトランぺッターになろうと思ったらしい。
これだけ環境が整えば自ずと道は開ける。キャバレー回り、キャンプ回りをやっていたら、「新世紀音楽研究所」の菊地雅章(ジャズピアニスト、2015年没)に誘われ、銀座「銀巴里」のセッションにも参加し、山下洋輔(84)とも出会う。このセッションはLPにもなった。それから豪華メンバーで知られる、白木秀雄クインテットでも演奏した。
アメリカ大使館でのコンサートで記憶に残る言葉があるという。〈「You have a fire」って言われたのを覚えてるよ〉(『逆光』近代映画社刊)。同じ言葉を世界的なドラマー、アート・ブレイキーからも後に言われたそうだ(お前はイケてる、最高だ、などの意)。
その頃、日本でもジャズは今とは比べ物にならないほどメジャーで、来日するミュージシャンも多く、トランペットのフレディ・ハバードやブルー・ミッチェルらとも交流する。この時代のこんな話も。トランペッターのロイ・エルドリッジがハイ・ノート(高音)を出すことから、
〈フレディはそれを聞いて「Oh My God!〉って。「俺ももっと練習しなきゃダメだ」と言っていた。フレディみたいなすごい人が、「もっと練習しなきゃ」なんて、僕なんかどれだけ練習しなきゃいけないのか。ヤバいよなぁって思ったね〉(前掲書から)
「もっと練習しなきゃダメ」は、日野自身にも戒めの言葉になった。そして、「己を知る」ことが大切と悟り、一家でニューヨークに渡り活動拠点を移したのが1975年6月。新たな境地を探す旅となった。
そんな日野にとって、家族はかけがいのないものだった。これまでの人生で大きな哀しみは、ドラマーとして一緒にやってきた弟・元彦の死(99年没、享年53)。ドラムプレイは凄まじいものだが、元彦は純粋な性格で、兄が気弱になっている時には、「もうちょっと頑張ってやらなきゃ!」と、常に叱咤してくれたという。
日野に影響を与えた弟・元彦について少し触れる。
元彦にドラムを教わった人に、俳優で4年前に亡くなった渡辺裕之がいる(渡辺はドラマーでもあった)。皓正とも面識があり、紹介されて元彦の門を叩いたが、受け入れてくれない。渡辺は元彦が毎晩顔を出す六本木のライブハウスに、10日間通って待ち伏せしたという。
最後は土下座して頼み、やっとOKが出た。修行の日々は1年続いた。師匠が認めてくれたのはこんなシチュエーションだったというからその厳しい性格がわかる。渡辺に取材した「私の秘蔵写真」というインタビューから。
〈1年近く経ったある日、ぼくが仕事でケガするんですね。左半身、腕と胸を打って、思うようにスティックを持てない。左腕が動かないのに、師匠は「一番いいよ」と…どうしたらうまく叩けるか、それを気にしているうちは音にならないんですね〉
そんな弟の死で、日野はこう思った。
〈トコ(元彦)の死後、僕の音も、ちょっと強くなったみたいだ…痛みを知っている人だけが、痛みを持った人を癒せるんだから、何にしてもありがたいと思わなくちゃ〉(前掲書から)
「やっと安心して聴けるようになった」
築地の会社に来社して、渡辺と同じテーマのインタビューで日野が語ったのは、父・敏のことだった。秘蔵写真は日野が日本に戻ってきた時に、父と東京・荒川の土手でトランペットを手にしているツーショットだった。
〈オヤジもトランペットをやっていたけど、日劇の団員になってからだから20歳を過ぎていた。始めたのが遅かったぶん、名手になるまではいかなかった。ただ、音楽を聴く耳だけはすごかったから、どんな批評家よりもオヤジの言葉のほうが重かったね〉
そして、自身が超一流の仲間入りを果たしてから、父親が面と向かって褒めてくれたのはこの時が初めてだったという。
〈皓正もやっと安心して聴けるようになったな、と言ってくれたんです。こんなうれしい言葉はなかったですね〉
天才が救われたのは家族の言葉……。それにしても、来社した時のエネルギーに満ち満ちた「世界の日野」の姿は今も目に焼き付いて離れない。
峯田淳/コラムニスト
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デイリー新潮編集部
