出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)


 稀代の企業家にして、社会事業家。新一万円札に肖像が採用された渋沢栄一は、日本近代資本主義の父とも呼ばれる。大正5(1916)年に刊行された講演録『論語と算盤』は、金儲けは卑しいものとされ道徳とは相容れないと考えられていた時代に、論語を基にした道徳とビジネスを調和させることで社会をよりよくできることを示して、社会に大きな影響を与えた。本連載では、『詳解全訳 論語と算盤』(渋沢栄一著、守屋淳訳・注解/筑摩書房)から、内容の一部を抜粋・再編集。今や大谷翔平選手の愛読書としても知られる本書を、分かりやすい現代語訳と詳細な注釈を通じて読み解く。

 第1回は、社会や個人の健全な発展のために必要なものを概観し、渋沢栄一のモットーがどのようにして生まれたのかについても解説する。

<連載ラインアップ>
■第1回 道徳と富は相反する? 稀代の企業家・渋沢栄一が説く「道徳経済合一」とは(本稿)
■第2回 なぜ道徳の書で「商人の才覚」が学べるのか?渋沢栄一が語る「士魂商才」とは
■第3回 自分ではどうにもできない…逆境に立たされた渋沢栄一が考えた「唯一の策」とは?(10月29日公開)
■第4回 「武士は喰わねど高楊枝」はなぜ誤解なのか?渋沢栄一が諭す「仁の徳」と「財産」を両立させる方法(11月5日公開)
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『論語』とソロバンは、とても遠くて、とても近いもの

『』(筑摩書房)



 われわれが道徳の手本とすべき最も重要な教えが載っているのが、弟子たちが孔子(1)のことについて書いた『論語』(2)という書物だ。これはたいていの人は読んだことがあるだろう。

 わたしはこの『論語』に、ソロバンというとても不釣り合いで、かけ離れたものをかけ合わせて、いつもこう説いている。

「ソロバンは、『論語』がないと、成り立たない。『論語』に象徴される道徳もまた、ソロバンに象徴されるビジネスや経済の働きによって、現実の活動と結びついてくる。だからこそ『論語』とソロバンは、とてもかけ離れているように見えて、実はとても近いものでもある」

 わたしが70になったときに、友人が1冊の画集を造ってくれた。その画集の中に『論語』の本とソロバン、一方にはシルクハットと大小の朱色に塗った刀のサヤが描いてある絵があった。ある日、学者の三島毅〔みしまき〕(3)先生が、わたしの自宅にいらっしゃって、その絵をご覧になって、こう言われた。

「とても興味深い。わたしは『論語』を研究する学者で、おまえはソロバンを使って経済活動している方だ。そのソロバンを使っている人が『論語』のような本を立派に語る以上は、自分もまた『論語』だけで済ませず、ソロバンを使う経済活動の方も大いにきわめなければならない。だから、おまえとともに『論語』とソロバンをなるべくくっつけるように努めよう」

 そのうえ、『論語』とソロバンについて、道理と事実と利益とは必ず一致するものであることを、さまざまな例証をそえて本格的な文章に書いてくださった。

 わたしは常々、モノの豊かさとは、大きな欲望を抱いて経済活動を行ってやろうというくらいの気概がなければ、進展していかないものだと考えている。空虚な理論に走ったり、中身のない繁栄をよしとするような国民では、本当の成長とは無関係に終わってしまうのだ。

 だからこそ、政界や軍部が大きな顔をしないで、実業界がなるべく力を持つようにしたいとわれわれは希望している。実業とは、多くの人に、モノが行きわたるようにするなりわいなのだ。

 これが完全でないと国の富は形にならない。国の富をなす根源は何かといえば、社会の基本的な道徳を基盤とし、正しい方法で手に入れた富なのだ。そうでなければ、その富は完全に永続することができない。

 ここにおいて『論語』とソロバンというかけ離れたものを一致させることが、今日の急務だと自分は考えているのである。

(1)前552〜前479 本名は孔丘〔こうきゅう〕、子〔し〕は先生という意味。中国の春秋時代末期に思想家・政治家・教育者として活躍した。
(2)孔子とその弟子たちの言行を孫弟子や曾孫弟子がまとめたといわれる。孔子自身が書き残したわけではない。
(3)1831〜1919 号は中洲〔ちゅうしゅう〕。現在の二松学舎〔にしょうがくしゃ〕大学の創立者。新治〔にいはり〕裁判所長や大審院〔だいしんいん〕判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛〔とうぐうごようがかり〕などを歴任した。

