連載『山本昌のズバッとスクリュー』<第2回>

 近年、"投高打低"が再び加速しているプロ野球。もうすぐ「マイナビオールスターゲーム2024」の開催も迫っており、シーズンも前半戦を終えようというなか、セ・パ両リーグで3割バッターは3人(7月3日時点)と、投手有利の傾向が顕著に表れている。

 この状況を、50歳まで現役生活を送り、時代によってさまざまなボールを投じてきた中日のレジェンド・山本昌氏はどう分析しているのか。プロ野球における"現環境"に対する考えを"ズバッ"と語ってもらった。


セの3割打者は巨人・丸とヤクルト・サンタナのみに? photo by Koike Yoshihiro

【"投高打低"の打開策は「飛ばすコツ」を見つけること】

 現在のプロ野球は、"投高打低"の傾向が強まりつつありますが、全体的にピッチャーの技術力が進化しているのと、昔と比べてだいぶボールのスピードが上がっているのが大きな要因ではありますね。スピードガンだと、僕が現役のころより平均で5キロぐらいは速さが増しているのではないでしょうか。それに加えて、変化球の球種も増えていますし、バッターは、いろんなボールに対応しなければならないので大変だなと感じます。

 ホームラン王のタイトルを獲得するような外国人選手がいなくなったことも要因のひとつ。今季だけ見ても、純日本人打線を組んでいるチームが多いですし、とくにセ・リーグは外国人野手が少ない印象があります。

 かつてはウラディミール・バレンティン(元ヤクルトなど)、アレックス・カブレラ(元西武など)、タフィ・ローズ(元近鉄など)のような、ホームランを40本、50本打つ"助っ人"が何人もいました。ですが、いまは、ホームラン王争いに必ず外国人のカタカナの名前があるという、そんな時代じゃなくなりましたよね。

 それを含めて、全体的に長打が減っているというのも"投高打低"の深刻化につながるひとつの要素かなと。

 あと、これは風のウワサというか、あまり信憑性がないことなのではっきりとは言えませんが、「今年のボールは飛ばない」という声はオープン戦中から聞こえてはいました。実際にグラウンドに降りて、選手や首脳陣と話している時に「山本さん、今年ボール飛ばないんですよ」と。

 キャンプ中では確信が持てなくても、何年も試合をしている本拠地の球場でのオープン戦が始まると、慣れ親しんだ空間・空調のなかでバッティングをした時に「飛ぶ」「飛ばない」の感覚の差が、よりはっきりしたものになる。そこでボールの違いに気づく選手って多いんです。

 ただ結局、これはウワサの域を出ません。いまは12球団で統一球を使っていますけれど、これを作っているメーカー(ミズノ社)は非常に制度・技術力が高く、どれも素晴らしい品質を誇りますから。強いて言えば工業製品なので、多少の個体差はあるとは思います。ですがそれは微々たるもの。プラスで湿度や温度によって飛び方が変わったり、いろんな条件が重なって「飛ばない」と感じることもあるかもしれませんが、統一球の規約は変わっていないので、"投高打低"の要因がボールだと断言することはできないのではないかと思います。

 "おかわり君"こと西武の中村剛也選手は、低反発の統一球が採用された2011年にホームラン48本を打って、ぶっちぎりでタイトルを獲得しましたよね。要は、その時々のボールを「飛ばすコツ」ってあると思うんですよ。だからそれを選手たちが研究して見つけていってほしい。12球団で同じボールを使っているわけですから、ハンディはないので、勝つために、打つために、いろいろ試行錯誤して頑張ってほしいですね。

【"3割打者減少"の理由は投手の技術と成長意欲の向上にあり】

 セ・リーグの現状として、3割を超えるバッターはドミンゴ・サンタナ選手(ヤクルト)と丸佳浩選手(巨人)の2人のみ(7月3日時点)。昨季もセパ両リーグ合わせて5人しかおらず、打率で見ると、"投高打低"の傾向がより鮮明になったように感じます。

 ピッチャー側の視点で話すと、冒頭でも触れましたが、やはり投球における技術力の向上や球種の増加、加えて「決め球」が多いのもバッターが打てなくなっている要因になっている気がします。

 人間の目って横に並んで付いているじゃないですか。なので、横方向の視野の方が広いんですよ。つまり、スライダーやシュートなど横変化の変化球はバットがついていきやすい。一方でフォークやチェンジアップといった縦変化には弱い、というのは必然なんです。いまはほとんどのピッチャーが決め球として落ちるボールを持っているので、もちろんバッターによってはうまく打ちますが、バットで捉えることが難しくなっているのは見ていて感じるところです。

