戦争が終わっても新たな恐怖が……!「女は外に出るな!」ソ連軍侵攻で満洲生まれの9歳少女の日常が激変
「戦争が終わった直後から、『ソ連軍が攻めてくる』と大人たちは大騒ぎになりました。それからの日々は、今想い出しても震えてしまうほど、恐ろしいものでした」
そう語るのは、満洲生まれで終戦の翌年、1946年にやっとの思いで家族と引き揚げ帰国を果たした現在90歳の岡本三樹子さんです。
国立公文書館などのデータによると、終戦当時、軍人・軍属、民間人を合わせて約660万人が中国大陸や朝鮮半島などの海外に住んでいました。敗戦後もすぐに帰国することができず、624万人の引き揚げが終わったのは、1947年12月末。終戦から2年半もかかったと言われています。
中でも、日本が当時支配していた満洲には、戦時中推定で約155万人もの民間人が在住。1945年8月9日、ソ連が日本に宣戦布告し、当時日本が統治していた満洲に侵攻を始めます。8月15日、日本が敗戦したことで満州国も消滅。それとともに、ソ連軍や日本に不満を持っていた現地の人たちによる略奪や襲撃、暴行や強姦などが起き、多くの犠牲者を出したのです。日本国内でも戦後長く、飢餓や貧困など戦後多くの困難が続きましたが、「戦争は終戦になっても終わらない」……。その現実を岡本さんの満洲での経験からお伝えします。
この企画は、『わたくし96歳#戦争反対』の著者であり、「戦争反対」「核兵器廃絶」のメッセージをSNSやデモを通して伝える森田富美子さんに敬意を表し、『わたくし96歳#戦争反対』オマージュ企画として、戦争当時、未成年だった人たちの生の声を集めた『私が子どもだったころ――戦争の時代』として、不定期で掲載しています。
※体験談をお話しいただいた方たちの個人情報を守る意味から、本名ではなく仮名で表記をしています。場所、内容に関してはお話いただいた内容に基づいています。また、原稿内に、かつて旧満洲(中国東北部)に住む満洲民族を示す「満人」という言葉が出てきますが、戦時下の体験を直接伺う意図から、本人のお話のまま記載しています。
【プロフィール】
岡本三樹子さん(仮名)
1936年(昭和11年)生まれ。90歳(終戦時9歳)
家族構成 父、母、本人、妹。父は満州の商事会社勤務満州で生まれる。敗戦は、空襲がひどくなった新京から避難するために一家で乗った屋根のない無蓋貨車の中で知らされた。
ソ連軍が攻めてきた!!
1945年春、私が4年生になるとき父の転勤で、それまで住んでいた奉天(※1)から新京(※2)へ引っ越しました。広い社宅の空きがなかったので、仮住まいとしてアパートの手狭な社宅で暮らすことになりました。学校では手旗信号やモールス信号を習い、歴代天皇名と教育勅語を暗誦、新しく満語の時間もありました。
満州の夏休みは7月で、8月になって2学期が始まったときのこと。私は副級長になって張り切っていたのですが、その夜中に突然、空襲警報が鳴って新京に来て初めて防空壕に退避しました。警報はなかなか解除されず、長い間防空壕の中に入っていました。
翌朝、「ソ連が参戦し、国境を越えて大戦車隊が新京に向かっている!」という情報が入りました。街は大混乱で、学校どころではありません。社宅の住民も全員退避することに。急いで荷物をまとめて会社に集合したのですが、父は会社に残ることになってしまいました。父の会社は「家族は退避するように」と説得しましたが、母は「死ぬときはみんな一緒がいい」と強硬に主張して、家族みんなで新京に残ることを希望。結局、みなの反対を押し切って私たち一家は出発をとり止めました。
家に帰ると社宅に住んでいた住民はみな退去して静まりかえっていました。街の様子も不気味なほど誰もおらず、学校もシーンとしています。にぎやかだった昨日までの様子がうそのようで、毎日父が職場から帰ってくるまで、とても心配で怖かったことを覚えています。
※1:現在の中国・遼寧省の省都である瀋陽(シンヨウ)の旧称。満州国時代は「奉天市」として知られ、日露戦争の舞台となった奉天会戦や、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件の発生地としても有名。
※2:満州国の首都で「新京特別市」という名称だった。別称「国都」。現在の中華人民共和国では吉林省長春市のこと
屋根のない無蓋貨車で避難したのに……
一家で新京にとどまったものの、数日後には「いよいよ危険だ」ということになり、父も一緒に避難を決めました。残っていた会社の人とともに南新京の駅に集合。ずいぶん長く待って次の日にようやく汽車に乗れたのですが、それは屋根のない無蓋貨車でした。
私は不安な気持ちもあったのですが、まだ子どもで最初は冒険心も湧いてきて密かにワクワクしていました。しかし、よく考えると命がけの逃避行です。荷物は手に持てるだけ、行先もわからないままで乗りこんだ屋根なし貨物車。食料だっていつまで持つかわかりません。果たしてソ連兵から逃げられるのでしょうか……。しばらくすると雨まで降ってきてずぶ濡れにながら電車に揺られるうちに、私はいつの間にか眠り込んでいました。
どのくらい経ったのか、「ガッタン」と音を立てて列車が止まり、目が覚めました。遠くから人々のわめくような声、メガホンで叫ぶ声もありました。雨はそれほど強くないのに、遠くの空には稲妻が光って雷鳴がとどろき、真っ暗な貨車の中が雷の閃光でパッと人の姿が浮かび上がるのです。今まで見たことがない不気味な光景に、濡れた服も手伝って私はいつの間にかガタガタと震えていました。妹も同じように怯えた様子で母にしがみついていました。
すると、大人たちのすすり泣く声が周囲から上がりました。「ハイセン」という言葉が聞こえてきたのですが、何のことかさっぱりわかりません。私は「お母さんどうしたの?」と母に聞いたのですが、「日本が戦争に負けたらしいの」と小声で一言ささやくだけでした。これまで日本は絶対勝つと信じて疑わなかった私は雷が直撃したくらいの衝撃を受けたのです。さっきのざわめきはいつの間にか静まり、今度は恐ろしいような静けさが広がり、不安に押しつぶされそうでした。
そのとき、母が荷物からこっそりと角砂糖を取り出して、2つずつ私と妹の手のひらに乗せてくれました。雨に濡れないように大事にしまい込んでいた貴重な角砂糖。いつもは紅茶に入れて味わうはずだった角砂糖を、生まれて初めて直接口に運びました。そのときの角砂糖の味は今でも忘れられません。味というより、口の中で崩れていく感触というか……。子どもながらに「ああ、今までの生活はこの角砂糖と同じように溶けてなくなるんだ」と思いました。
私たちが乗った貨物車は、長い間停車した後、先には進まず反対側に機関車がついて、元来た方に戻ることになりました。朝鮮半島から内地へ帰国できないことがわかったからだそうです。私たちは再び元いた新京に、社宅に帰ったのです。
女は外に出るな!
