「ウーマン・リブのカリスマ」田中美津が抱えてきた性被害のトラウマ
田中美津という女性をご存知だろうか。1970年代のウーマン・リブを牽引した伝説の女性であり、上野千鶴子さんをして「フェミニズムの原点……時代をあらわす固有名詞」と言わしめた人だ。映像作家の吉峯美和さんは、2019年にその田中美津さんに4年間密着したドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』を完成させた。この当時、田中美津さんを取材して吉峯さん自身も気がついた、多くの人が抱える「蓋をしていた思い」について吉峯さんに綴ってもらった。
そして2024年8月7日に天国に旅立った田中さんの三回忌を前に、2026年7月17日から23日までアップリンク吉祥寺にて再上映されることとなり、記事の再編集をお届けしている。
第1回では、ウーマン・リブというと強くて怖いイメージを持っていた吉峯さんがそのイメージを一掃させた出会いからお伝えした。第2回は田中さんが未婚の母となり、鍼灸師になった背景と息子との関係性を伝えた。
最終回では田中美津さんがなぜこれだけエネルギッシュに活動し続けることができたのか、その理由の原体験をお届けする。
今も消えない5歳のときの痛み、「この星は、私の星じゃない」という疎外感
1970年代、日本の女性たちに大きな影響を与え、社会現象にまでなったウーマン・リブ運動。その伝説的なリーダーだった田中美津さんの原点は、5歳の時の出来事だと言う。
「ガラガラっと世界が壊れた……といっても、果たして五歳児は世界と言えるものを持っていたのだろうか……この頃になって思うのね。あの時壊れたのは『未だ持ち得なかった世界』だったのではないか、と」(岩波書店刊『この星は、私の星じゃない』あとがきより)
このドキュメンタリー映画の撮影で、美津さんが生まれ育った本郷界隈を訪ねたのは2016年3月だった。子どもの頃からの遊び場だった寺の境内を歩いている時、その告白は始まった。当時、実家が営む魚屋で働いていた従業員から性被害を受け、よくかわいがってくれた相手だったために、幼い美津さんはそれを新しい遊びと思ってしまった。しかし、その秘め事を母に打ち明けたら驚愕され、男とその父親も呼び出して厳しく叱りつけて、あとは何事もなかったような日常に戻ったと言う。
美津さん自身は少しも責められなかったにも関わらず、そのことは深い傷を残す。
「お母さんがあんなに怒ることを楽しいと感じてしまったなんて……私は汚れた子なんだ、邪悪な存在なんだ。他の女の子たちはまだ正札さえ付けていないのに、私だけがディスカウント台にのぼっているような気分……なぜ私の頭にだけ石が落ちてきたのか? ここは私の星じゃないから、私は守られていない、大事にされてないんだ……」
映画のタイトルになった美津さんの言葉は、この煩悶から生まれている。
今年3月に相次いだ性暴力に関する裁判の無罪判決をきっかけに、4月11日に抗議の集会が始まった。以降、毎月11日に各地で行われているフラワーデモ。性暴力の被害者たちの声を聞いていると、美津さんと同じようなトラウマを抱えてしまったことが伝わってくる。だいたいが記憶にフタをしてしまい、自分が被害を受けていたこと自体に気づく(受け入れる)のに時間がかかる。気づいたとしても、自分が悪かったからだ、自分はそうされてもしかたがない人間だと責め続ける。
何年も経ってからフラッシュバックが起こり、摂食障害や自傷行為などに苦しむ。加害者は多くが近しい人で、平然と社会生活を続けていたりする。たとえ加害者が罰せられたとしても、心の傷は癒されないかも知れない。だって76歳になった田中美津でさえ、いまだに「この星は、私の星じゃない」と思い続けているのだから。
他人の痛みに共鳴する「当事者意識」
「田中美津」がすごいのは、その解消されないトラウマを自らのエネルギーの源にして、言葉を発し続けてきたことだと思う。不運や不幸の種類は違っていても、同じような痛みや疎外感を抱いている人の心に、彼女は共感し、共振していく。
60年代にベトナム戦災孤児の救済運動に取り組んだ時、「どうして僕のお父さんが殺されてしまったの? と、泣いているベトナムの子どもはあたしだ」と、同じ不条理に向き合っていることに気づく。ウーマン・リブを旗揚げした後には、当時多発していた若い母親が自分の子どもを殺してしまう事件を前に、「女の残酷以上に、この世が残酷なだけだ……育児を唯一の生きがいとなすべく、女は追いつめられていくのだ……子殺しの女はあたしだ」と宣言した。そして連合赤軍のリンチ殺人事件で日本中が震撼し、鬼畜よばわりされていた「永田洋子はあたしだ」と書いたことも、よく知られている。
今回の撮影の中でも、そんな美津さんの姿を何度もとらえた。
