錦織圭が「ちょっと怖気づいた」ウインブルドン復帰戦 勝利を目の前に「打てなくなっちゃった」理由
聖地ウインブルドンの「6番コート」は、人だかりでごった返していた。
6番コートは決して、会場で6番目に大きなコートではない。スタンド席すら存在せず、4人がけのベンチが両サイドに数脚ずつ並ぶのみ。
ベンチのうしろは通路だが、椅子にありつけぬ観客たちが足を止め、幾重にも折り重なり、肩と肩の合間から必死にコートをのぞき込む。それら観客のなかには、テニスのルールをさほど知らない人たちも少なくない。
「こっち側にも来るのかな?」「今、どっちが勝ってるの?」
そんな会話を交わしつつ、皆がその一挙手一投足を追い、スマートフォンのカメラレンズを向ける先が──錦織圭。やはり彼は、テニスの枠を超え、多くの人々がその姿を見たいと望む、スター選手だ。
錦織圭の実力なら初戦突破も難しくなかったが... photo by AFLO
錦織が最後にウインブルドンのコートに立ってから、3年の月日が経った。その間にウインブルドンの会場は少しずつ改修や増築を重ね、昨年はカルロス・アルカラス(スペイン)という若きチャンピオンが誕生した。伝統の趣(おもむき)に、革新の風が吹き込む地。その「テニスの聖地」のコートに、錦織は立っていた。
ウインブルドンの特権的威光は、今も選手たちのなかで息づく。4週間前にひざを手術したばかりのノバク・ジョコビッチ(セルビア)は、なぜリスク覚悟で今大会に出るのかと問われた時、「ウインブルドンだから」と答えた。英国の英雄アンディ・マリーも、直前に手術をしてなお出場を切望する。
ただ錦織は、ウインブルドンへ出場への切望感を問われた時も、「ちょっと僕はあんまり......」と、困惑したような笑みを広げた。
「僕はあんまりないですね、これに出ないと終われない、みたいな大会は」
いつもと変わらず、飾らず口にする率直な思い。錦織にとって、それがどの大会だろうが、どこのコートだろうが、テニスはテニスなのだろう。
【日没によって好機へ転じると思いきや...】錦織の今大会の出場に関しては、直前まで疑問符がついた。開幕1週間前に古傷でもある右足を捻挫し、ぎりぎりまで態度を保留していたからだ。
その出場決断に至った経緯を問われても、「どうという特に理由はないですけど......目の前に試合があるので、出るだけで」と、過剰な感傷を込めることはない。あくまで復活のプロセスの一環、といういい意味での割りきりが、錦織の表情や言葉からにじみ出ていた。
7月2日に錦織の試合が始まった時、周囲はすでに薄暗く、日没前に終えるのは難しい時間帯だった。試合全体の設計図を書くよりも、目の前のボールに集中すべき状況。それが錦織にはプラスに働いただろうか。ケガの不安を感じさせない、すばらしい立ち上がりを見せた。
相手のアルトゥール・リンデルネック(フランス)は、28歳の長身ビッグサーバー。ただ、錦織のリターン力をもってすれば、さほど攻略は困難ではない。
鋭く返すリターンが、そして跳ね際をクリーンにとらえストレートに叩き込むフォアが、次々に真新しい芝に鋭く刺さり低く跳ねる。ブレークを許しながらもリターンで圧倒的な優位性を誇る錦織が、第1セットを7-5で先取した。
ただ第2セットに入ると、相手も徐々にストロークで打ち勝つ場面が増えていく。対する錦織は、第1セットほど思うようにボールを操れない。第2セットはリンデルネックの手に渡り、第3セットが始まりほどなくした時点で、日没により試合は中断に。錦織にしてみれば、仕切り直しの好機のように見えた。
翌日の再開後は、錦織が再び優勢に立つ。序盤のブレークの危機を切り抜けると、タイブレークでは錦織の低い軌道のフォアハンドが次々相手コートに刺さった。第3セットは、錦織の手に。セカンドサーブのポイント獲得率100パーセント(9本中9本)という数字が、ストローク戦における錦織の優位性を物語った。
だが第4セットに入ると、錦織のミスが目立ち始める。このセットを失いファイナルセットに入っても、ショットの精度はなかなか上がらない。対して相手は、プレーに自信がみなぎりボールに勢いが増す。最後は、センターに叩き込まれたサーブが試合にピリオドを打つ。薄暮のなか、二日に及ぶ錦織のウインブルドン復帰戦は、7-5,4-6,7-6,3-6,2-6で終幕した。
【明るい材料は肩の痛みも癒えたこと】試合後の錦織は、淡々と紡ぐ言葉の端々に、落胆の色をにじませる。
「今日は、いい時と悪い時の差が大きかったですね。僕のエラーが本当に無駄な時にけっこう出てしまって。それが一番の負けた原因だった。4セットとかで勝てたかもしれなかったし、攻めている時はよかったけど、彼に先に攻められる時間が多くなったし、特に第5セットはラリー戦でも勝てなくなってきていた」
試合を振り返る彼は、「ちょっと、怖気(おじけ)づいたところもあり......という何か終わり方でした」の言葉で絞めた。
「怖気づいた」というのは、プレーそのものよりも、心持ちの影響だろう。その要因として彼は、「唯一、言うとすると......」と前置きして、続けた。
「(自分への)期待がほぼなかったので、出だしはそれが逆によくて。打ったら入ることに自分でもびっくりするくらいの感覚はあったんです。でも、先にリードした時に、勝ちが見えたんですかね」
第1セットを取った時、あるいは第3セットで競り勝った時に、頭に響く「勝てる」の声。錦織ほどの実績と経験を持つ選手ですら、その期待感に「打てなくなっちゃった」というのだ。
そのような心の壁を打ち破る唯一の方法は、やはり「勝利」だと錦織は言う。
「試合でまだそんなに勝てていないので。試合に勝っていけたら......」
彼はここで、言葉を止めた。果たしてその先に続くのは、どのような思いだったろうか。
明るい材料としては、肩の痛みも癒え「サーブがしっかり打てたこと」を上げた。
以前は出場大会を絞っていく方針も口にしていた錦織だが、いざ試合に出ると、勝利にまさる復活への足がかりはないと知る。だからこそ今後は、「体調と相談して、たくさん試合ができればいいかな」と言った。
英国の記者に「度重なるケガのモチベーションへの影響」を問われた時、錦織は「幸いにも、まだテニスを楽しめている」と応じた。
その「楽しみ」の内訳を尋ねると、彼は少し考えたのちに、こう答える。
「相手も変わるし、自分の技術も衰えてない。やっぱり試合に勝てれば、もうちょっと楽しくなってくると思いますけど......今はもうちょっと、我慢ですね」
前述した「試合に勝っていけたら」の先に続く言葉──それは、「楽しくなってくる」なのだろう。錦織にとって「楽しさ」こそが、すべての源泉。その高揚感を求めて、ひたすらに、ひたむきに、実戦のコートを目指す。