「森保はラモスさんに『つまんねぇな』と怒られていた」吉田光範が明かすオフトジャパンの裏話
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第27回
全5試合出場のいぶし銀が体感した「ドーハの悲劇」(2)
アメリカW杯アジア最終予選の2戦目は、イランが相手だった。
サウジアラビア、イラン、北朝鮮、韓国、イラクと戦う最終予選。吉田光範は、イランが最も手強いと思っていた。
「イランは(1992年の)アジアカップでも戦ったのですが、『相当強いな』って思っていました。体がひと回り大きく、フィジカルも非常に強かったですし、タフな選手が多いんです。
日本は、運動量はあるけど、フィジカル的な戦いになると厳しい。だから、イランが自らの強みを生かしてガツガツとこられると、かなり苦しいゲームになるだろうな、と。初戦で韓国に負けていたので、イランとしてはあとがない、という状況にあるのも嫌な感じでした」
1994年アメリカW杯アジア最終予選での激闘について振り返る吉田光範氏。photo by Fujita Masato
吉田が想像したとおり、日本は厳しい戦いを強いられた。
イランは、カズ(三浦知良)や高木琢也、さらにラモス瑠偉に対して、サウジアラビア以上に厳しいマークをつけてきた。「影のようにつきまとってきた」と吉田はそのしつこさに呆れたが、このイランの徹底マークに日本のリズムは崩された。
そのなかで吉田は、ラモスが機能不全になることを恐れた。
「ラモスさんが厳しくマークされて機能しなくなると、攻撃面での優位性がなくなります。ここまでの日本の攻撃を指揮し、活性化してきたのはラモスさんなので、イランもそれはよくわかっていました」
ラモスは、日本の「10番」であり、日本の"エース"だった。
「ラモスさんから、僕らに『あーしろ、こーしろ』みたいなことは特になかったですけど、僕はいつもラモスさんを見てプレーしていました。ラモスさんが厳しい状況にある場合は、福田(正博)やキーちゃん(北澤豪)にパスを出しますが、その時はラモスさん(の状況)を見てからのチョイスなので何も言われません。
でも、たとえば、森保(一)がラモスさんにパスを出せるタイミングがあって、ラモスさんにもパスを受ける余裕があるのにパスを出さなかったりすると、『つまんねぇな』と怒っていました。日本の攻撃は自分がやるんだ、という強い自負がありましたね。自分にとっても、日本にとっても、ラモスさんは大きな存在でした」
そのラモスの動きをイランは消しにきた。激しいチェックを繰り返して、日本の10番を芝の上に転がした。流れはイランに傾き、前半終了間際、日本は先制ゴールを許した。
1点を追う日本は後半、吉田に代えて長谷川健太を投入。4−3−3のシステムに変えた。その後、後半28分には三浦泰年を下げて、中山雅史を入れて反撃に出た。しかし、ベンチから戦況を見ていた吉田は、日本が攻め急ぎ、いつもの日本らしさがなくなっているのを感じていた。
「なかなか自分たちの時間を取り戻せないので仕方のない部分もあるのですが、もう少しボールを保持して、落ちついて攻めてもいいかな、と。とにかく、我慢しつつ、次の1点をどちらが先に取るかだなって思っていたんです。
そうしたら、イランにカウンターから2点目を取られてしまって......。あれは、ショックが大きかったですね」
イランに追加点を奪われて、ラモスは苦々しい表情のまま、腰に手を当てて何かを考えているようだった。日本は試合終了間際に中山がゴールを決めて、1点を返すのが精いっぱいだった。イランに敗れた日本は、1分1敗で最下位に転落した。
「イランは単純に日本のストロングポイントを消して、自分たちの得意のスタイルに持ち込んだ。日本は、それにまんまとハマってしまった。
今年1月のアジアカップで日本はイランに負けたけど、まさに歴史は繰り返す、でしたね。イランは30年前と同じく日本のよさを消して、ロングボールを多用してルーズボールを拾い、日本の最終ラインを下げて生まれたスペースを使って攻撃してきた。
僕らも、それにやられた。相手の流れを止められず、ラモスさんやカズを封じられ、相手の思いどおりにやられての完敗でした」
2試合を終えて勝ち点1は、想定外だった。ホテルに戻り、食事をしていても、選手たちからは笑顔が見られなかったという。「次の北朝鮮戦に負けたら終わり」という事実を誰もが理解しており、練習でも過去にないほどの緊張感が漂っていた。
「いきなり土壇場に追い込まれましたからね。(チーム内の)ピリついた感が半端なかったです」