沖縄戦の末期、命からがら戦火を逃れてきた人々が身投げしたという断崖では、彼らの境遇にシンクロして涙を流す。
「この海を見た時に何の理屈もなくすぐに思うことは、もうここで死んでもいいや、ここで死ぬことを自分に許そう。もう一生懸命生きたから、もういいよ、みっちゃん……そろそろ神様が抱きとめてくれてもいい頃合じゃないかっていうふうに、ここまで来た人たちが思ったかも知れないということを、我が事のように感じるんですね」
そして、戦後まもなくの沖縄で米軍車両に轢かれた少女の写真に衝撃を受けて、いま辺野古や高江に通い、座り込みに参加している。
「私の頭に石が落ちてしまったことへの悲しみ。その女の子にも、同じ悲しみを見い出だして、私は……なぜ私が轢かれなければならなかったの? 返ってこない答えを待っている子どもの唇に指を当てて、その悲しみは私が抱きしめてあげるからね……とささやく私がいる。あなたは私だよ」
美津さんにとって闘いとは、常に“自分ごと”なのだ。
「かわいそうな誰かや差別をなくすためではなく、私が救われたい、解放されたい、私のために頑張ることが世の中全体を変えていくんだ」
だからその言葉には力があり、虐げられた人々や、痛みを抱える人間の心に響いていく。
自分の中の「膝を抱えて泣いている少女」を忘れてはいけない
現代の平塚らいてうを撮るんだ! という気概で始めた自主製作。美津さんの言葉をがむしゃらに記録し続けてきた撮影に、転機が訪れたのは2017年の3月だった。
この映画には若手の女性スタッフ(と言っても30代のカメラマンや40代の音響効果担当)が参加していて、当時50歳になろうとしていた私を含めた3人で、美津さんを囲む女子会をやった時のこと。美津さんから「もし、あなたたちが柔らかな感性を持って作品をつくり続けたいなら、自分の中にいる“膝を抱えて泣いている少女”の存在を忘れてはいけない」という言葉をもらったのである。
たしかに私の中には……長い間、フタをして忘れたフリをしてきた、“傷つき泣いている少女”がいた。その子の存在を遠くに押しやることで大人になり、やがて男並みに大きな仕事(私の場合はテレビ番組)をこなしてキャリアを積み、結婚せず子供もいないが全体的には満足しているつもりだった。「そんな自分の弱さや痛みに鈍感な人には、私はつかまらないよ」と美津さんに言われた気がした。その夜以降、少しずつ自分自身を見つめ直すのと同時に、美津さんの内面の柔らかな部分を強く感じるようになっていった。
“少女”の存在を意識しながら見つめていると、美津さんの人生は「未だ持ち得なかった世界を求める旅」のように視えてきた。「この星は、私の星じゃない」と呟きながら、たった一人で泣いていた少女が、「このあたしが惨めだったら、こんな地球なんかぶち壊れてもいい!」とパワーを爆発させ、リブのカリスマにまつりあげられた。
しかし常に他人とは違う存在の孤独を抱えながら、日本から遠く離れたメキシコの地で未婚の母になる。帰国して鍼灸師になってからは、患者のために身を投げ出すような一心の治療を続けている。それは、あの時壊れた世界を一つ一つ自分の手で積み直していくような行為だった。そして日本の辺境の地である沖縄の、しかも神の島と呼ばれる久高島へといざなわれていく……。
「田中美津」という一人の女性の、心の旅を映像化しているのだということに気がついた。
撮りためた膨大な映像素材の文字起こしを一人でやりながら、更に1年、撮影を続けた。ようやく編集に取りかかったのが2018年の5月。その年の暮れに、『この星は、私の星じゃない』というタイトルが決まった。
生きづらい女たちへ、傷ついた男たちへ 「田中美津は、私だ」
映画の最後に、美津さんは微笑む。「“かけがえのない、大したことのない私”というのは私の到達地点。あなたは私かも知れない、私はあなたかも知れない。私も大したことないのよ」。
このインタビューを撮影していた時、この言葉は私自身に言われたように感じた。
この作品はウーマン・リブのカリスマの偉人伝ではない。
膝を抱えて泣いていた少女が、たまたまの運命に翻弄され、悩み迷いながらも、「私」を生き抜いていこうとする、魂の遍歴を追ったドキュメンタリーである。
「フェミニズムとはこういうもの」と思い敬遠している女性や、自分には関係ないという男性にこそ観てもらいたい。例えばトラウマや病気を抱えていたとしても、それを含めたありのままの自分自身を肯定する。
「あなたは一人じゃない。時には弱音をはいたっていいんだ。だって私がこんなにも不器用に、全身でこの星に立ち続けているよ」
痛みがあるからこそ、人に優しくなれる。闇があるからこそ、見えてくる一筋の光もある。
観てくれた“あなた”が、自分の中にいる少女や少年の存在を思い出して、“私”の物語として感じてもらえたらと、心から願っている。

