高原直泰がCEOを務める沖縄SVで背番号11をつける我那覇和樹 ©OKINAWA SV

 6月9日タピック県総ひやごんスタジアム、沖縄SV対ヴェルスパ大分。後半19分だった。降り注ぐ雨に打たれながら、ホームスタンド最前列に陣取った沖縄SVの少年サポーターたちが、『炎のファイター』に乗せたチャントを歌い出した。同じ沖縄出身のFWということで、知念慶(鹿島アントラーズ)が川崎フロンターレ時代に受け継いだメロディだが、オリジナルが今、テクニカルエリアに立つ背番号11に向けて発せられている。「がーなはー、ゴール、ゴール」1点ビハインドの中、伊集院雷に変わって我那覇和樹がピッチに送り込まれた。観客は525人。今年9月で44歳となる我那覇は今、日本サッカーの4部リーグに相当するJFLでプレーを続けている。

 79分、ハイボールをキャッチしたGK花田力のアンダースローから沖縄の細かいパスがつながり始めた。沖縄SVの高原直泰CEO(最高経営責任者)がかつて所属したアルゼンチンのボカ・ジュニアーズモデルのユニフォームを身にまとった選手たちは左サイドで伸縮を繰り返してゲームを作る。と、13本目のパスを受けた長井響からのサイドチェンジが右に通って大分の守備の意識がはがれた。刹那、中央に折り返しが入り、青戸翔が楔になるのを見た我那覇は時計周りで旋回、青戸からのボールに駆け込んで左足を振り抜いた。ペナルティエリアの外から打ったシュートは強烈な勢いでゴールに向かった。惜しくもゴール右ポストの脇を抜けたが、反転の鋭さとミドルレンジから放たれた低弾道の伸びにホームスタンドがどよめいた。オシムジャパン時代に日本代表に招集されていた頃、FWとしての自身の課題を「ヘディングと利き足ではない左足の強度」と語っていた我那覇の停滞を感じさせない一発であった。
 
 しかし、ボールが回って来たのは、これだけだった。ポストプレーのできるストライカーにロングボールが蹴られることもなく、ノーチャンスのまま時間が経過していく。アディショナルタイムには、カウンターから、2点目を奪われて敗戦を喫した。
 
 潰れ役も厭わない我那覇であるが、あれだけ、ボールが入って来ないとフラストレーションも溜まっているのではないか。
 
 沖縄SVは試合が終わると勝っても負けても必ず、選手がハイタッチで観客を送り出す。雨の中で我那覇はユニフォーム姿のまま、にこやかにそのミッションをやり遂げると、取材対応に現れた。
 
「そうですね。うちのビルドアップの仕方によってですが、蹴れるようだったら、裏に抜けて、厳しかったら前線で受けて起点になろうとしていました。ただボールがなかなか前には来なかったですね」

 冷静に淡々と試合を振り返り、ここでベクトルを自分の方に向けた。

「後ろの選手だけの責任ではなく、僕の動き出しにも問題があると思うんです。ボールを引き出すようなアクションができていなかったかもしれない。お互い合わせていきたいですね」前所属のジェイリースFCでともにプレーをしたMFの宮地裕二郎の言葉を思い出した。

「ガナさんは僕より17歳も年上で、代表経験もあるのに、全然謙虚で偉ぶらない。病気とケガで出遅れて入団した僕が選手の皆に溶け込むようにすごく気を遣ってくれました。誰よりもチームのことを考えています」

 その宮地が顔を曇らせて言ったことがある。「僕は『それは事実と違いますよ』って、すぐに否定したんですけど、何気なく『我那覇さんってニンニク注射を打った人ですよね』と言った人がいたんです」2021年のことである。そして今年、那覇で「我那覇選手は風邪薬を飲んでそれがドーピング検査に引っかかってしまったと思っていました」という女性がいた。信頼している関係者だったので、ショックは小さくなかった。

 私は我那覇がチームを変わる度にその近況と背景を記事にすることを自分に課している。いまだに2007年に起きたドーピング冤罪事件について流言が滅することなく飛び交っているからである。過去、彼の移籍先のクラブの広報でさえ、何も知らなかった。我那覇はニンニク注射など打っていない。風邪薬も飲んでいない。デマは一度、飛びかってしまうと大きく広がり、17年が経過した今も流通し、真実を凌駕し本人を苦しめ続ける。否定するのは、多くの労力が必要とされる。何度も繰り返し書いてきた事実を今、またここに記す。
 
