入内後に中宮・彰子が父の道長らとともに参詣した大原野神社(写真: YHY / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は権力を強化しながらも、病と闘った藤原道長のエピソードを紹介します。

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関白・藤原道隆(道長の兄)を祖とする中関白家は、長徳の変(996年、花山院闘乱事件)によって没落していきます。

事件を起こした藤原伊周(道隆の子)らは左遷。この処分を実質的に取り仕切っていたのが、藤原道長でした。道長は、権力闘争の宿敵を朝廷から追放したのです。そして右大臣となっていた道長は、左大臣に昇進します。

大病を患った道長

出世街道を歩む道長は、これまでも病になることがありましたが、998年には大病を患いました。「腰病」とのことでしたが、それは邪気によるものとされました。

そこで道長は「日頃から出家の意思があった。それを成し遂げよう」と思い、そのことを一条天皇に奏上します。

しかし、一条天皇は「道長の病は邪気によるもの。道心(仏を信じる心)を固くしていれば、必ず癒えよう。病魔を祓うために、僧侶80人を遣わそう」と仰せになり、出家をお許しになりませんでした。

それでも、道長は諦めません。「出家のことは、かねての望みでございます。すでに官爵を極め、現世に望みはありません。今は病となり、もう存命することはできないでしょう」と、仲介者(藤原行成)を通して、天皇に再度奏上したのです。

一条天皇も諦めません。「道長の言い分もわかる」としながらも「外戚(母方の親戚)で、朝廷の重臣である道長は、天下を治める宰相であり、私は補佐する立場にある。道長なくして、誰に務まるのだろうか。今は重病と聞くが、邪気がそうさせているのであり、出家まですることはない。よく考えてほしい」と重ねて慰留したのでした。

一条天皇にここまで言われたら、感激して、考えを改めるものですが、道長は「勅命(天皇の命令)は貴いもので、逃れることはできません。しかし、病が重いのです。出家の本意を遂げたいということを、重ねて申し上げたいと思います」と返答するのでした。

結局、一条天皇からはお許しをもらえませんでしたが、内覧(天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書などを先に見ること)は停止されています。

ところが、1年後には、道長は内覧に復帰しているので、これは病による臨時的処置、配慮だったのでしょう。998年の冬には政務を行っているので、病は治ったのだと思われます。

病の一方で、権力を強化するために動く

病を患った一方で、道長は権力をより強化するために画策します。999年11月1日、道長は長女の彰子を一条天皇のもとに入内させるのです。

この時点で一条天皇の後宮には、定子(藤原道隆の娘)、尊子(藤原道兼の娘)、義子(内大臣・藤原公季の娘)、元子(右大臣・藤原顕光の娘)がおりました。彰子にはライバルが沢山いたと言えるでしょう。

一方で、このときはまだ誰も皇子は産んでいませんでした。病み上がりの道長にとって、長女・彰子の入内は朗報だったと言えるでしょう。

彰子の入内に従ったのは、女房40名、童女6名・雑用担当者6名でした。紫式部はこの5年くらい後に、女房として仕えることになります。彰子は、15センチ以上の黒髪の美人で、12歳とは思えないほどの落ち着きぶりだったと言います。


彰子の懐妊を祈願するために道長が参詣したとされる金峯山寺(写真: Yama / PIXTA)

さて、彰子の入内からしばらくして、中宮定子が皇子を出産します。敦康親王です。

道長は、皇子の7夜の産養(子供の将来の多幸と産婦の無病息災を祈る儀式)に奉仕しています。

しかし、内心は複雑な感情が渦巻いていたと思われます。長女・彰子にも早く皇子が誕生してほしいという思いとともに、もしそれが難しい場合は、自分が敦康親王の後見人になることも考えたのかもしれません。

後宮での彰子の立場を高めたい道長は、彰子の立后に向けて動いていました。

このとき、すでに定子が中宮の座についていました。彰子が立后したら、1人の天皇に、中宮が2人並び立つ事態になってしまいます。

ところが、定子は出家している身のため、国のための神事を行うことができません。よって「日本は神国であり、神事を重視すべき」との考えから、彰子の立后を主張する人もいました。

そこで1人の天皇に2人の后が並び立つ前例のないことを前に、対策が講じられます。彰子を中宮として、定子を皇后にするというのです。

そして1000年2月、彰子はついに中宮となります。史上初の「一帝二后」が実現したのです。

しかし、それは長くは続きませんでした。定子は同年12月に媄子内親王を出産しましたが、出産直後に亡くなってしまったのです。25歳という若さでした。

またもや体調を崩した道長

そして彰子の立后後、道長も体調を崩していました。またもや、重病となった道長は、政務を右大臣に任せることにします。天皇は道長の身を案じ、今度は100人の僧侶を道長に与えました。

道長は左大臣でしたが、左大臣の辞職も許されます(病平癒後には復職しました)。

先にも述べたように、何度も病に悩まされた道長は、困難を乗り越えて、権力をまた固めていきました。

ところが、このときの道長の病は重く、官職を辞退したい旨を上表しました。このときの病は「厭魅、呪詛」が原因とされました。

病中の道長には、亡き兄・道兼の霊託があったようです。道兼の霊が現れて「道長の顔は、病中でも鮮やかなこと、道兼邸の粟田山荘は寺院にすべきこと」などを告げたというのです。

また、邪気の詞というものもあり、それは「藤原伊周をもとの官職に戻したら、病は治るであろう」というものでした。道長はこのことを藤原行成に話したところ、行成は一条天皇のもとに赴き、道長の話を伝えます。

しかし、一条天皇は霊の言い分を許容しませんでした。そのことを聞いた道長は、怒りの形相となったようです。怨霊の病は、最高権力者をも恐れさせました。そして、その後道長の病は無事に平癒したのでした。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社、2013)
・倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社、2013)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)