パリのエッフェル塔に設置された五輪マーク photo by AP/AFLO

【その存在への醒めた感情】

 パリオリンピック・パラリンピックの開催が約1カ月後に迫っている。テレビのスポーツニュースやウェブサイト、新聞のスポーツ面でも、折に触れて「代表選考でA選手とB選手が日本代表に内定」という報せが三々五々報じられる。画面や紙面、スマートフォンから次々と繰り出されるそれらのニュースには、オリンピック開催に向けて世のなかの気分をおおいに盛り上げていこう、という彼らの意気が横溢している。だが、それを受け取る「世間」の側は、はたして情報を送り出す側の狙いどおりに、ニュースからポジティブなメッセージを受け止め、来たるべき夏の大会開催に向けて刻々と期待感を高めているだろうか。

 もちろん、その競技の当事者や関係者、選手を応援するファンがオリンピック代表内定のニュースを朗報と受け止めるのは当然のことだ。4年に一度しか巡ってこない世界最強・最速を競う大舞台の出場権獲得にひと安心し、喜びをもってそのニュースを噛みしめるのは、とても自然な感情だし、その気持ちに水を差すつもりは毛頭ない。

 ただ、オリンピックそのものに対してはどうだろう。人々はいまも、純真無垢でポジティブな関心をこの競技大会に持ち続けているだろうか。

 どうも、そうではなさそうに思える。どことなく、これまでよりも醒めた感情を抱きながら、この世界最大のメガスポーツイベントに対してどうやって向き合えばいいのか距離感を計りあぐね、気持ちを持て余し気味にしている人々の数は、今まで以上に多くなっている印象がある。

 そうであるとすれば、その大きな理由のひとつはおそらく、我々が3年前に自分たちの目の前で東京オリンピック・パラリンピックを経験してしまったからだろう。2020年の開催予定が新型コロナウイルス感染症の世界的蔓延により1年延期となり、2021年に無観客で開催されるに至るまで、東京オリンピック・パラリンピックに関連して発生したさまざまな不祥事やお粗末な出来事は枚挙にいとまがない。

【「経済効果」という名の幻想】

 それらのなかには日本の組織風土や企業体質などに根ざす問題もあれば、近代オリンピックが自らの内にはらみ続けてきた課題もある。

 前者の例は、ロゴの盗用疑惑や関係者のトラブル等で二転三転した開閉会式の演出案、目下裁判中の大会運営の談合事件等々......、こうやって記していくだけでもうんざりする。

 後者の例は、「ぼったくり男爵(Baron Van Ripper-off)」と名付けられたトーマス・バッハ国際オリンピック委員会(IOC)会長のニックネームが象徴する、大会の商業主義化と組織的金満体質を挙げておけば十分だろう。これに関連して、少し長くなるが経済学者ポール・クルーグマンの言葉を引用しておこう。

〈昔から「オリンピックを開催すれば景気が良くなる」とか「大きな経済波及効果が得られる」といったことが信じられてきましたが、実際のところ、開催による経済効果はほとんどありません。むしろ、がっかりするような結果に終わることが多いのです。主催国はオリンピックのために多額の投資をしますが、開催後は使いみちのない施設が残されるだけです。(中略)

 仮にどこかの国の政府が私に「経済成長のためにオリンピックを招致したほうがよいか」と助言を求めてきたら、「やめたほうがよい」と反対するでしょう。多大な資金と労力に見合った経済的なリターンが得られないからです。つまり経済性からみれば、オリンピックの開催は合理的でないのです。

 そもそも多くの人々はスポーツイベントの経済性について、合理的に考えることができません。「巨大なスタジアムを建設し、そこでイベントが開催されれば、人が集まり、すばらしい経済波及効果をもたらすはずだ」と言われれば、「きっとそうかもしれない」と信じ込んでしまいます。ところがそれは幻想です。実際のところ、経済効果はほとんどありません。ただ特定の利害関係者に利益をもたらすだけです。〉

*NIKKEIリスキリング 2021年7月18日「経済学者クルーグマン氏 五輪開催は合理的ではない」対談記事より:https://reskill.nikkei.com/article/DGXMZO73860250U1A710C2000000/?page=3)

 ノーベル経済学賞受賞者のクルーグマンは辛辣な批評精神の持ち主として知られているが、オリンピックに関してはとくに否定論者というわけではない。その意味で上記に示した引用は、否定論者によるポジショントークという色合いはなく、むしろ、バイアスによらない批評的視点を持った経済学の専門家が、オリンピックの経済効果を評価した際の最大公約数的意見、と考えても差し支えないだろう。

 実際のところ、オリンピック開催地に立候補する都市が減少の一途をたどっているのは周知の事実だ。札幌市が冬季大会の招致を断念したことも、煎じ詰めれば経済効果を見込めないという判断によるものと要約できる。

【不安定な情勢下における「平和の祭典」の意義とは?】

 このような経済的理由に加え、ここ数年でさらに不安定さを増している世界情勢も、オリンピックの意義をさらに危ういものにしかねない。

 たとえばロシアがウクライナへ無差別攻撃を開始したのは2022年2月24日で、北京オリンピックが終了してパラリンピック開会式までの狭間に行なわれた行為だった(余談になるが、クリミア紛争の発生は2014年なので、「ウクライナ侵攻」という表現を用いるならば今年が10年目になる。また、それ以前に2008年の南オセチア等の紛争等でも領土的野心を明らかにしており、2014年にソチ五輪を、2018年にはサッカーワールドカップを開催して国家イメージの浄化にスポーツを利用しているが、IOCや国際サッカー連盟(FIFA)は自分たちが体よく利用されてしまったことに対する批判的検証を行っていない)。北京オリンピックでも、開催国である中国の人権侵害に対する抗議として数カ国が開会式で外交的ボイコットという手段を採ったことは、あらためて想起されてもいい。

 また、昨年末からはイスラエルとハマスの戦いが激化し、ガザで発生する凄惨なニュースは連日のようにさまざまなメディアで報じられている。

 そんな世界で開催される「平和の祭典」オリンピックの意義とは、いったい何なのだろう。オリンピック停戦など、もはやただのお題目で有名無実化しているが、その一方で、世界最高のアスリートたちが一堂に会するこの巨大なスポーツ大会が人々の魂を大きく揺さぶるのもまた、疑いようのない事実だ。とくに紛争の当事者であるウクライナやバレスチナの選手団にとって、この「平和の祭典」に参加する意義が非常に大きいことはいうまでもない。

 では、刻々と近づいてくる今夏のパリオリンピック・パラリンピックを、我々はいったいどんなふうに受け止めればいいのだろう。喉元過ぎれば熱さを忘れてしまう、いつものように空疎で無邪気な空騒ぎで終わらせないためにも、これからオリンピックに関わるさまざまな人々を訪ねて問いを投げかけ、言葉を交わすことを通じて「我々にとって、いまの近代オリンピックとはいったい何なのか、この夏に開催されるパリオリンピック・パラリンピックにどう向き合っていけばよいのか」について、これから数回の連載を通じて改めて考える契機にしていきたい。

つづく