 2006年、オシムジャパン元年、我那覇は沖縄出身選手として初の日本代表に選出され、11月のサウジアラビア戦では2つのゴールを決めていた。類まれな決定力を持つFWの出現にサポーターは沸き立ち、翌年は代表定着と、夢であった海外でのプレーが実現するかと思われていた。事件は、その勇躍すべき2007年4月に起こった。脱水と発熱の症状に苦しんでいた我那覇は、練習後にクラブの診療所でチームドクターから感冒との診断を下され、点滴治療を受けた。体内に入れたのはビタミンB1が含まれた生理食塩水であり、極めて正当な医療行為であった。しかし、これを直接取材していないサンケイスポーツの記者が、翌日の紙面に「我那覇 ニンニク注射でパワー全開」と記事にしたのである。いわゆる飛ばし記事であり、明らかな誤報であった。ところが、この報道を見たJリーグのドーピングコントロール委員会(青木治人委員長)が、我那覇はドーピング(禁止薬物使用)規定違反であるとマスコミに発信してしまったのである。
 
 調査をすれば産経の誤報が即座に露見し、記者を叱ってそれで終わった案件であった。ところが、ここからメンツにこだわるJリーグが暴走していく。ペナルティ有りきで開かれた聴聞会では、反論に耳を傾けず、我那覇に6試合の出場停止処分、所属の川崎には管理責任として1000万円の制裁金が課せられた。これに対し、Jリーグクラブのすべてのチームドクターが、正当な医療行為であったことを主張して何度も正しいドーピング規定を書面で突き付けて声をあげた。選手の健康を担う医師らにすれば、到底看過できないジャッジであった。しかし、Jリーグ側は一度下した規定違反の裁定を覆すことなく、その都度詭弁を弄して仲裁を拒み続けたのである。
 
 まったくの冤罪であるにも関わらず、ペナルティを科せられた我那覇はこの間、サッカーに集中しようと沈黙を貫いていたが、一枚の手紙で立ち上がることを決意する。「この間違った前例が残ると今後のすべてのスポーツ選手が適切な点滴医療を受ける際に常にドーピング違反に後で問われるかもしれないという恐怖にさらされます」。差出人は当時浦和レッズのチームドクターであった仁賀定雄医師であった。事実、Jリーグのドーピングコントロールの誤った運用を正当化するために現場の医師による静脈注射が禁止されたために、何人もの選手が治療を待たされて危険な状態に陥っていた。詳細はここには書かないが、小学生世代の選手までが潜在的なドーピング規定違反者にされていたのである。

 我那覇は、自分以外にこんな思いをする選手をもう出してはいけないという気持ちから、スイスにあるCAS(スポーツ仲裁裁判所)への申し立てを決意する。Jリーグ側が国内の機関であるJSAA(日本スポーツ仲裁機構)での仲裁を拒んだために膨大な翻訳料を含む三千万円以上の費用が必要とされたが、島人(しまんちゅ)ストライカーは私財を投じてアスリートのために真実にたどり着く道を選んだ。
 
 下された裁判結果は、Jリーグの判断を批判し制裁の取り消しを求めるものであった。それはCAS の歴史上、稀に見る一方的なもので、我那覇の全面勝訴と言えるものであった。WADA(世界アンチ・ドーピング機構)元倫理教育委員の近藤良享筑波大学教授(当時)は「世界の基準や判断を知らずに内部の判断で処分を決めたJリーグの失態が明らかになりました」とのコメントを出した。当然とも言える我那覇側の勝利によって、ドーピング規定の運用は正常化され、日本サッカー界すべてのカテゴリーの選手たちは救われた。
 
 しかし、このCASの裁定を受けたJリーグ側はその結果を真摯に受け止めず、あえてグレーな印象が残るような操作に走った。それが、多くの人の我那覇に対する記憶の中で「ドーピング」「ニンニク注射」等々、いまだに事実がひとつもないワードが混在し続け、フェイクニュースが根絶されない大きな要因のひとつになっている。