■解説:渋沢栄一のモットーの由来

 渋沢栄一のモットーとして有名なのが、本書のタイトルともなった「論語と算盤」であり、他にも「道徳経済合一説」「義利合一」といった言葉があります。

 いずれも意味はほとんど同じで、社会や個人の健全な発展のためには「道徳と経済」や「公益と私益」といった対極的要素の両立が必要であると唱えています。ただし、これらのモットー自体はもともと、漢学者である三島中洲(本文では三島毅ですが、ここでは一般的な三島中洲という呼び名を使います)が発案したもので、栄一のオリジナルではありませんでした。

 三島中洲は、東京帝国大学教授や東宮の侍講(皇太子の教育係)をつとめ、今の二松学舎大学を作った人物。そんな彼は、江戸時代の末期に、師匠であった陽明学者・山田方谷〔やまだほうこく〕(1805〜1877。名は球)とともに備中〔びっちゅう〕松山藩(今の岡山県高梁〔たかはし〕市あたり)の藩政改革に関わったことがあります。

 本書の中で栄一は、儒教のなかでも大きな影響力を持った朱子学を「口で道徳を説いたうえに、自分自身でも社会正義のために現場で苦労しようとはしなかったのだ」(380頁)と、しばしば批判しています。一方、山田方谷や三島中洲が影響を受けたのは、理論よりも実践を重視する陽明学の教えでした。

 実際に2人は、藩政改革の実践によって、借金に苦しむ藩の財政を立て直し、藩や領民を豊かにしていったのです。中洲はこの意味で、素晴らしい政治には、健全な経済活動が必要不可欠であることを実体験していた人物でした。

 三島中洲は明治10(1877)年、第八十六国立銀行(今の中国銀行)の設立準備に携っていたのですが、このとき相談をもちかけた一人が渋沢栄一であり、2人が知り合うきっかけとなったようです。

 ただし、2人の関係が本格的に深まったのは、渋沢栄一が69歳で実業界を引退してから。栄一は晩年に『論語講義』という本を残していますが、栄一の論語解釈には、中洲の影響が非常に色濃く出ています。

 さて、そんな三島中洲は、明治19(1886)年に、東京で「義利合一」と題した講演を、さらに、明治41(1908)年には、「道徳経済合一説」と題する講演を行っています。後者の講演のさいに中洲は、栄一に「道徳経済合一説」という小冊子も作って、送りました。

 一方で、栄一の方も──中洲のようなわかりやすいキャッチフレーズは作らずとも──まったく同じ考え方を心中抱いていました。ある講演のなかで、こんなことを述べています。

「三島先生が、『道徳経済合一説』という文章を書かれた原因は、明治39年の孔子祭典会での私の演説なのです。わたしはそこで、『実業界より見た孔夫子〔こうふうし〕(孔子の別の呼び方)』という一説を述べました。

 それを三島先生が丁寧に聴かれて、『あなたは実業家であのように言われたが、学者側でも、またこう考えているのだ』といって、この小冊子を下さったのです。私が前に申し述べたのは、実業家側から仁義道徳を論じたものですが、三島先生は、道徳経済の根原について論じられたのです。(中略)

 私が平素、実業側から唱えていた『道徳経済合一説』が、まるでこちらから先方に出向いていったら、先方からも迎えに来てくれて、途中でお互いに会ったような感じがして、ますますこうした考え方の信用を世間で増していくように思われて、自分もとても愉快に感じました」(4)

 お互いジャンルは違えども、同じことを考えていて、しかもお互いの交流の中から、モットー自体が生まれてきた面もあるのだ、というのです。

 こうした経緯を踏まえて、渋沢栄一は、「論語と算盤」「道徳経済合一説」「義利合一」といったモットーを──発案は三島中洲であったとしても──わが物として使っていたようです。

(4) 『渋沢栄一伝記資料』第42巻「竜門雑誌」第340号「竜門社春季総集会に於て」引用者訳。
 

<連載ラインアップ>
■第1回 道徳と富は相反する? 稀代の企業家・渋沢栄一が説く「道徳経済合一」とは(本稿)
■第2回 なぜ道徳の書で「商人の才覚」が学べるのか?渋沢栄一が語る「士魂商才」とは
■第3回 自分ではどうにもできない…逆境に立たされた渋沢栄一が考えた「唯一の策」とは?(10月29日公開)
■第4回 「武士は喰わねど高楊枝」はなぜ誤解なのか?渋沢栄一が諭す「仁の徳」と「財産」を両立させる方法(11月5日公開)
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筆者:渋沢 栄一,守屋 淳