江川卓と初対戦した大洋の主砲・田代富雄はあまりの速さに驚愕した「これがあの江川かぁ」
作新学院時代からポーカーフェイスで飄々と投げている印象の江川卓が、プロ入団後のシーズン中、唯一ガッツポーズをした瞬間がある。
1981年9月9日、後楽園球場での大洋(現・DeNA)戦で4対0と巨人リードの最終回、最後の打者・中塚政幸を空振り三振に打ちとった時だ。被安打3、奪三振13の完封で20勝目を挙げた江川は、自然とガッツポーズをつくった。
1年目の79年は9勝に終わったが、2年目、3年目と最多勝に輝いた江川卓 photo by Sankei Visual
80年から82年夏までが全盛期だったという江川のピッチングにおいて、大洋の選手たちのなかにひとつの合言葉があった。
「最後の打者だけにはなりたくない」
なぜなら、江川にはゲームセットになる最後のアウトは"三振"というこだわりがあった。大洋の選手たちはそうはさせまいと思ってはいるが、絶対に三振をしないという自信はなかった。
20勝目を挙げた江川がマウンドでガッツポーズする姿を、大洋の選手たちはベンチから見ていた。選手の共通認識は「最後の打者にならなくてよかった」である。いくらプロの世界といえども、完全に兜を脱ぐ時だってある。江川の絶好調時は誰も太刀打ちできず、万年Bクラスの大洋は巨人にとってお得意様だった。「横浜大洋銀行」と揶揄されていた時代、江川とほぼ同世代のスラッガーが大洋にいた。
田代富雄(現・DeNA打撃コーチ)。185センチ、88キロと、当時ではかなり大きな部類に入る体躯と、それ以上に四角い大きな顔がトレードマークとなり、70年代後半から80年代後半にかけて大洋の主砲として活躍。とくに80年代に入ると、大洋の"和製大砲"として美しい放物線を描いた本塁打を量産していた。そんな田代が江川の記憶をたどる。
「江川がデビューした79年は打てなかった。次の年くらいから少し打てるようになったかな。最初に見た時は、速いのなんのって。真っすぐとカーブだけなのに打てない。とにかく、真っすぐの質が違っていた」
江川のひとつ上の学年である田代は、神奈川の藤沢商業(現・藤沢翔陵)で4番を張っていた。同じ関東圏である作新学院・江川の噂は存分に届いていた。対戦は一度もなかったが、どんな球を投げるヤツなんだと訝しがっていたものだ。
田代の同世代の速球派と言えば、真っ先に鈴木孝政(元中日)が挙げられる。成東高(千葉)時代の鈴木の球の速さは、関東圏では群を抜いていた。甲子園には一度も出場できなかったが、それでも「千葉に鈴木あり」と全国に名を轟かせていた。
江川が1年夏に栃木大会で完全試合を成し遂げ、秋の関東大会では前橋工業に10連続奪三振。全国の強豪校の監督が江川のピッチングを見た人に「江川は鈴木より速いのか?」と聞くほど、速球王として君臨していた。
「孝政は中日のドラフト1位で、デビューも早かった。オレは3年間ファームにいて、4年目に一軍に上がって対戦したけど、あいつはうしろ(ストッパー)にいたのかな。とにかく腕がムチのようにしなって、速かったよ。ボールが地面につきそうなところから伸びてくる。極端に言うと、孝政の球を打つにはボールが手から離れる前にバットを振る。そのくらいの感覚でいかないとダメ。その話をすると、あいつ喜ぶんだよ。『田代、もっと言って、もっと言って』って(笑)」
【巨人にトレードされる寸前だった】72年のドラフトで地元・大洋から3位指名を受けて入団した田代は、プロ4年目の76年にようやく頭角を現すと、77年は開幕から5試合連続ホームランを放つなど、4月に11本塁打を放ち月間MVPを受賞。この年35本塁打放ち、一流選手の仲間入りを果たした。
生え抜きのホームランバッターとして成長した田代だったが、入団3年目のオフはトレード要員だった。75年にイースタンリーグで首位打者と打点王の二冠に輝いたが、首脳陣に「伸びしろなし」と判断され、巨人とのトレード寸前だったという。それを阻止したのが、クリート・ボイヤーだった。
60年から64年にア・リーグ5連覇したニューヨーク・ヤンキースの三塁手として活躍したバリバリのスター選手が、72年に来日。年齢は35歳だったが、気力、体力ともに衰えを見せておらず、十分に働けるレベルであった。
そのボイヤーが田代のポテンシャルをいち早く見抜き、「絶対にクリーンアップを打てるから」と、トレードしないように首脳陣に進言したという。もしトレードが実現していたら、江川とチームメイトになり、対戦はなかったかもしれない。
「ボイヤーにはほんとに世話になった。トレードを止めるほど買ってくれたワケだから。それと入団した時に青田(昇)さんから『おまえ握力いくつだ?』と聞かれ、『80くらいです』と答えると、『長池(徳士)クラスだな』って言ってくれてね。あと、オレがドラフトされた年に近藤和彦さんが近鉄にトレードされることになって、青田さんが『今度入ってくる田代に背番号26をつけさせるから』って言ってくれたらしい。近藤さんから直接聞いたよ」
青田は指揮官として1年しか田代と一緒にやっていない。しかも田代はずっとファームにいたため、ほとんど接点がなかったが、ずっと気にかけていたのだ。
田代はメジャーのスターだったボイやーに愛され、巨人創成期の強打者で阪急(現・オリックス)第一次黄金期の長池らと育てた名伯楽・青田にもかわいがられた。
チームの主砲へと成長した田代にとって、個人成績もさることながらチームの成績が一番だといつも思っていた。だが、田代の19年間の現役生活のなかでAクラスはたったの3回(79年、83年、90年)しかない。
田代が大洋に入って初めて2位になった79年は、江川がデビューした年でもあった。
「空白の一日」により、開幕までの謹慎、開幕から2カ月の一軍登録禁止のペナルティーを受けた江川の一軍登板は、6月からだった。
大洋戦との初対戦は、6月21日の横浜スタジアム。4回からリリーフで投げ、4イニングを1安打6奪三振。田代にとって、実際に生きた江川の球を見たのはこの時が初めてである。
いわくつきで巨人に入団しただけに、ベンチにいる選手たちが江川の投球に固唾を飲んで注目していた。
「初めて球を見た時は、とにかく速い。『これがあの江川かぁ』だよ」
ゆったりとしたフォームに幻惑されるのか、田代はすさまじく速いと感じたという。
江川のデビューイヤーに、田代は1本だけホームランを放っている。しかし、田代はまったく覚えていないという。とにかく、プロ1年目の江川には手も足も出なかったという思い出しかなかった。
(文中敬称略)
後編につづく>>
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している