「妻といういちばん悲しむはずの人が、感情はお構いなしに喪主をやらなきゃいけなかった」。33歳のときに夫を突然死で亡くした立川あゆみさんが直面したのは、あまりに残酷な現実でした。自分の心が追いつかないうえに、小6の娘はショックで失声症になり、受験を断念。絶望の底から立ち上がるために家具を一新してみるものの、次第に親子にすれ違いが生じて──。

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「夫の突然死」悲しむ間もなく押し寄せる現実

── 芸人、アパレルデザイナーなど、さまざまな職業を経て、現在は農家としてパクチー栽培を手掛けている立川あゆみさん。33歳の若さで突然ご主人を亡くされたとき、まず何を思いましたか?

立川さん:突然死だったんです。1時間前まで生きていた大切な人がいなくなり、悲しみにひたる間もなく突きつけられたのが「妻といういちばん悲しむはずの人が、感情はお構いなしに喪主をやらなきゃいけない」現実でした。葬儀社さんから「骨壺はどのタイプにしますか?」「お花はこちらのプランですか?」「戒名は?」といったこまごまとしたことまで、次々と決断を迫られるんです。

夫のことが大好きだったから高いお花、高い戒名を選びたいけど、母からは「冷静になったほうがいい。この先の生活もあるんだから」とたしなめられて。今思えばありがたい指摘だったのですが…。

── 役所や金融機関での手続きも大変だったことでしょう。

立川さん:役所や銀行の窓口、行く先々で「夫が亡くなったので」と繰り返し、書類に夫の名前を書くたびに、泣いてしまって。1か月ほどはご飯も食べられず、母に「あなたが倒れたら子どもたちはどうするの」と心配されました。夫は突然死だったので、直前まではふつうに生きていたんです。そのショックを処理する時間も与えられないまま、現実だけが押し寄せてくる感じでした。

── 子どもたちは当時、小学6年生と小学2年生だったそうですね。

立川さん:夫が亡くなった後の最初の運動会は本当につらかったです。「なんでうちだけパパがいないんだろう」って。小6だった娘はショックで声が出なくなり、中学受験を断念することになりました。息子は、夫が亡くなった日から一度も泣いた姿を見せていません。彼なりの覚悟があったのかもしれません。小2だったのに、それだけの思いを背負わせてしまったんだなと今も思います。

「家具を一新」悲しみ消そうと思い出の品を捨て

── その深い悲しみを、どのように消化していかれたのでしょうか。

立川さん:悲しみをまぎらわせてくれたのは「人」でした。頼りにしていた13歳年上の夫が突然いなくなったことで、誰かといないと不安でしかたがなかったんです。人と一緒に過ごす時間を求めて、友人や妹、親にすがっていました。たとえばランチなども、「お店に行きたい」とか「あの料理が食べたいから」というよりも、「人と会うため」という感じでしたね。

家にいるとどうしても夫の面影を探してしまうので、自宅から離れようとたくさん旅行に出かけました。部屋の中も、夫と一緒に選んだ家具はすべて捨てて、新しく買い替えて。「思い出の品なんだから、残せばいいのに」とも言われましたが、当時の私には思い出すことそのものがつらく、すべてを一新したくて。喪失感を埋めるために、ずいぶんとお金を使ってしまいました。

噛み合わない家族の歯車を変えた関わり方

── シングルマザーとしての子育ても大変だったのでは。

立川さん:「父親の役割もしっかり果たさなくては」と、今思えば気負いすぎていつもピリピリしていました。でもある日、娘に気づかされたんです。洗濯物を取り込みながら私がイライラしていたとき、ソファで寝ていた娘が立ち上がり、「ため息をつかないで、手伝ってって言えばいいじゃん」と言って、部屋に戻っていったんです。それでハッとして。「なんで私はこのたったひと言が娘に言えなかったんだろう」と反省しました。そこからは子どもや親きょうだいに「手伝って」「助けて」が言えるようになりました。

親も子もそれぞれひとりの人間なんだから、ため息や怒鳴り声で支配するのではなく、お互いを尊重し、助け合って生きていかなきゃいけないわけですよね。自分の頑張りだけを振りかざして上下関係のように「支配」するのをやめ、同じ人間として「共存」しようと決めました。

── 家族との関わり方を変えたのですね。

立川さん:それまでは、自分を追い詰めながら、子どもにも厳しくあたっていたと思います。「学校からのお便り、早く出して」「給食袋は洗濯かごに入れた?」と相手のタイミングを見ずに問い詰めて、生返事されてさらにイライラしたりして…。家族の歯車がかみあわなくなっていました。

でも、その後は、子どもに確認したいことや頼みたいことがあっても、「今はこの子は好きなテレビを観ているから、きりのいいところまで待とう」とタイミングを見測るようになりました。そして、テレビがひと段落したら「今、話していいかな?」と、ひと声かける。すると、私が変わったことで、子どもたちも驚くほど変わっていきました。誰だって仕事や趣味に没頭しているときにあれこれ言われたらいやですよね。この声かけ方法は、農家になってさまざまな人と仕事するようになった私の人生にすごく生きています。

亡き夫の言葉がいまの仕事にも活きている

── 亡くなったご主人は立川さんにとってどんな存在でしたか。

立川さん:13歳年上で人生経験が豊富なぶん、私や世の中のこともよく理解していて、頼りになる人でした。私が人間関係や仕事のことで悩んでいると、夜中でも話を聞き、アドバイスをくれました。亡くなった後も、子育てで悩むたびに「パパだったらどう言うかな」と、立ち止まっていました。それがあったから、子どもたちが成人し、就職するまでがんばれたのだと思います。

現在はパクチー農家としてパクチー収穫イベントなどを行い地域の農業を盛り上げている

── ご主人のアドバイスで、今でも印象に残っているものは?

立川さん:出産後、自宅でフラワーアレンジメント教室を開いたときのことです。レッスン料の価格設定で悩んでいたときに、「10万円稼ぐのに、1000円いただいて100人に教えるのか、1万円いただいて10人に教えるのかで、客層が変わるよ」と教えてくれたんです。

安価なレッスン料でママ友サークルのように楽しむ選択肢もありましたが、あえて高めのワンレッスン5000円に設定して、非日常を味わえる場にすることにしました。そのぶん、レッスンの内容はもちろん、レッスン後のティータイムで出す食器やお菓子のセンス、話す内容までこだわりました。その内容に納得してついてくださったお客さまは、25年経った今でも教室に残ってくれて、私を支え続けてくれる大切な存在となりました。

安値競争に走るのではなく、客層、提供するサービスや商品のクオリティを意識しながら値段を設定する。この視点は、夫の死後、新規就農してパクチーを栽培し、加工商品を開発・販売するようになってからも生きていますね。夫が残してくれたアドバイス、子どもたちそれぞれが見せてくれたがんばり、親族のサポート…。たくさんの人に支えられながら、一歩ずつ日常を取り戻すことができました。

取材・文:鷺島鈴香 写真:立川あゆみ