 それに現代のピッチャーを見ていると、いろんなことに対して積極的にトライするようになりましたね。昔は真っすぐの速さと質、持ち球の変化球を磨く、というのが常識の時代でした。なぜならピッチャーは、練習で500本打とうと思えばできるバッターに比べて、ブルペンで500球も投げることなんてできないからです。1日あたりの投球数に制限があるとわかっていれば、持ち球の制度やキレを磨くほうに肩を使おうと思うじゃないですか。

 でもいまは、自分の持ち球以外の球種もひと通り投げて試したりと、新しいものをどんどん取り入れようという考え方になっています。それでも質のいい真っすぐやキレのある多彩な変化球を投げられるのは、プロ野球のピッチャーのレベルが全体的に上がっているにほかなりません。本当に僕らの時代に比べて、すごい技術力だなと感心します。

【テクノロジーで加速する投手の進化】

 ピッチャーの技術が高くなっている背景には、トラックマンなどの高性能の機材が並ぶ環境が、プロ野球の各チームでしっかり整っているというのもあると思います。投げたボールの速度や軌道、回転数などを数値化してもらえるとわかりやすいですし、練習して数値が伸びると「これで合ってるんだな」と、正しい練習方法も見えてくる。

 自分の感覚も大事ですが、具体的な数値を参考にしたほうが、ボールの握り方だったり、投球フォームだったりを細かく微調整しながら試行錯誤することが可能になります。無駄なく効率の良い練習ができるのは、投球制限のあるピッチャーにとって非常に大きいです。

 僕が現役時代のころはそういった環境下にはなかったですが、個人的に投球で意識していたのは、リリースポイントだけはしっかりと自分のものを持つこと。これは大事にしていました。投球フォームに関しては、その時の体調や体の変化によって変えても大丈夫だという考えでやっていましたから、とにかくリリースポイントを安定させるための心がけは欠かさなかったです。

 さらに高性能なトラックマンがあったら、もう少し速いボールを投げられたかもしれませんね(笑)。こっちのフォームのほうが腕を振れる、スピードが速いなとか、ボールへの伝わり方がいいなとか、そういうちょっとした感覚を、数値を見ながら調整できるので。

 こういった、ピッチャーの能力が伸びやすい環境、テクノロジーの進歩が、"投高打低"に影響している部分は少なからずあるように思えます。

【"打高投低"に覆る可能性も十分にある】

 振り返ると、近年は打球が「飛ぶ」「飛ばない」で議論が起こっていますが、僕自身、現役時代はボールの影響をあまり感じなかったように思います。というのも、1980年代後半から2000年代前半にかけては、まだどの球場もそんなに広くなかったんですよ。広島市民球場(現・MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島)やナゴヤ球場(現・中日2軍本拠地)、神宮球場は狭く、東京ドームがいちばん広い球場でしたから。

 甲子園は比較的広かったですが、ポール側にはけっこう簡単に打球が入ってしまうので、どの球場でもボールが飛ぶかどうかは関係なく、バットの芯に当てられたらスタンドイン、という印象でした。ですので、ボールの影響どうこう、という感覚はありませんでしたね。

 ボールに関しても、球場によってメーカーが違ったんですよ。関東で試合をする時はこのボール、関西でする時はこのボールというように、地域やチームでメーカーが違うこともありました。

 なかでも手にしっとり馴染むようなミズノのボールを使用していた東京ドームでは、すごく投げやすかったです。とはいえ、東京ドームは打球が飛びやすいので一発に対する恐怖心もありましたが。ほかにも神宮球場で使うボールは「けっこう滑るなぁ」と思いながら投げていましたし、いろんなメーカーのボールが各球場で使われていましたね。

 いまは12球団統一のボールになりましたし、どの球場も広くなりました。なので、当時のバッター心理と比べると、いまの選手は「長打を打つのは難しい」というマイナス思考でバッターボックスに入っているのではないかと。その可能性を考えてしまいます。

 ただ、これから本格的に夏の季節に入ってくると、暑さでピッチャーがバテるのは早くなりますし、バッターは汗が出ることでバットが振れるようになってくる。いまは3割バッターや全体的な長打は少ないですけど、シーズンが終わるころにはもう少し増えているとは思いますし、"投高打低"が逆転する可能性だって大いにあると思いますよ。

【Profile】
山本昌(やまもと・まさ)/1965年生まれ。神奈川県出身。日大藤沢高から1983年ドラフト5位で中日に入団。5年目のシーズン終盤に5勝を挙げブレイク。90年には自身初の2ケタ勝利となる10勝をマーク。その後も中日のエースとして活躍し、最多勝3回(93年、94年、97年)、沢村賞1回(94年)など数々のタイトルを獲得。2006年には41歳1カ月でのノーヒット・ノーランを達成し、14年には49歳0カ月の勝利など、次々と最年長記録を打ち立てた。50歳の15年に現役を引退。現在は野球解説者として活躍中。