ピーコの最期を「寂しい」「つらい」と表現する報道に、ゲイの僕が抱いた「違和感」
タレントでファッション評論家のピーコさんが9月3日、敗血症による多臓器不全のため79歳で亡くなった。誰にも看取られずに亡くなったピーコさんの最期を悲劇的に報じるメディアが多いことに、ゲイであるライターの富岡すばるさんは違和感を覚えたという。
現在39歳の富岡さんにとって、ピーコさんは人生で初めて目にしたゲイの有名人だった。当初、ピーコさんのことが嫌いだったという富岡さん。時を経るなかで変化していった思いとともに、一連の報道に対して抱いた違和感と向き合い考えたことについて綴ってもらった。
※以下、富岡さんによる寄稿。
ひとりの最期は「寂しい」のか
ピーコが亡くなった。その一報が流れたのは今年10月20日のこと。実際に亡くなったのは9月3日だったという。
死亡の報せにタイムラグがあったことは、ピーコが芸能界という場所から去っていたことを改めて思い起こさせた。同時に、いつからテレビに出なくなっていたのだろうとも思った。
僕がまだ小学生だった90年代半ば〜後半、情報番組でピーコが道行く人のファッションチェックをしていたのを覚えている。学校が終わり家に帰ってテレビをつけると、そこにいつもピーコがいて、夜のバラエティ番組でもよく目にするようになっていった。
報道によると、ピーコが最後にテレビ出演をしたのは2021年のことらしい。もう何年もテレビから遠ざかっていたのである。そもそも僕の家には10年以上前からテレビがなく、毎年の大晦日に近所の友人宅で紅白歌合戦を観る以外、テレビを観る機会などほぼなかった。それなのに僕はピーコという存在を絶え間なく目にし続けていたよう気がしている。
ピーコがメディアから姿を消していたという事実と、これから永遠に不在のままだという事実を今一度きちんと確かめたくなり、訃報を知った後、僕はピーコについて書かれた記事にいくつか目を通した。その中には事実のみを淡々と伝える記事もあったが、悲劇的な最期だったことを強調するものもいくつかあった。
「寂しい日々」
「つらい晩年」
「非業の別れ」
これらはどれも実際にピーコの死を伝える記事の数々で使われていた言葉である。いずれの記事からもわかるのは、ピーコと双子の弟であるおすぎは互いに認知症であったこともあり、同居を解消し、それぞれが別々の高齢者施設で生活していたこと。そんな中で、ピーコが亡くなったこと。それらの経緯を「寂しい」「つらい」「非業」と形容しているということだ。
しかし、人生最期の瞬間に家族やパートナーがいないのは、寂しくつらいことなのだろうか。少なくとも僕の中にあるピーコ像は、そういったイメージと遠いところにある。
「ひとりで暮らす幸せ」を語っていたピーコ
というのも、2001年に発売された『ピーコ伝』という書籍を僕は読んでいたからだ。糸井重里が聞き手となり、ピーコが自分自身について語った本なのだが、そこに書かれている言葉をいくつか引用したい。
“だれかと一緒に暮らすのなんて、まっぴら”“生活の「好み」ってあるでしょ?(中略)自分のご飯は自分でつくれるし、お掃除も洗濯も上手だし、わたしには、ひとりで暮らしていてつらいどころか楽しいわけじゃない?”
