(写真:yosan/PIXTA)

人生にもたらされ続ける不条理と不合理を解消するにはどうすればいいのでしょうか。それには「企業のお金儲け」にとどまらない、人類のさまざまな側面に関わる本来の経営概念に立ち返る必要があります。本稿は、『世界は経営でできている』より一部抜粋・再構成のうえ、「貧乏」について、経営的視点で考察します。

年収が高くても貧乏になりえる

たとえ見た目には裕福に見えようと、あるいは実際に年収が高かろうと、出ていくお金がそれ以上に大きくて支出を抑制できないならば誰でも貧乏になる。

事実、私が学生起業していたときにも同じ理由で家計は火の車であった。毎日借金取りから空を飛んで逃げる夢をみて、羽ばたきながらベッドから落ちて目が覚めたほどだ。

もちろん、こうした人は収入が極端に少ないわけではないため「貧困」の定義に含まれないという意見もある。だが、その人が常に借金に追われて生活苦の中にあるならば、やはり「貧乏」だとはいえるだろう。

ところが今度は貧乏を恐れるあまり吝嗇/ケチの極致に振れる人もいる。生存に必要なもの以外は何も買いたくないという人だ。そうした人は文化的な支出もしないし、病気が悪化するまで病院にもいかないし、教育にもお金をかけない。

しかし、ケチの極致は実は一番の無駄遣いである。

極端な話、死ぬまでタンス預金にお金を貯め続けて、そのお金のありかを誰にも告げなかった人がいたとすると、巨額の現金はその人の死とともに実質的に失われる。

すると巨額のお金を自分のためにも他者のためにも使わずに捨てたに等しい。これ以上の無駄遣いは考えづらい。一所懸命に掘った穴にお気に入りのエサをたくさん埋めておいてそのままエサの在処を忘れてしまう、おっちょこちょいな犬と類似している。

また極端にお金を貯めようとすると、時間の余裕がなくなったり、知識・情報の蓄積ができなかったり、人からの信頼をなくしたりする。お金の面での心配はなくなっても、常に忙しくて時間の余裕がなくなったり、生きるのに必要な知識・情報が貧弱になったり、人的ネットワークを失ったりするわけである。

このように貧乏とはお金、時間、知識、信頼といった資源の収入と支出のバランス(均衡と調和)が崩れた状態を指すと考えていいだろう。しかも、これらの資源のうちのどれかの収支のバランスを崩すことで他の資源の収支も狂う。

たとえば、金融機関で融資を受けるための労力を惜しんで、これまで信頼を蓄積してきた常連客からお金を借りようとする料理人の例。

時間を節約して大きな商売の機会を逃すことも

この人は、わずかな時間を節約するために信頼という資産をお金に換えてしまったわけだ。こうした人は、たとえ一度かぎりで安易にお金を借りられたとしても、より大きな商売の機会を逃してしまう。その結果お金も時間も信頼もなくなっていく。

さらに、世界的にみると知識・情報の貧困がお金や時間のさらなる貧困をもたらすという悲劇がみられる。

たとえば発展途上国に住む人々の死因の上位に下痢がある。このとき、発展途上国の人々は往々にして下痢に対し抗生物質や注射を用いた治療を要求する。しかし、下痢から命を救うには本当は経口補水液があればよい。しかも経口補水液を作るのに必要な塩、砂糖、水、レモンは発展途上国であっても誰でも比較的簡単に手に入れられる。

だが、経口補水液の知識・情報を持っていないために発展途上国の多くの住人はお金の面でも時間の面でも高くつく治療を選ぶ。結局のところ効きもしない高価な注射を求めて行列を作り、場合によっては注射針から別の病気をもらってしまったりするのである。

もちろん先進国の住民たちに発展途上国の人々の勉強不足を責める資格はない。発展途上国では、母国語で利用できる情報サイトや基礎的な保健衛生教育へのアクセスが限られているためだ。先進国の住民も、もしその国に生まれていなければ同じ罠から抜け出せなかっただろう。

不明確な目的がもたらす「貧乏の罠」

このように、どんな人でもお金、時間、知識、信頼の収支のバランスを崩すことで貧乏から抜け出せなくなってしまう危険がある。

たとえば「借金はどんな種類のものでも怖い」という思い込みから貸与奨学金を忌避するあまり、大学を休学しながら学費を稼ぎ、新卒就職において不利な立場に追いやられて生涯年収をふいにするといった失敗はよくみられる。

あるいはSNSとゲームとカメラくらいにしか使わない(それ以外の機能はそもそも使えない)のに「最新機種でないと恥ずかしい」という思い込みから、新作のハイスペックスマートフォンを毎回発売直後に買い、割賦金の支払いにいつも追われているという例もよくみる。

また、高給取りの頭脳労働者が「デキるビジネスパーソンとして家事・育児も自分でやらなければいけない」という思い込みから、睡眠時間を減らしてまでそれらに奔走している例もある。

こうした人は家事・育児の少なくとも一部を外注した方が仕事の生産性も上がり、外注費以上に稼ぐことができるのに、貧乏の罠にはまる。

これらのアンバランスの原因は「自分の行動の目的が明確化されていないこと」だ。

そもそも大学に行くのは何のためか、スマートフォンは何のために買うのか、自分は何をしたいのか。いつでもこれらを自問自答することで思い込みに起因する無駄遣いと優先順位付けの間違いから脱することができるだろう。

その手段は目的に合致しているか?

反対に、目的に対して現在の手段が適正かどうか点検しなければ過大な手段を用いてしまうことになる。右隣の家に行くために、左に、左に、と、自家用ジェットで進んでいって地球を一周してようやく隣家にたどり着くような状況を想像すればよい。「目的に対して過大すぎる手段」も貧乏をもたらすのである。


発展途上国には結婚式や洗礼式といった行事に収入の大半を使う風習がある地域が見られるという。こうした風習は、多くの場合、気晴らしや退屈しのぎという役割を持っている。また、毎日の食べ物の確保に困っている家庭であってもテレビやスマートフォンは一式そろっていたりする。食べ物に困っている人々に金銭的な援助をしても、栄養に乏しく高価な(でも美味しい)食材に変わるだけだという調査もある。

表面的には収入が多い人であっても、給料日にはストレス解消のためにパチンコに大金を使ったり、行きつけの居酒屋で豪遊したり、タバコを毎日何本も吸ったり、片思いの相手に貢いだりして生活が困窮しているということもある。

表面上さえ収入が多いわけではない私も、給料日には「食べるのか」という勢いでガツガツと欲しかった本を大量購入してしまう。家も車も時計も最新スマホも持っていないが本を買いすぎた月には困窮状態に陥る。

すなわち、人間は将来に備えて最低限の栄養で生きるより、多少のリスクを取っても楽しい生活を選ぶということだ。これは怠惰ではなく人間に共通する特性なのである。

(岩尾 俊兵 : 慶應義塾大学准教授)