それでも吉田は、むしろこのくらいの緊張感があってもいいと思った。アジアカップで優勝して以来、過信とまでは言わないが、アジアチャンピオンとして「(W杯予選も)イケるんじゃないか」というムードが、チーム内に少なからずあったことを感じていたからだ。
初戦のサウジアラビア戦をドローで終え、2戦目は初戦の韓国戦で0−3と負けたイランだったので、戦力的には「(イランより)自分たちのほうが上だ」という余裕も見え隠れしていた。そうした心の隙が、結果にも表われたような気がしていた。
「もう1回、ネジを巻き直して『やるぞ!』という気持ちになりましたね。やっぱり、W杯に行きたかったんで」
指揮官のハンス・オフトも、波に乗りきれないチームに刺激を与えた。北朝鮮戦では、調子が上がってこない高木に代えて中山を、福田に代えて長谷川をスタメンに起用。左サイドバックも三浦泰に代えてベテランの勝矢寿延を入れ、4−4−2から4−3−3へとシステムを変更した。
「この時の中盤は、初戦のサウジ戦で採用したダイヤモンド型から、逆三角形の中盤になりました。僕がアンカーに入って、ラモスさんと森保が前。ただ、森保はやや守備に重きを置く感じでした。
システムの変更について、オフトからは特に何も言われなくて、ボールの動きを見ながら自分たちで判断してプレーする感じでした。それができたのは、主力をほとんど変えず、ある程度長い期間、同じメンバーでプレーしてきたからです。だから、僕が前に行ったら、ラモスさんがカバーしてくれるとか、そういうことはオートマチックにできていました」
日本は急きょ変更したとは思えないほど、4−3−3のシステムが機能した。アンカーに入った吉田はより激しいチェックを見せて、相手の攻撃の芽を摘んでいった。ラモスもイラン戦のような密着マークから解放され、フリーでボールを受ける回数が増え、前線に決定的なパスを何本も配球した。
そんななか、攻守で最もいい動きを見せたのが、右サイドに入った長谷川だった。矢のような突破力で何度もチャンスを作り、攻撃を引っ張った。
オフトの大胆な策がハマった日本は、前半28分、ラモスのFKからカズがヘディングシュートを決めて先制した。後半6分には、中山が追加点を挙げて北朝鮮を突き放した。
吉田は、この中山のゴールがうれしかったという。
「中山はイラン戦でもゴールを決めたんですが、やっぱり(彼のゴールは)特別なものがありました。当時みんなはJリーグの選手で、(中山と)僕らふたりはヤマハでプレーしていて、Jリーグ加入前のJFL(ジャパンフットボールリーグ)にいたんです。それで、みんなでご飯を食べに行った時とか、『Jリーグのオレらが(食事代を)出すよ』とか言われて、結構イジられていたんです(笑)。
そんななか、下部リーグにいる自分たちでも"やれる"というところを見せたかったですし、中山にはゴールを決めて(代表でも)主力になってほしいなって思っていた。だから、中山が2試合連続でゴールを決めてラッキーボーイ的な存在になっていったのは、ホントうれしかったです」
その中山の気迫あふれるプレーと諦めない姿勢で奪ったゴールによって、勢いに乗った日本は3−0で北朝鮮を破り、勝ち点2を得た。吉田は、チームが土壇場で踏みとどまったことに少し安堵したという。
「負けられない試合で勝てたのは大きかったですね。しかも、(最終予選初出場の)勝矢さんが守備で奮闘し、中山も高木に代わってスタメンとしての役割を果たした。短期決戦の大会には流れがあるので、そういった選手が出てこないと勝つのは難しい。そういう意味では、日本は勝ち方がよかったですし、いい流れで(次戦の)韓国戦に臨めるようになりました」
ただ、森保が終了間際に不必要なファウルでイエローカードをもらって、韓国戦は累積警告による出場停止となった。ここまで中盤を支えてきた森保の不在は、非常に痛かった。それでも吉田は、「ある選手が入れば問題ない」と感じていた。
勝負の韓国戦。その選手がすばらしい活躍を見せることになる。
(文中敬称略/つづく)
吉田光範(よしだ・みつのり)
1962年3月8日生まれ。愛知県出身。刈谷工高卒業後、ジュビロ磐田の前身となるJSL(日本サッカーリーグ)のヤマハに入団。当初はFWでプレー。その後、中盤にポジションを移しても高い能力を発揮。攻守に安定したプレーを見せて、ハンス・オフト率いる日本代表でも活躍。1992年アジアカップ優勝に貢献し、1993年W杯アジア最終予選でも全試合に出場した。現在はFC刈谷のテクニカルディレクターを務める。