広島の人々はアメリカへの復讐心を乗り越えた…「日本被団協」ノーベル平和賞受賞が持つ「大きな意味」
日本被団協ノーベル平和賞の思想的な意味
10月11日、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に、ノーベル平和賞が贈られることが発表された。日本の平和主義の象徴と言ってよい存在だ。素晴らしいことである。
被爆者の方々の願いは核廃絶である。そして核が使われないことだろう。だが、ただそれだけではない。日本人は、そのことをもっと深く知っておくべきではないだろうか。
もっと思想的な意味もあるのだ。それは戦争の被害者が、平和を訴える運動に身を捧げ、戦争後の平和構築に貢献してきた、という点だ。そこも含めて日本の平和主義の象徴になっている。日本人であれば、被団協のノーベル平和賞の意味を、より広い視点で捉え、外国人にも話していけるくらいにしていきたい。
核兵器をめぐる政策・イデオロギー論争
日本にも核武装論者がいないわけではない。だが核兵器が廃絶された世界は、やはり存在する世界よりも良い。このビジョンを掲げて、日本政府は外交的立場を定めてきた。大量破壊兵器を忌避する日本の平和主義の文化は、被爆経験によって裏付けられている。また、核兵器が現実に存在していることを前提にして、それを使わせないように道徳的圧力をかけるところにも、日本被団協の活動の意義がある。核使用の危険が高まっている時だからこそ、ノーベル平和賞委員会は日本被団協を選んだのだ、とも言われる。核廃絶についても、核不使用についても、日本被団協の活動の意味は大きい。そのことに疑いの余地はない。
ただし、それだけではない。そのことを日本被団協代表委員が、ノーベル平和賞受賞の連絡を受けた瞬間に表現した。
ガザを思って涙ぐんだ姿が世界に配信
ノーベル平和賞受賞の一報を聞いた直後の10月11日の会見で、日本被団協の箕牧智之代表委員は、「ガザの団体が受賞すると思った」と述べた。そして、「ガザがね、子どもがいっぱい血を流して抱かれている、80年前の日本と同じ、重なりますよ」と述べて、涙ぐんで絶句した。一目で、心の底からガザの子どものことを思っていることがわかる悲壮な表情であった。その箕牧氏の印象的な姿と言葉は、世界各国で広く報道され、共感を呼んだ。
被爆者とは、ガザの子どもの苦境を心配する人物のことである。そのことが、世界に強く印象付けられた瞬間であった。
核廃絶や核不使用を訴えるのが日本被団協の活動だ、という狭い視野に基づく思い込みからすると、箕牧氏の姿は、逸脱気味に見えたかもしれない。駐日イスラエル大使は、80年前の日本と今のガザは違う、などと批判的なコメントを出した。だが、イスラエル大使の理解は、数多くの被爆者の方々の心情とはかけ離れている。
今年8月、長崎市長がイスラエルを平和祈念式典に招待しなかったことが話題となった。長崎市長は自らの判断であることを強調したが、実際には、ロシアを招待せず、イスラエルを招待していいのか、という疑問を提示した数多くの被爆者の声をふまえたうえでの判断であったことは当然だ。実は広島でも、ロシアを招待しないならイスラエルも招待するべきではない、という被爆者からの意見はあった。長崎市長のほうが、被爆者の声を優先した式典作りを心掛けた、ということである。
被爆体験とガザの苦境は、数多くの被爆者の方々の心の中で、重なり合っている。日本被団協の運動は、ガザを忘れるところには、成立しない。なぜなら、被爆者の方々の平和運動は、普遍的な平和を求めるものだからだ。いわば核兵器を廃絶したうえで、戦争の惨禍を廃絶するのが、究極的な目標だ。被爆者の方々が、世界の核弾頭の数だけに関心があり、ガザやその他の世界で起こっている戦争には関心がない、といったことは、決して起こらない。
被爆者の平和運動の普遍主義的な意味
被爆者は一人ではなく、過度の一般化はできない。被爆者の数だけ、異なる考えや感情があるとも言える。あるいは一人一人の心の中にも複雑な葛藤があるだろう。被爆者の数以上の考えや感情がある、とも言えるくらいだ。
