夏の甲子園を目指す大分高・岩久則監督は1990年にオリックスから4位指名 土井正三、仰木彬、野村克也から薫陶
大分高・岩粼久則監督インタビュー(前編)
私立の中高一貫校である大分高校は、これまで3度の甲子園出場経験がある。初出場は2014年夏。2016年夏には、ユニフォームを着た女子マネジャーが甲子園練習でノックを手伝い、制止されたことに端を発し、今ではマネジャーを含む女子部員の練習補助が可能となった。
そして2019年センバツで甲子園初勝利を挙げ、1952年創部の歴史に新たな1ページを刻んだ。今春には16季ぶり8回目となる九州大会にも出場。明豊の存在感が際立つ大分県で、着実に力をつけてきている。
1990年のドラフトでオリックスから4位で指名された岩粼久則氏 photo by Kyodo News
そんな大分高を昨秋から率いているのが、元プロ野球選手だということは、全国的にあまり知られていないだろう。オリックス、ヤクルトで投手として活躍した岩粼久則さんは、紆余曲折を経て、監督として再び母校のユニフォームに袖を通すことになった。
昨夏までは、付属中が持つ硬式の大分中学リトルシニアを指揮。高校にエスカレーター式で内部進学した教え子も多く、"異動"となってもとくに違和感はなかった。丘陵地を自然公園として整備した高尾山の麓にある同校のグラウンドで、後輩たちのプレーに目をやりながら、取材に応じてくれた。
「指導方針は中学を教えていた時と基本は変わらず、やさしいことしかやりません。ただ、監督としての采配に関しては、申し訳ないけど好きにはさせません。チームが勝つために、こういうことしてほしいというのは注文をつけます。それができるために、何をしないといけないのかをここで探しなさいよ、ということです。ヤクルト在籍時、野村(克也)監督は適材適所で選手を使っていたと思います。僕もその適材適所を考えている段階です」
笑顔を浮かべながらも、野球の話になれば、真っ黒に日焼けした顔にその眼光が鋭く光る。プロで土井正三、仰木彬、そして野村克也から薫陶を受けた56歳は、押し迫った初めての夏へ向け、策士の一面をのぞかせた。
生粋の大分っ子だ。小3から柔道を始め、小4から地元にできた少年野球チームへと入部。巨人戦を見ながら、長嶋茂雄や王貞治に憧れ、打撃フォームをマネする、どこにでもいる昭和の野球少年だった。
中学では軟式野球部に所属し、3年で身長は175センチまでアップ。「必然的」にエースとなり、チームの屋台骨を支えた。
「ほかにもいい投手はいましたが、気がついたら自分が1番をもらっていました。3年生になって、最後支部予選で負けたんですけど、自分が投げた試合はそれまでは全部勝っていましたね」
高校は勧誘に動いてくれた地元の大分高を選択。当時の監督は、岩粼さんの素質を買い、高1の秋頃から、平日は社会人野球の新日鉄大分(現・日本製鉄九州大分)に練習参加させていた。
「その当時の社会人は金属バットだったので、フリー打撃やシート打撃で投げてもガンガン打たれました。僕は当時16、7歳だったので、相手はおっさんにしか見えないんですよ(笑)。こんなハイレベルの練習に参加していたおかげで、週末に高校へ戻ると、社会人とのレベルの違いがすぐにわかり、高校生は抑えられる自信がつきました」
ノンプロの強打者たちとの対戦で着実に力をつけ、2年から主戦格として活躍。2年春、3年春と2年連続で大分を制し、九州大会でも準優勝、ベスト4と結果を残したが、1972年夏に全国制覇の経験がある津久見の牙城を崩すことができず、一度も甲子園に出場することはできなかった。それでも、高校3年間でプロも注目する右腕へと成長した。
「3年の夏前、スカウトにスピードガンを測ってもらった時は137、8キロでした。ただ、当時対戦した相手校の選手からは『絶対に140キロ超えていた』と言われました。部長からはプロ10球団が見にきていると聞いたのですが、通用しないという理由で全部断ったようです」
【ドラフト4位でオリックスに入団】お世話になった新日鉄大分とすでに話はできていた。ただ、練習に参加してそのすごさは知り尽くしているだけに、発足間もない別の社会人チームへの入社を考えていたが、部長らの説得で翻意し、新日鉄大分に進む道を選んだ。
「社会人に入って2年目(1988年)からDH制が採用されました。高校ではエースで4番だったので、打撃も自信があって、1年目はふつうにピッチャーをやりながら打席に入っていましたが、2年目からは投げるだけになりました。そのタイミングで肩を故障したので、終わったなと思っていたんですが、当時の監督さんが『野手をやりながら様子を見よう』と言ってくれました」
非凡な打撃力を生かし、内外野を守りながら、野手として定位置も獲得。肩痛が癒えるまでの半年間、陸上部のように走ったことで下半身が安定したことも幸いした。投手復帰後も、登板の時はDHを外すなど、二刀流で活躍した。
「野手投げに近い、いま流行りのクイックモーションのほうが、疲労感がありませんでした。野手をやったことは、自分的にはプラス材料になりましたね」
4年目の1990年には、都市対抗初出場を果たした本田技研熊本(現・Honda熊本)の補強選手として、東京ドームのマウンドに上がった。その頃には、直球の最速も144キロほどになり、再びプロから注目されるようになった。
「もしかしたらドラフトにかかるかも、という噂を聞いていたので、チャンスがあるんだったらプロに行きたいですという話をしました。ただ、ドラフト当日は指名はないと思っていて、デートしていました(笑)。夜12時頃に家に帰ってきたら、地元の新聞社やテレビ局が数社来ていたので、それで指名を知りました」
最後まで熱心だったオリックス・ブレーブス(現・バファローズ)からの4位指名だった。1位の長谷川滋利(立命大)、3位の野村貴仁(三菱重工三原)はいずれも同い年。2位の戎信行(育英高)も含め、指名5人中4人が投手だった。
「長谷川のあのコントロールのよさはちょっと勝てんなと思いましたよ。野村も縦割れのいいカーブを持っていました。戎(信行/育英高)も高校生で『こんな球を投げるんか』と。もう中継ぎの敗戦処理から結果を出していくしかないと思って入団しました」
それでも、オリックス・ブルーウェーブに球団名を変更した1991年、新人ながら中継ぎで11試合に登板した。まずまずの滑り出しのように思えるが、本人は「全然抑える自信がなかった」という。
「相手は木製だから通用するだろうなと思っていましたが、プロは打ち損じがないんです。甘く入ったら全部持っていかれる感覚です」
そのオフ、自身と同じドラフト4位で、のちにスターの階段を駆け上がる高卒選手が入団する。鈴木一朗。若き日のイチローである。
後編につづく>>