「アメリカの時代」が終焉しつつある今、われわれは何を「指針」とすべきでしょうか(写真:freeangle/PIXTA)

疫病と戦争で再強化される「国民国家」はどこへ向かうのか。拮抗する「民主主義と権威主義」のゆくえは。思想家の内田樹氏が、覇権国「アメリカ」と「中国」の比較統治論から読み解いた著書『街場の米中論』が、このほど上梓された。奈良県東吉野村で「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」を運営する古代地中海史研究者・青木真兵氏が同書を読み解く。

「アメリカの時代」以後にどう生きるか

僕たちが生きる世界は、この先どうなっていくのでしょうか。そして僕たちは何を指針として生活を送っていくべきなのでしょうか。本書にはそのヒントが書かれています。


世界GDPランキングにおける第1位と第2位のアメリカと中国は、名実ともに世界の二大大国です。

にもかかわらず、今まで僕たちはアメリカばかりを意識して生きてきました。確かに20世紀は「アメリカの時代」でしたし、特に日本は太平洋戦争に敗戦したことで、社会や経済、文化のあり方においてアメリカから多大な影響を受けてきました。日本の戦後の経済成長はアメリカが主導する資本主義陣営の中で達成することができたものですし、英語ができないとダメなような気がするけれど中国語ができなくても気にしないような、少なくとも僕はこのような感覚で生きてきました。

そして80年代に入ると、今まで敵対していた社会主義陣営の弱体化、戦後の福祉国家的政策が転換されていきました。イギリスのマーガレット・サッチャー元首相やアメリカのレーガン元大統領に代表されるように、次々と国営事業を民営化していく新自由主義的政策が行われ、日本では中曽根元首相がこれに追随しました。

1991年にソ連が崩壊し、1995年にはWidows95が発売されるとIT化も加わり、新自由主義にさらに拍車がかかります。これがアメリカが騎手となり一気に加速したグローバル化です。日本はますますアメリカの後についていけばいいと思ったことでしょう。しかし昨今のアメリカの凋落ぶりを見ていると、決してそんなことも言っていられなくなってきました。

アメリカについていってもダメなんじゃないか。このあたりの感覚はみなさん同様なのではないかと思います。ではどうすればいいのか。僕たちは何をモデルに生活を組み立て、自己形成を志していけばいいのでしょうか。

このような過渡的な時期こそ、物事の本質、つまりトレンドには乗りにくいけれど、短期間では決して変わらないものを見据えながら日々を送る必要があります。その「変わらないもの」こそが、本書で説かれている「地政学上の立地」です。日本が中国大陸のすぐ東側にあることは、文明の発祥以来変化していない事実です。一方、アメリカは太平洋を挟んだ遠く向こう側にあります。

グローバルとローカルの折り合い

社会経済的、そして軍事的にはいまだアメリカの傘下にいながら、地政学的には中国に近い立地にある日本。

コンプライアンス、ワークライフバランス、リスキリング……ビジネスの世界ではアメリカ的価値観が次から次へと流れ込んできますが、一向に理解することができない。

さらに僕たちは社会契約の概念にもピンとこず、いまだ目上の人には気を使い、目下の者には辛くあたるという儒教的価値観を勘違いして内面化する、「体育会系」人間がのさばり続けている状況。

でもそれがいいか悪いかはいったん置いておいて、自然環境が共同体を形成し、その共同体の中で育った個人が集まって社会を構成している以上、仮にグローバル化によって全世界が同じ価値観で統一されたとしても、それを運用する人びとの住んでいる場所、慣習が異なれば、それは違う形で表出するのです。

本書の主題はこの「グローバルとローカルの折り合いをどうつけるのか」だと理解しています。「理念と現実の折り合いをつける」と言い換えることができるかもしれません。けれど実は世界中どこでも同じような課題を抱えているはず。

インターネットによって好きなものが好きなだけ手に入る時代。商品経済のグローバル化がますます進む中で、しかし地球上で生きていく以上はローカルのことを真剣に考える必要があります。そういう意味で、僕が本書において最大のポイントだと思ったのが「国民国家」です。

著者は現在の世界情勢を、世界の「国民国家の再強化」という視点で語ります。それはポスト・グローバル世界をどのように考えるかという問題とも関わります。まったく予想だにしなかった、2020年以降の新型コロナウイルスの世界的大流行によってその医療的コントロールを国家がしなければならなくなったり、ロシアがウクライナに侵攻することでむしろ国民国家としてのウクライナの団結が強まった。この現象は著者にも意外だったようで、以下のように述べています。