しかしそれでも、被団協などが、数多くの被爆者の方々を、共通の社会運動に招き入れてきた。貴重な共通の思想を、被爆者の間に作り出してきた。その共通の思想とは、核廃絶だけでなく、さらに言えば、普遍的な人道主義にもとづく平和主義だ。そのことがわからないと、駐日イスラエル大使の発言のようなものが出てくる。被爆者は原爆の話だけをしていればいい、ということになったら、日本被団協の存在価値、そして日本の被爆者の功績は、矮小化される。結果的に、日本の平和主義も、矮小化されてしまうだろう。
私は平和構築と呼ばれる国際社会の政策領域を専門に研究しているため、世界各地の紛争(後)国を訪れたことがある。といってもジャーナリストではないので、最前線の戦場に行くわけではない。戦争を経験した国に生きる人々の様子を見て、話を聞かせてもらうのだ。そこで、どの国にも立派な方はいる、と感じる。戦争で悲惨な被害を受けながら、前を向いて未来を構想して人並外れた献身的な努力をされている方は、世界各地にいる。だが、日本の被爆者の方々のように、原爆の惨禍の後の後遺症に悩みながら、なお被爆証言活動を中心とした広範で長期にわたる平和運動を集合的に行い、仲間を誘い、訪問者に影響を与え続けている事例は、際立っている。
被爆者の平和運動を、日本人は、珍しくない光景だと考えてしまいがちだ。だが、それは誤解だ。数多くの戦争の被害者たちが、数十年の長期にわたって、極めて広範に組織的に、平和のための運動に献身的に従事する姿は、世界全体を見回して、非常に珍しい光景である。
これは世界に誇るべき日本の平和主義の文化の結晶である。
私は、広島を訪問する外国人のための研修の講師などを何度も務めたことがある。そうした機会に、必ず質問されるのは、「被爆者はアメリカを恨んでいないのか」、「被爆者はなぜ復讐ではなく平和運動をするのか」、といったことである。21世紀の対テロ戦争の時代には、いっそう切迫性が増した問いであったと言ってよい。
もちろん、被爆者の方々はもはやアメリカを恨んでいない、などとは簡単には言えない。それは一人一人の被爆者の方の心の中の出来事だ。おそらくは誰にとっても、簡単には説明できない感情のことだ。また、復讐ではなく平和運動をしている理由なども、やはり簡単に説明できるようなことではない。しかし、いずれにせよ、被爆者の方々は、実践してきたのだ。
被爆者の方々は、平均的な日本人などと比べたら、圧倒的に数多く、外国人と接してきている。なぜ平和運動をするのか、という問いに直面する機会を経験してきている。そのため、被爆者の方々は、平均的な日本人が驚くくらいに、国際的であり、普遍主義的な平和主義を信じている。自分たちの平和への思いが、世界各地から集まってきた訪問者たちの平和への思いと、共鳴していくものであってほしいと、心から素直に願っている。
われわれ日本人が、日本被団協のノーベル平和賞受賞で理解しておくべきなのは、この被爆者の方々の活動の世界の人々に訴えかける普遍主義的な意味である。
被爆者の活動は被爆者が作ったもの
被爆直後から被爆者の平和運動があった、と考えるのは、間違いである。たとえば、「広島平和記念都市」構想を推進して広島の復興の立役者となった戦後直後の初代公選広島市長の濱井信三氏の政策に、当初は多くの広島市民は冷淡だった。「平和よりも、まず食べ物、住居、そして仕事をくれ」、というのが、切実な思いだったからだ。たとえば、今では当たり前のような広島の観光資源になっている原爆ドームも、根強い反対論のために二十年にわたる時間をへて、ようやく保存が決まった。長崎では、浦上天主堂は、いち早く解体された。
広島で平和記念公園が建設されはじめ、その目の前に「100メートル道路」が建設され始めたとき、市民は一様に批判的だった。そのときに流れた噂は、道路は実はいずれアメリカに復讐を果たすために使う飛行場の滑走路だ、というものだった。その真意を公に明らかにできないために、道路であると偽っている、と。そのような噂が流れるくらいに、戦後直後の広島の人々にとっては、復讐こそが、共通の心情であった。
原爆投下後、勝ち誇るアメリカ人たちを横目で見ながら、広島に生きた人々は、草も木も生えないと言われた土地に残った。多くの人々が広島を離れ、放射能汚染の偏見を恐れて違う町の出身だと偽り、違う町で暮らしていった。それでもなお先祖伝来の土地に残った人々は、強い思いを持っていた。時には、訪問者にも、恨みの視線を送ることもあったかもしれない。
