明神智和にとってオリンピックとは?「出る前と後では、日常の意識が大きく変わった」
明神智和が語るオリンピック
前編:自身が出場したシドニー五輪
パリ五輪開幕まで、1カ月をきった。同大会に出場する注目のU−23日本代表メンバーもまもなく発表される(7月3日)。それを前にして、過去にオリピックの出場経験がある明神智和氏に、オリンピックという大会のことをはじめ、オーバーエイジ(OA)枠を含めたメンバー選考について、さらにはパリ五輪に挑むチームの可能性、メダル獲得へのポイントなど、自らの経験を振り返りながら語ってもらった――。
明神氏(左から2番目)が出場したシドニー五輪 photo by AP/AFLO
明神智和が出場したシドニー五輪が開かれたのは、2000年。もう24年も前の出来事になる。
オリンピックの男子サッカー競技が、基本的に23歳以下の世界大会と位置づけられて以降に限れば、日本が出場するのは、まだ2回目。1996年アトランタ五輪で、28年ぶりに歴史の扉がようやく開かれたばかりだった。
オリンピックに出場することの意味で言えば、今とは比べ物にならないほどの重さがあったかもしれない。
「今振り返ってみると、オリンピックは大きな大会だったな、というのが一番の記憶です。U−20のワールドユース選手権(現U−20W杯)も大きかったですけど、オリンピックはサッカーだけでなく、いくつものスポーツに全世界が注目する大会ですからね。
(他競技の選手を含めた)日本選手団が集まる結団式もありましたし、みんなが同じ日の丸のついたジャケットを着ていましたし。『日本を代表して戦う』ということでは同じでも、サッカーだけの世界大会とはまた違う緊張感がありました。大会が始まってしまうと、他の世界大会と同じようにサッカーに集中して活動することになるのですが、大会が始まる前の空気感はちょっと違いましたね。
ただ、サッカーは開会式の前に競技が始まるので、1試合目を終えたあとにテレビで開会式を見たときには、『自分たちが出ているのは、本当にオリンピックなのかな?』と、少しさみしさを感じました(苦笑)」
とはいえ、当時のU−23日本代表は、オリンピックに出場することに満足するようなチームではなかった。それどころか、多くの競技が行なわれるシドニー五輪にあって、男子サッカーは注目度の高い競技のひとつだった。少なくとも、今以上に注目を集めていたことは間違いない。
折しも、2年前に日本代表がワールドカップ初出場を果たし、2年後には自国開催のワールドカップを控えていた頃である。大会に挑む登録メンバー18人の発表もまた、大きな注目を集めた。
「僕がオリンピックを意識し出したのは、1997年のワールドユースが終わってからですね。20歳以下の世界大会が終わって、次の世界大会を目指すとなると、U−23のオリンピックだったので。
もちろん、力のある選手がたくさんいたので、実際に自分の名前が呼ばれるまでは『どうなのかな』という気持ちを多少は持っていましたが、(登録メンバー発表)直前の親善試合で2試合ともスタートから出ることができたので、『(五輪メンバーに)入れるだろう』という自信も少しありました。
僕らのときは、A代表とオリンピック代表の監督を(フィリップ・)トルシエさんが兼任していたので、ふたつのチームの戦術が大幅に変わることなく、同じシステムで同じサッカーをやっていました。だから、オーバーエイジの選手が入ってくるのもスムーズでしたね」
日本がシドニー五輪のグループリーグで対戦したのは、対戦順に南アフリカ、スロバキア、ブラジルの3カ国。日本は最初の2試合で連勝したものの、ブラジルが南アフリカにまさかの不覚を取ったことで思わぬ混戦となった。
そして迎えたブラジルとの最終戦。日本はこれに0−1と敗れたことで、グループリーグ敗退の危機が迫る状況に陥ってしまったが、同時刻に行なわれていた試合でスロバキアが南アフリカを下したことで、辛くも決勝トーナメント進出を果たした。
「初戦を勝てたことが非常に大きかったですね。同じグループにブラジルがいましたが、初戦の相手、南アフリカもかなり力があるって言われていましたから。実際、南アフリカは、当時マンチェスター・ユナイテッドにいた(クイントン・)フォーチュンとか、個のタレントもそろっていて、力のあるチームでした。
でも、そこで勝ち点3を取れたことが大きかったですし、自信にもなりました。
