「もう顔も見たくない、出て行け!」師から言われた一言…68歳の歌舞伎俳優・坂東彌十郎が、それでも前に進み続ける理由

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2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の出演以降、話題作への出演が続いている歌舞伎俳優・坂東彌十郎(68)。最新映画「スオミの話をしよう」(9月13日(金)全国公開)は、「鎌倉殿の13人」でも脚本を担当した三谷幸喜監督の最新作だ。彌十郎が演じるのは、主人公のスオミ(長澤まさみ)の現在の夫である身勝手な芸術家。本作出演への想いと、これまでの歩みについて彌十郎が語る。

背が高くて子役になれなかった

一昨年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』への出演以来、歌舞伎ファンだけではなく多くの視聴者の心を鷲掴みにしている坂東彌十郎。主人公・北条義時の父であり、策謀家として名高い鎌倉幕府初代執権・北条時政を、どこか憎めないお茶目で親しみを感じさせるキャラクターに変えたのも、ひとえに彼本来の性格に根ざしたものである。

その後、バラエティー番組の出演に加え、ドラマや映画へとさらに演技の幅を広げている。梨園では大ベテラン。映像の世界では初心者だと謙遜するが、ここに至るまでには幾度とない挫折に苦しんできた。

「僕は、歌舞伎俳優の坂東好太郎の三男として、東京で生まれましたが、当時父は歌舞伎を離れ映像の仕事をしており、幼稚園に入る頃に父の映画の仕事のために太秦に引っ越したので、京都で3年ぐらい暮らしました。周りは田んぼで、あとは撮影所のオープンセットの森があるぐらいだったので、しょっちゅう父にくっついて撮影所に行ってました。だから、撮影所が遊び場でしたね。

踊りの稽古は、3歳からやっていたんですが、京都にいる間は日本舞踊からは遠ざかっていました。なぜかって、バレエ教室に通っていたからです。女の子たちが楽しそうに踊っていたので、自分もやりたいと言って、男1人でタイツをはいてね。それもたぶん、好きな女の子がいたのがきっかけだったと思います」

父親が歌舞伎に戻ったのを機に、東京に帰ってきたのは小学1年の時だった。その頃には、歌舞伎俳優になりたいと思っていたが、既に周りの子たちより背が高かったことから、子役として舞台には立たせてもらえなかったという。なんと中1の時に160センチを超え、高1では180センチを超えていたそうだ。

「やっぱり、子役は背が小さくてしっかりしている子がいいんですよ。だから、1つ上の十八代目中村勘三郎さんや、同い年の十代目坂東三津五郎さんが、名子役として活躍する姿が羨ましくて。なのに、中学ではバスケットボール部に入部しちゃったものだから、益々背が伸びてしまった(笑)」

悔しい思いが原動力に

よく遊んでもらっていた勘三郎から、「おまえ、中学は俺と一緒の学校に来いよ」と言われ、同じ中学校を受験した。

「受験なんて考えてもいませんでしたし、言われたのも小6の二学期ですから、時間がない。すぐに家庭教師をつけてもらって、必死に勉強しましたよ。でも、落ちてしまった。何とか補欠で拾ってもらえましたけど、あんなに勉強したのは、中学から高校に上がる進級試験と、その中学受験の時の2回だけです。やっと入った学校なのに、『受験しろ』と言った当人は、舞台ばかり出てて学校に来やしない」

日本舞踊と三味線の稽古は続けていたものの、初舞台は1973年の歌舞伎座『奴道成寺』の観念坊役で、17歳と非常に遅かった。

「スタートが遅いということで、なかなか役が付かなくて悔しい思いをしましたね。だけど、そこで不貞腐れたら終わりですから、頑張るしかないんです。その時の『畜生』『何クソ』という悔しい思いが、僕の原動力になっていたんだと思います」

そんな彌十郎の思いを知り、初舞台の2年前から稽古をつけてくれていた、叔父の八代目三津五郎の部屋子になることが決まっていた。ところが、フグに当たって不慮の死を遂げてしまう。その後、もう一人の叔父の十四代目守田勘弥が引き受けてくれることになるが、彼もまた2か月後に亡くなってしまう。

歌舞伎の後ろ盾を失い、役も付かなくなってしまったため、父の元に戻ることに。父親は、歌舞伎以外に商業演劇の仕事もやっていたため、彌十郎も出させてもらったそうだ。

「山本富士子さん、大川橋蔵さん、中村錦之助さんと、そうそうたる人たちとご一緒させていただきました。20代前半は、歌舞伎だけではない経験をいろいろさせてもらいましたが、今考えると、あの時の経験が、僕の頭を柔らかくしてくれたのでよかったなあ、と。ただし、根底では『僕は古典を勉強したいのに』という思いが強くて、自分が出ていない時は、他の歌舞伎を観に行って大先輩たちの姿を目で追って、肥やしにしてました」