だがある被爆者が、私に語ってくれたことがある。わざわざアメリカから広島に来るような訪問者は、平和に関心を持って訪れてきた人たちだ。彼らに罪はない。それどころか、共に平和を望んでいくべき仲間だ。そうした気持ちから、外国人に向けた証言活動も行われていった。そのようにして、やがて人々は、アメリカへの復讐心を、平和を願って奇跡の復興を果たす、という目標に置き換えて、努力を続けていくようになった。
それにしても、被爆者の方々が、現在われわれがよく知る平和運動の文化を確固たるものとしていくまでには、長い時間と、多くの人々の構想と努力と、そして一人一人の被爆者の方の葛藤とが、必要だった。
今日、世界中で知られている被爆者の方々の普遍主義的な平和運動は、被爆者一人一人の苦悩と努力の積み重ねの上に出来上がったものである。決して、原爆が落とされて、機械的にできあがったようなものではない。もしわれわれ日本人が、原爆を落とせば、その後に平和都市が生産される、などといった安易な話を真に受けてしまったら、ガザに核兵器を落とせと主張するイスラエルの極右政治家の発言を否定できなくなる。
原爆が落とされたから平和運動が生まれたのではない。原爆が落とされたにもかかわらず、平和運動が生まれたのだ。
その苦闘が、ノーベル平和賞に値する水準まで到達したことについては、日本は、国家として、称揚をするべきである。そして国家のアイデンティティの象徴としての位置づけを、確立していくべきであろう。
世界の戦争被害者への共感へ
2016年にオバマ米国大統領が広島を訪問した際、広島市民は、歓喜して沿道に集まった。涙を流して手を振る高齢者の姿などが、目についた。外国人たちは、「謝罪を要求するのかと思ったら、泣いて喜ぶというのは、いったいどういうことなのか」、と質問した。
恐らく普通の広島市民は、自分自身では、理知的かつ論理的には、説明しないのではないかと思う。感激したから、泣いたのだ。実践者なのだから、そのことに無理はない。
ただ誰かが責任をもって、説明すべきだ。もし説明ができないと、「原爆を落として痛めつけると従順な人間に生まれ変わるので、ガザにも原爆を落とせばいい」と公言してはばからない人物が現れるのを防ぐことができない。
広島市民は、広島を訪問するオバマ大統領の姿を見て、感激した。自らが達成した奇跡の復興の意味の大きさを感じ取って、感激したのだ。
遂にアメリカの大統領ですら、広島の奇跡の復興の偉業を認め、広島に敬意を表するために、広島を訪れてきた。広島市民は、復讐を試みることなく、草も木も生えないと言われた町を奇跡的に復興させる偉業を通じて、その偉大さを、アメリカ大統領に痛感させた。その自分の町を誇りに感じさせる感覚が、そして自分と自分の先祖の苦闘が報われた、と実感する感覚が、広島市民に涙を流す感動を与えたのだ。
このような感動的な出来事を世界各地で起こせれば、世界は平和になる。残念ながら、それは簡単なことではない。簡単ではないため、世界は平和ではない。しかしだからこそ、被爆者の方々の苦闘を称賛することは、世界史的な意味を持っている、とも言える。
ガザの血を流した子どもの姿が80年前の日本と重なる、という感情は、原爆で亡くなっていった人々についてだけ言ったことではないだろう。80年前に血を流していた子どもとは、今、ノーベル平和賞を受賞した被爆者の方々のことだ。彼らは、今のガザの子どもたちの姿に、80年前の自分の姿を重ね合わせて見ているのだ。
そうだとすれば、ガザの子どもたちも、生き残れば、そして、憎しみの心を、平和を願う運動のエネルギーに変えて頑張っていければ、やがてノーベル平和賞を受賞するところまで到達することもあるはずだ。それは夢ではないはずだ。そうなってほしい。
そのように素直に願う気持ちが、被爆者の方々の心の中にある。その気持ちこそが、世界中の人々に強い印象を与えた真のノーベル平和賞受賞者の偉大さだ。
日本人は、この被爆者の方々の普遍主義的な平和主義を、見失うべきではない。むしろ称賛し、誇りに思うべきだ。そして国家としての日本は、被爆者の方々の偉業を称え、その精神を日本の平和主義のアイデンティティの根幹を象徴するものとして確立していくべきだ。
おそらくは、それによって日本は、自国の歴史に誇りを感じる国になる。普遍主義的な平和主義によって、自国を誇りに思えるのであれば、それほど素晴らしいことはない。