この発言はピーコが性について語る際、男性とそういった行為をしたいという欲望はそこまでなく、ずっと誰かと一緒にいたいという願望もないと話した文脈でのものである。
ひとりで暮らすということに幸せを見出し、恋愛に重きを置かないという生き方は、本を買ったときにまだ20代だった僕に強烈な印象を与えた。こういったピーコの人生観がうっすらと記憶の片隅に残り続けたということもあり、僕はさまざまな記事の中でその最期が孤独だったかのように書かれていることに強い違和感を抱いたのだ。
また、44歳でがんになり、左目を取った際の心境もこう語っている。
“ひとには寿命があっていずれ死ぬって気づいた。けれど、それで落ち込むことはありませんでした”“「あとどれぐらい生きられるかはわからないけど、神さまがわたしのロウソクに少し足してくれたぶん、ひとのために役立つようなことができればいいな」と思ったんです”
やがて訪れる死というものすらも、このときすでに見据えていたことがわかる。しかしながら、この本を読んだ当時の僕はピーコにエンパワーメントされたわけでも感銘を受けたわけでもなく、“ピーコのようには生きないぞ”という思いを強くしていた。なぜなら、ひとりで暮らし、恋人や性愛の相手もいないまま、見知らぬ誰かのために生きて老後を迎えるなんて孤独な人生でしかない、と他でもない僕自身が考えていたからなのである。
ピーコのことが嫌いだった
覚えている限りで、ピーコは僕が人生で最初に見たゲイの有名人だ。自分と同じ同性愛者がテレビにいるという事実は今振り返れば心強いことだったようにも思うが、当時はピーコに対して嫌悪感を抱いていた。
それでも本を買っていたところを見ると、ピーコそのものが嫌いだったというより、男らしくない仕草をする自分が周囲からピーコと呼ばれて嘲笑われることや、自分と同じ同性愛者であるピーコがこうして嘲笑の対象になっているという事実を突きつけられることがたまらなく嫌だったのだと思う。
厳しいことを言うけれど、誰のことも傷つけず、みんなを導き、その場の空気を丸く収める。でも、その場の中心に立っているわけではなく、どこか少し離れたところで全体を見ている。テレビ画面の中のピーコは、まるで保護者のような優しさや愛情を周囲に注いでいるのに、同じだけの優しさや愛を返されてないように見えるのも、たまらなく嫌だった。『ピーコ伝』の中でも糸井重里がピーコを“「日本のおかあさん」だと思っている”と評し、こう記している。
“ある程度の距離感を保ちながら、息子や娘に愛情を注ぐ。そして、自分を押し殺して生きるなんてことを否定しつつ、家族を思いやる。さらに、「安定」以上に大切な「勇気」を子供たちに教える。もうひとつ、飾ることは、人が人らしく生きていくための必要条件なんだと、はっきり言い切る”
この記述がピーコという人物をどれだけ言い得ているかはわかりかねるが、僕もピーコをみんなの保護者のようだと思っていた身として共感できる部分はある。それでも考えずにいられなかったのは、みんなを愛し思いやるピーコのことを愛する人や家族はいないのか、ということだ。それはなんて孤独なのだろう、と。僕にとってゲイとして生きていくということは、いかにして自分の中にある「ピーコ像」から離れるかということだった。
「ピーコ像」に近づいている今、思うこと
そんな僕は現在39歳で、恋人はいない。かつて避けていたピーコのような立ち振る舞い──フェミニンな話し方や動き方──を特に気にせず日常の中でしている。幸いなことに僕には同世代のゲイ仲間がいて、彼らの多くも独身であるが、それぞれ楽しい日々を送っている。それでも、もし僕たちが今亡くなったら、パートナーも子供もいない孤独な人生だったと言われるのだろうか。かつての自分だったら、あぁ孤独だね、と言っていたかもしれない。いくつもの記事がピーコに対して綴った「寂しい」「つらい」「非業」という言葉を自分自身にも当てはめながら。
今の僕は、昔あれだけ離れようとしていた「ピーコ像」へと近づいていっているわけだが、寂しくもなければつらくもない。人生のパートナーと呼べる恋人も、自分でつくった家族もいないが、一緒にこの社会を生きている仲間や友人たちが大きな意味での家族なようなものだと感じている。そういった心境にこの年齢でたどり着けたのは、ピーコのような人が道の先をずっと歩いていてくれたおかげかもしれない。
ピーコがメディアに出なくなってからも常にどこかで見かけているような気がしていたのは、その存在感や影響力を、この社会のいたる所に見ていたからだった。ピーコには血筋を継ぐ子供がいなかったかもしれないが、その存在を引き継ぐ無数のものたちは今も確かに生き続けている。それは社会変革の一場面だったり、もしくは僕自身の人生だったりする。自分もいつかこの社会の誰かに何かを遺せるだろうかと問いながら、ピーコの切り拓いた道を歩いている。