20年前のアテネ五輪の際、最終予選でチームを牽引していたのがキャプテンの鈴木啓太だった。チームの中心選手として個性豊かな選手たちをまとめ、アウェーでの原因不明の体調不良の中でもチームを鼓舞し、アテネ五輪の出場権を獲得した。しかし、チームのキャプテンでありながらも本大会の18名のメンバーからは漏れてしまうという異例の事態が起きた。当時を振り返りつつ、パリ五輪の選考や目的について話を聞いた。


2004年、オリンピック最終予選を戦う鈴木啓太 photo by Jinten Sawada/AFLO FOTO AGENCY

――最終予選を突破した当時のチームの選手たちは、本大会のアテネ五輪も自分たちだけで戦えるという気持ちでいたのでしょうか。

「いや、監督の(山本)昌邦さんがオーバーエイジ(OA)枠を使用する前提だったので、僕らも入ってくるんだろうなって思っていました。OA枠が必要か不要かは、選手が決めることではないですし、選考は普通に競争として考えていましたね。当時は、『アテネ経由ドイツ(W杯)行き』とずっと言われていたので、僕らもそういう気持ちでいました。だから、OA枠で入ってくるだろう選手、僕らの時は黄金世代の人たちだったんですけど、僕らの世代よりも実力が上だという認識があったので、そういう人たちが入ってくることで自分たちの力を高め、次(W杯)につなげていくんだろうなと思っていました」

――最終予選は23名で戦いましたが、五輪本大会は18名になります。自分がどのくらいの位置にいるか、計算しましたか。

「していましたね。この選手とこの選手を比較したら、こうだなとか。こういう選手が入ってきたら、ここが削られるなぁとか。絶対的な選手じゃない限りは、多少なりとも考えると思います。僕らの世代で絶対的だった選手は、闘莉王と今(今野泰幸)ちゃん、(大久保)嘉人ぐらいだったんじゃないかな」

――当時、OA候補に上がったのが曽ヶ端準さん、小野伸二さん、高原直泰さんでした。

「OA枠で起用する選手は、監督がどういうサッカーをやりたいのかという基準で選ばれると思うんです。あとは、彼らを入れてストロングを増やすのか、ウィークを消すのか。GKを入れるということは、ウィークを消すということだと思いますし、中盤に当時、中田英寿さんや中村俊輔さんではなく、伸二さんを入れたのは何かしらの意図があったんだと思います」

 OA枠の選手が入ると、どうしてもその選手への依存度が高まったり、入れてみないと分からないところがあり、化学反応がポジティブにもネガティブにもなる。

――アテネ五輪の時、小野さんへの依存度が増し、みんな彼を見てプレーしていました。突出した選手を入れると、パリ五輪でもそうなる可能性が高くなると思いますか。

「僕らの時代、伸二さんへの依存度が高いのは、ある意味、仕方なかったと思います。技術レベルがずば抜けて高く、当時はまだ珍しい海外組じゃないですか。欧州への憧れをみんな持っていたんですけど、今は海外組がたくさんいる。僕らの時ほどOA枠の選手に依存することは、あまりないと思います」

――日本代表もそうですが、U−23日本代表も1/3程度は海外組ですね。

「今は、若い時からどんどん世界に出るようになって、A代表を狙える選手がたくさんいるじゃないですか。僕らの時は、伸二さんたちの『黄金世代』と比較されて『谷間の世代』と言われ、力の差をかなり感じていました。それでも僕らには、『谷間』と言う人たちに対する反骨心みたいものがあったので、チームは一体感があったと思います。ただ、アテネ五輪で結果を残すことができなかったので、『谷間の世代』と言われても仕方ない部分がありますが......」

 鈴木は、最終予選時、キャプテンだった。そのキャプテンを本大会のメンバーから外すのは、山本監督も苦渋の決断だったはずだが、実際のところ監督との関係は、どうだったのだろうか。

