山本は様々な苦悩を乗り越え、パリ五輪メンバー入りを掴んだ。写真:金子拓弥(サッカーダイジェスト写真部)

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 パリ五輪に挑む大岩ジャパンのメンバーがついに発表された。ここでは56年ぶりのメダル獲得を目ざすU-23日本代表の選ばれし18人を紹介。今回はMF山本理仁(シント=トロイデン)だ。

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 何度も道に迷いそうになった。その度に光を探し、もがき苦しんだ。出口はどこにあるのか――。そんな想いで彷徨い続けたが、気が付けばまた深い森に入り込んだ。それでも這い上がり、その度に強くなった。もう迷わない。自分らしさを取り戻したレフティが五輪の舞台に立つ。

 神奈川県の相模原市で生を受けると、幼い頃から自然とボールを蹴るようになった。最初は父と蹴っていたが、小学校に入学すると、公園でストリートサッカーに興じるように。相手は地元に住んでいたペルー人たち。「めちゃくちゃうまかった」というほどの衝撃を受け、なかなか勝つことができなかった。だが、勝ちたい一心で戦い続けていくと、自身の技巧は自然と上達。同時に幼稚園の年長からヴェルディサッカースクールの相模原支部に通っていた点もプラスに働き、地元では名の知れたサッカー少年となった。

 そして、小学校4年生の進級した時に東京ヴェルディのジュニアに入団。伝統ある“緑のキット”に袖を通すと、以降は同世代の仲間を牽引するプレーメーカーとして圧倒的な力を見せた。

 ジュニアユースでプレーする頃には“山本理仁”の名は全国に知れ渡っており、多くの選手から「なんだあいつは」と言われるほど、正確な左足のキックとゲームを組み立てる力は抜きん出ていた。

 ユースに入っても1年次から永井秀樹監督(現・ヴィッセル神戸スポーツダイレクター)に重宝され、早い段階でポジションを獲得。ポゼッションサッカーのイロハを叩き込まれた一方で、新たな価値観が定着するまでには時間を要した。
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 それでも少しずつ理解を深め、高校2年次のタイミングでトップチームに昇格。だが、ここで壁に当たり、思うように活躍ができなくなった。

 フィジカル面が弱く、当たり負けするシーンもしばしば。自由にボールを持たせてもらえず、良さを全く出せなくなったのだ。セントラルMFではなく、ゲームメイク能力を買われてCBやSBでもプレーしたが、本来の姿を取り戻せない。当時の苦悩を回想し、以前のインタビューで山本はこんな言葉を残していた。

「その状況を考えて、(トップチームの監督になった)永井さんがSBやCBで起用してくれたんですけど、見える景色も違えば、味方との距離感も違う。そこからハマって、自分の原点であるサッカーを楽しむことが失われて、めちゃくちゃ悩みましたね」

 練習に行くのが嫌になるぐらいに悩んだ。試合に出るのが怖くなるほどで、サッカー人生で初めての挫折を味わった。

 その間にチームメイトである藤田譲瑠チマ(シント=トロイデン)が台頭。2019年秋のU-17ワールドカップでブレイクし、翌年にはトップチームでレギュラーポジションを掴んでいた。そうした仲間の活躍も自身に焦りをもたらした。
 
 悔しさを力に変え、自らの足で前に進もうとしてもがいた。すると2021年9月、永井氏の後任としてやってきた堀孝史監督(現・横浜FCヘッドコーチ)のもとで復活を果たす。

 最も得意とするセントラルMFのポジションに固定されると、創造性豊かなプレーでチームを牽引。苦手だった守備に意識がいき過ぎていた自分を見つめ直し、良さを出すことに注力した。そこから一気にヴェルディの中心となり、2022年3月には大岩ジャパンの立ち上げ合宿にも招集。そこからは周知の通りでパリ五輪を目ざすチームで主軸を担い、クラブでも充実の時を過ごした。

 そして同年の7月、ついにステップアップを果たす。「2日間ぐらい寝れなかった」というほど愛着のあるクラブを離れるのは簡単ではなかったが、ガンバ大阪入りを決断。J1の舞台に足を踏み入れ、さらなる成長を目ざした。
 
 ポジション争いは厳しさを増したが、そうした状況も楽しめるようになり、ベンチスタートが続いても腐らずに自分と向き合った。そのスタンスは2023年夏に加わったシント=トロイデンでも変わらない。

 さまざまなことを経験し、山本理仁は逞しくなった。今年の春に開催されたパリ五輪のアジア最終予選を兼ねたU-23アジアカップでは副キャプテンを任されるまでになった男は、本大会でどのようなプレーを見せるのか。

 リヒトという名前の由来はドイツ語で“光”。自らの足で光を探し出したレフティは満を持して、自身初の世界大会に挑む。

取材・文●松尾祐希(サッカーライター)