ブラジルが(南アフリカに敗れて)つまずいたことで、2連勝しても(その時点ではグループリーグの)突破は決まらず、最後までわからない展開になりましたが、結果的に突破できたことを考えても、やっぱり初戦が大事だったなと思います。
ブラジルは90分を通して、まったく歯が立たなかったわけではないけど、要所要所でうまいというか、強いというか。それほどいい試合をしているわけではなくても、試合運びがうまくて、1対0で勝ってしまう。その勝負強さはものすごく感じました」
オーバーエイジの3人を除けば、23歳以下の選手ばかりとはいえ、当時のチームは実質A代表と呼んでもいいだけの顔ぶれがそろっていた。もちろん、明神も例外ではなく、すでにA代表デビューを果たしていた。
それゆえメダルを期待されてシドニーに乗り込んだわけだが、日本は準々決勝でアメリカに2−2からのPK戦で敗れてベスト4進出はならず。「史上最強」と称されたチームも、メダル獲得はならなかった。
「アメリカは強かったですね。確かにフィジカルは強いけど、だからといってそれに頼るだけではなかった。ひと言で言えば、スキがないチーム。組織的なサッカーをしていたので、試合をやりながら、『手強いな』と感じていました。
(日本が2−1でリードしていて)アメリカは最後パワープレーが多くなってきましたが、そのときの迫力というか、勝利への執念というか、そういうパワーはすごかったです。
(2−2に追いつかれて)PK戦で負けてしまったのは仕方がない。それよりも、PKに持ち込まれる前に勝ちきれなかったということへの反省が大きかった試合でした。
メダルを目指していながら獲れなかったことに関しては、もちろん責任も感じました。やっぱり4戦目になって徐々に体力的にも消耗していたというか、グループリーグ3試合にすべてフル出場して、(2連勝で突破を決められなかったので)消化試合もなかった。
そういうなかでのアメリカ戦は、ちょっとしたところなんですけど、ボールへの一歩が遅れたりして、『いつもより体が少し重いな』というのを感じながらやっていました。延長戦に入ってしまったあとは、そこからギアを上げていくまでの余裕はありませんでした。
強いチームは決勝トーナメントに入ってから、さらに力を出していくと言いますが、当時の僕らには、そこまでの力はまだなかったのかなと思います」
結局、シドニー五輪では悔しい思いをした明神だったが、2年後のワールドカップでは日本サッカー史上初となる決勝トーナメント進出に大きく貢献。その後も41歳で現役を引退するまで、Jリーグでも長く活躍した。
20年以上におよぶプロサッカー選手のキャリアにおいて、オリンピックでの経験とはどんなものだったのだろうか。
「日本のスポーツ文化において、オリンピックは昔から世間の注目が一番高い大会ですし、僕らの頃で言うと、日本サッカー界には育成年代から強化していくことで、将来ワールドカップでいい成績を残そうという目標があった。そのなかで、その過程にあるオリンピックでどれだけ日本がやれるのか、という意味で重要視されていた大会でした。
現に自分にとっても、シドニー五輪に出場できたことは大きかったと思います。
年齢制限があるにせよ、世界大会を戦って、自分が通用するもの、通用しないものに気づき、世界との差がどれだけあるのかを肌で感じることができた。それに、多少なりとも自信を得ることもできましたから。
年齢制限のある大会は終わって、もうA代表を目指すしかない。そうなったときに、僕はオリンピックを経験できたことで、そのためには自分が普段から、どういう練習をしなければいけないかとか、どういうことを考えて取り組まなければいけないか、ということがわかった。
オリンピックに出る前と後では、日常の意識が大きく変わったと思っています」
(つづく)◆明神智和が分析するパリ五輪「OAの力は必要」>>
明神智和(みょうじん・ともかず)
1978年1月24日生まれ。兵庫県出身。1996年、柏レイソルユースからトップチーム入り。長年、主将としてチームを引っ張る。その後、2006年にガンバ大阪へ移籍。数々のタイトル獲得に貢献した。一方、世代別の代表でも活躍し、1997年ワールドユース(ベスト8)、2000年シドニー五輪(ベスト8)に出場。A代表でも2002年日韓W杯で奮闘した。国際Aマッチ出場26試合、3得点。現在はガンバ大阪ユースコーチを務める。