父の死と、師・猿翁との出会い

しかし、そんな父親も彌十郎が25歳の時に亡くなってしまう。

「僕は、二代目市川猿翁さんの歌舞伎が大好きだったので、父が倒れた時に『猿翁さんの所で勉強したい』と言ったんです。そしたら、『それはいいね。じゃ、電話してあげる』と入院先の病院から電話をかけてくれて『預かってくれると言ってるよ』と言われたんです。

そして半年後に父が亡くなると、猿翁さんは『遺言だと思って、僕はアンタのことをずっと面倒見るからね』と僕を引き取ってくださいました」

その後、門下を離れるまでの15年間、猿翁の傍で様々なことを学ぶ。スーパー歌舞伎の立ち上げの他、ヨーロッパ公演でのオペラの演出助手も務めた。

「僕の人生の中で、猿翁さんとの出会いは一番大きいですね。睡眠不足で、本当に大変でしたけど。だって、お稽古が厳しいのは当たり前で、『人間は3時間寝れば大丈夫』という考えの人でしたから。常に『あなたね、寝ることを考えてちゃダメだよ。その間に勉強できるだろ』って感じなので。『はいはい』と言いながら、僕は居眠りしてましたけど(笑)

また、口癖のように『古典は自分で勉強しなさい。既存のもの、基本の勉強をするのが大事なんだ』と。『自分でできること以外は、僕が教える』と言って、勉強会では本当に細かく教えてくださいましたね。

つまり、『基本ができているから、スーパー歌舞伎をやってもいいんだ』という考え方ですね。要は、型があるから型破りができる。型がなくて、最初からメチャクチャにやったら型なしだから、『型破り』と言われるためには、型をきちんと作りなさいということなんです」

ヨーロッパに歌舞伎を根付かせたい

毎年のようにヨーロッパ公演に同行するうちに、自らももっと海外でやってみたいという思いが芽生えてきた。

「ヨーロッパの人たちは、歌舞伎に対する考え方が素晴らしいし、表現がストレートなんですよ。幕が下りた後のスタンディングオベーションも、強烈で涙が出ちゃいましたね、嬉しくて。

特に、ラテン系は『ブラボー!』って、いきなり立ち上がりますから。またドイツは、床をドンドン踏み鳴らしながら『ブラボォ〜!』って感じ。フランスは、幕が開いた頃は『何ができるの、やって御覧なさい』と、お手並み拝見みたいな感じなんだけど、終わった時には会場がすごく温かい雰囲気に包まれるんです。

そんな体験を重ねるたびに、もっと海外で歌舞伎を広めたい、僕も同じように自分で海外公演をやりたい、と思うようになりました。それで15年目に、猿翁さんに『やめさせてください。独立させてください』と言いに行ったんです」

師の元を離れる許しを得るため2日間、軽井沢の別荘へと通ったそうだ。

「猿翁さんは『俺のとこでやってりゃいい』の一点張りでね。僕が結婚してすぐの時期だったんですけど、最後には『じゃあ、奥さんを連れてきな』と言われて、家内と一緒に行きました。猿翁さんは、家内を信用していたので、家内が『すみません。今度だけは、この人のやりたいようにやらせてください』と頭を下げた途端、ポロポロ涙をこぼして『もう顔も見たくない、出て行け!』って」

破門のような形で一門を去ったが、長男・新悟と自主公演『やごの会』を立ち上げ、実際にヨーロッパ公演を行ったのは、なんとその20年後、60歳の時だった。

「猿翁さんに報告に行った時は『やっとだね』と言われました。10数年経った頃には、一門の芝居のゲストで呼んでもらったりしてくださいましたから、僕のことをずっと気にして、見守ってくださっていたんですよね。ただ、海外公演は結局、1回やっただけで何の継承にもなっていないので、何とか継続できないかと思っています。

また、海外でもっと公演をやっていけば、歌舞伎の表現の仕方も変わるんじゃないか、と。例えば、向こうには歌舞伎座のような、花道のある劇場はないですから、そういう劇場を1つ作っておけば、そこから新しい演劇が生まれるんじゃないか。

そのために、いろんな国や様々なジャンルの作品ができる劇場を何とかヨーロッパに作りたい。そして、ヨーロッパで歌舞伎を根付かせたい。これは、絶対に実現させたいですね。僕が死んだ後になってしまっても構わないので、道筋だけでもつけておこうと思っています」

後編「長澤まさみの「現在の夫」は 68歳の歌舞伎俳優・坂東彌十郎!…三谷幸喜・監督最新作で見せた「何だか憎めない可愛げのある奴」」に続く…

ヘアメイク/永井 絵美子(JOUER)

スタイリスト/加藤あさみ

長澤まさみの「現在の夫」は 68歳の歌舞伎俳優・坂東彌十郎!…三谷幸喜・監督最新作で見せた「何だか憎めない可愛げのある奴」