 鬼武健二チェアマン(当時)は「CASは、(我那覇が受けたのは)正当な医療行為か否かは判定していない」と会見で発言したのである。CASの英文判決を切り取って翻訳の解釈の問題にすり替えたのである。そもそもCASが我那覇にドーピングの可能性を微塵でも見出していれば、制裁の取り消しを求めてはいない。制裁を課す論拠が消えたのである。しかし、鬼武チェアマンは、川崎に課した1000万円の制裁金を返還せずにこれをドーピングの啓蒙活動に当てると発表する。この報道があたかも我那覇はグレーだったのではないかという印象を周囲に与えた。

 Jリーグの三ツ谷洋子参与は当時、このCASの判決を受けて「制裁金は川崎に返すべきだ」と発言している。しかし、Jリーグ理事会では、理事たちが「制裁金を返さないと(世論に)思われないようにすること」を議論の焦点にし、"CASの文書はドーピングだったかどうかというところまで踏み込んでいないということを言ってくれる弁護士事務所を探し出す作業"に腐心していたという。
 
 三ツ谷参与の発信によって当時のJリーグが、ひとりの選手の人生を狂わせた冤罪に向き合おうとせず、組織の体裁を整える保身作業に没頭していたことが分かった。。この冤罪事件の全貌を記した『争うは本意ならねど(集英社インターナショナル)』を執筆した際、最後に鬼武チェアマンに真意を問いに伺った。取材に対応して頂いたことは今でも感謝しているが、WADA規定をまったくご存じなかった。驚いたのは、「点滴の器具を持っていただけで入国できなかった事実もあるんです」と言われたことだ。そんな規定も事例も存在しない。ケガをした選手をチームドクターはどうやって治療するのか。当時のJリーグの最高権力者はこの程度の認識だったのである。

 2014年8月、筆者は鬼武チェアマンの二代あとにあたる村井満チェアマンとともにリバティ大阪で開催されたシンポジウム『SAY NO TO RACISM 人種差別にレッドカード』(大阪弁護士会 公益財団法人大阪人権博物館 一般社団法人大阪府サッカー協会共催)に出演する機会があった。その際、これを機会にと村井チェアマンに話しかけた。「我那覇は完全に潔白でした。村井さんがチェアマンの任期中に我那覇に対する正式な謝罪と冤罪であったという公式なリリースをお願いします」直訴すると同時に拙著を渡した。5代目チェアマンは「ご著書はすべて読んでいます。検討します」との言葉を返してくれた。しかし、それ以降、何に忖度したのか、リーダーシップを発揮することなく、退任まで我那覇に対して一切の発言をせず、動かなかった。チェアマンとして、選手の人権と健康以上に他にいったい何を守るものがあるのか。Jリーグが結論をうやむやにしたまま責任を逃れている限り、フェイクニュースは流れたままであり、この事件は終わらない。我那覇の見せた勇気とは対照的に真実を知った上で、本当に重要なことは、8年間の任期中避け続けて来た村井チェアマンの姿勢には大きく失望した。政治部の記者よろしくチェアマンのただ取り巻きになっているメディアの問題もそこにはある。

 17年前、多額の費用と時間を費やし、物質的にも精神的にも多くの負担を強いられた我那覇は今もプレーを続けている。「すべてのスポーツ選手が適切な点滴医療を受ける際に恐怖にさらされせないために」立ち向かった裁判のためにサッカーに集中できない日々が続き、日本代表も遠のき、川崎のレギュラーも外されていった。
 
 しかし、彼はあの冤罪事件がなければ、とは口にしない。今も沖縄の地で言うのだ。「僕の力が足りなかっただけです」と。「シュートを打つ量も質も上げていきたい。このリーグ戦ではまだ点を取っていないし、特に今は厳しい状況なのでチームの勝利に貢献したいです。沖縄の子どもたちへの育成も自分たちが結果を出すことで、意識をしてもらって、力を与えたいんです。この年になってもまだまだサッカーがしたいという思いで続けています」
 
 現役へのこだわりは?と問うと、「回復力は年々、遅くなっているのは感じますが、カテゴリーに関係なく自分は必要とされればいつも準備はできています。今は、もちろんこのクラブでJリーグに上がりたいと思っています」
 
 6代目となる野々村芳和チェアマンが、我那覇の現役中に正式な名誉の回復と謝罪、そして選手のために立ち上がったくれたことに対する感謝を述べて、川崎に制裁金を返還することをあらためて期待する。プレーヤーズファーストの精神に誠実なチェアマンとして歴史に名を遺すとはそういうことだ。それまではこのドーピング冤罪事件を風化させてはならない。