やはり日本は負けていました。敗戦によって、日本の統治下であった満州国は一瞬で失くなって、新京は長春と呼び名が代わりました。残っていた人の中で、今まで満人に対して威張っていたり、いじめていた人たちが、見せしめとして殺されたり、馬車に繋がれて引きずられたりした、という話があちこちで聞かれるようになりました。また、襲撃や略奪も頻発し、うちとは別の広い方の社宅も被害に遭い、家の中はめちゃめちゃだったそうです。幸い私たちが仮住まいしていたアパートの社宅は被害を免れ無事でした。
街にはソ連兵が入ってきて、銃で脅しながら「ダワイ(よこせ)!」と言いながら、なんでも取ってしまうと聞きました。ソ連兵は時計が珍しいのか見つけると取り上げ、手首から二の腕までズラッと十個以上も腕時計をしている兵隊もいると噂も流れてきました。あとから聞いたところ、このときやってきたソ連兵は、元囚人だったらしいです。
私はソ連兵がロシア人とは思えませんでした。満洲にはロシア人も住んでいて、私の知っているロシア人は、きれいで優しくて、ハイカラで憧れの存在でした。奉天では、ロシア人がやっている洋服屋さんでレースの襟を買ったり、喫茶店でロシアケーキを買ったりしました。ところが、敗戦になってから侵略してきたロシア兵はそういった人たちとは大違いだったからです。また、日本人を襲撃する満人たちもかつてニーヤとして私たちの家事や力仕事を手伝ってくれたり、物売りに来ていた人たちと同じだとも信じられませんでした。でも、戦後しばらく経って日本軍が大陸でした行為を知り、彼らの気持ちも仕方がないことだったのかもしれないと理解しました。
ソ連軍が侵攻してきてから、父が勤める商社はソ連将校のレストランになり、父はそこで会計兼レコード係として働いていました。父はいつも「暗い日曜日」(※3)ばかりかけていたそうです。父なりの意趣返しだったのでしょうか。
一方の母と私たちは、「女は外に出るな!」「外に出ると危ない!」と、どこにも出られませんでした。買い物など外出しなければいけない仕事は男性が引き受けてくれました。1階の窓には板を張り、2階の窓は開けることなく、なるべく窓際には近づかないようにして息をひそめて生活しました。水道、ガス、電気も止まってしまいましたので、社宅の敷地内にあった井戸からポンプで水をくみ出し、バケツで2階まで運びました。夜は赤いロウソクと、豆油(揚げ油)に芯を入れたもので灯りを取りました。
一度、社宅の前に車を引いて丸太ん棒を持った満人の暴徒たちが襲ってきたことがあります。社宅にいた男性が屋上にあがって、なにやら大デモンストレーションをしてなんとか追い返すことができました。ですが、それ以降、社宅の出入り口は一ヵ所になりそこに当直が置かれることになりました。
以前は豊かで美しかった満州は、敗戦後一夜にして恐ろしい街に変貌しました。それまで親しくしていた満人たちは暴徒となり、かつて憧れていたロシア人はソ連兵となって、私たちは彼らに怯える生活に追い込まれたのです。それでも窮地に追い込まれている私たちに、こっそりと食べ物を分けてくれる二―ヤがいたことは今も忘れられません。
後編(第19回)『ソ連兵に凌辱されそうになったら自決を…終戦後、満洲で母親や女性たちが耳の後ろに貼り付けていた青酸カリ』では、ソ連軍侵攻によって、岡本さんの母親や自身に起こった恐ろしい体験と日本に戻るまでの過酷な出来事について引き続きお伝えします。
※3: ハンガリーの作曲家シェレシュ・レジェーが1933年に発表した楽曲。楽曲は『Szomorú vasárnap』というハンガリー語の原題を持ち、自殺を誘発するとも言われた逸話を持つことで有名。
【後編(第19回)】ソ連兵に凌辱されそうになったら自決を…終戦後、満洲で母親や女性たちが耳の後ろに貼り付けていた青酸カリ