――最終予選の時、山本監督から何か要求はあったのですか。

「特になかったですね。チームのことで個人的に何か言われることはなかったですし、特に話し掛けられることもなかったです。僕は、キャプテンであろうがなかろうが、試合に出る以上、果たすべき役割があったので、それをしっかりこなすことだけ考えていました」

――アテネ五輪の出場権を獲得してからも変化はなかったのですか。

「最終予選が終わってから五輪のメンバー発表までの間、自分のパフォーマンスがあまりよくなかったんです。その頃から山本さんから急に話しかけられるようになって、なんかおかしいなぁと思い始めたんです。それまで話しかけてくることなんてなかったですから。その時、これは自分の感覚ですけど、(五輪のメンバーに)入らないなと思ったんです。実際、その後の試合の起用方法を見てもそうですし、沖縄合宿に行った際もすごく話しかけてきて。山本さんはポジティブなイメージで来ているのに、僕がネガティブに捉えていただけかもしれないですけど、ずっと違和感が拭えなくて......。そうしたら最終的に登録メンバーから外れたので、いろいろつながったなと思いました。キャプテンであろうがなかろうが、必要とされる選手は生き残っていくわけで、その時は悔しかったけど、まだ力不足だったということだと思います」

――パリ五輪のU−23 日本代表にも、最終予選で活躍していながら本大会に行けない選手が出てくると思います。

「メンバーに入れなかったのは、監督が選ばなかっただけであって、その選手のプレーが否定されているわけじゃない。とはいえ、悔しいでしょうし、なぜと思うこともあると思いますが、そこをバネに見返すぐらいの気持ちでプレーすることが大事だと思います。実際、僕も落選した直後のナビスコカップで自分のベストゲームのひとつと言えるぐらいのパフォーマンスを発揮できたんです。アテネに縛られた自分が解放されたようで、吹っ切れてプレーできました。自分のキャリアを考えた時、このアテネ落選が大きな転機になりました。だからパリ五輪でそういう辛いことがあったとしても、自己肯定感を高め、自分を叱咤してパリ五輪組以上の成長を見せればいいと思います」 

 パリ五輪は、アテネ五輪から20年後の大会になる。この年月で、五輪に対する位置付けはメダル獲得からW杯に向けての強化育成の場になりつつある。

――鈴木さんは、個人的に、この20年間で五輪の立ち位置に変化を感じますか。

「僕は、A代表であろうが、五輪であろうが日の丸を背負って戦う試合は、勝つことが求められると思っています。OA枠を起用しながらメダルや勝つことを意識しつつ、W杯で活躍する選手をどう育成していくのか。矛盾しているけど、それが今の五輪に求められているものでしょう」

――当時の山本監督は「アテネ経由ドイツ行き」とよく言っていました。

「パリ五輪世代の選手が、本当に目指さないといけないところはパリではないんです。北中米W杯なんですよ。みんな、そこを狙っていると思いますよ。僕らもドイツW杯を狙っていましたが、実際にはドイツの次の2010年南アフリカW杯にアテネ世代の選手が多く出場し、ベスト16まで進みました。今回、パリ五輪世代の選手が2年後の北中米W杯を目指しているのか、それとも6年後のW杯で活躍するのか分かりませんが、僕らの時代からキャッチフレーズは変わらないと思うんです。『パリ経由北中米行き』で、ひとりでも多くの選手がA代表に上がり、ベスト8の壁を超えて行く力になってほしいと思います」


■Profile
鈴木啓太(すずきけいた)
1981年7月8日生まれ。2000年に浦和レッズに加入し、2002年からはアテネ五輪を目指すU-23日本代表に召集される。最終予選ではキャプテンを務めたが、本大会には選出されなかった。2006年からはA代表に召集され、オシムジャパンの中盤を支え続けた。浦和レッズ加入から15年間浦和一筋を貫き、惜しまれつつも2015年に現役を引退。