だいぶ前から、「国民国家」という政治単位が国際政治の主たるアクターである時代はそろそろ終わりだと思われていました。経済活動のグローバル化が進行して、クロスボーダーで商品、資本、情報、人間が移動することが当たり前になっていました。それと同時に、気候変動にしても、このパンデミックにしても、人口減少にしても、単立の国民国家では手に負えないものになってきていたからです。人類はトランスナショナルなスキームで問題に向き合わないと手が出ないほど大きな問題に直面している。だから、いずれ国民国家が基礎的な政治単位である時代は終わるのだろう、僕はなんとなくそう思い込んでいました。でも、それはいささか先走りであることをコロナとウクライナで思い知らされました。(16頁)

リベラル派の「誤解」

著者にとって、すでに終わったはずの国民国家が復活してきたのです。グローバル化が進み国民国家がなくなる。これは「自由」を重んじる進歩的なリベラル派には、一般的には「いいこと」だと語られてきたと思います。

しかし現状では社会に格差が広がり、特に相対的貧困率はこの50年間で上昇し、6〜7人に1人が相対的貧困状態に陥っているという調査があります。

周知のように、日本が国民国家になったのは明治時代になってからのことであり、西洋の各国と比べると後塵を拝していました。西洋の多くの国民国家は宗教性を排することで「国民」を創造した一方で、後発の国民国家であった日本は天皇を頂点に据えてトップダウンの国家づくりを行いました。日本は、西洋列強から自国民を守るために国家を急ピッチで作り上げたのです。

だから基本的に、日本人にとって国家とは自分たちを守ってくれる存在です。しかしアメリカにとっての国家は違います。アメリカでは、市民一人ひとりが社会を作るものであり、国家は自由を阻む必要悪であるという認識なのです。そのアメリカ的価値観が日本に流入すると、グローバリズムとローカリズムの対立になります。著者はトヨタ自動車の例を取り上げ、以下のように述べています。

何年か前にトヨタ自動車の社長が「国内生産300万台」は死守したいと話したことがありました。下請け・孫請けに多くの雇用者を抱えている巨大企業としては国内に一定の雇用を創り出す社会的責任があるというたいへん「まっとうな」発言でした。でも、そのときに「海外の株主からはつよい批判があるでしょう」とも言っていました。海外のもっと人件費や地代の安いところに製造拠点を移さないで利益が目減りするとしたら、それは株主に対する「背任行為」だとみなされる可能性があるからです。(21頁)

自由と平等の衝突

太平洋戦争後、日本はアメリカ的な価値観を受け入れながら、福祉国家的な経済を維持してきました。その一例が護送船団方式です。

しかしグローバリズムの中心にあるアメリカ的価値観では、自国民を守るために国家が経済を保障するのは国民国家のあり方として間違っています。本来のアメリカの保守は小さな政府を志向し、日本の保守は大きな政府を志向するとも言い換えることができます。グローバリズムの中では、国民国家の存在自体が利益の増大を妨げていると認識され、排除されていくのでした。それはグローバリズムが「自由」を希求し、ローカリズムが「平等」を実現したいと思う関係に似ています。

著者は自由と平等は必ずぶつかると述べます。

平等というのは、公権力が市民の自由に介入し、強者の権利を制限し、富者の富を税金として徴収し、それによって弱者を保護し、貧者に分配することによってしか実現しません。市民を自由に競争させていたら、そのうち平等が実現するということは絶対に起きません。公権力による市民的自由の制限なしに平等は実現しない。そして、それは憲法制定過程でのフェデラリストと州権派の対立で見たように、州権の保持を望む人たちが最も忌み嫌っていたことでした。(128頁)

繰り返しますが、アメリカの国家観と日本の国家観はまったく異なります。日本の保守はアメリカに追随することで国民を守ることができたうちは「保守だった」といえるかもしれませんが、現在はアメリカ的価値観を内在化させ、利益を追求する自由を何よりも優先するようになってしまった。

小泉純一郎元首相が「私が、小泉が、自民党をぶっ壊します!」といってぶっ壊したのは、平等を志向する日本本来の保守としての自民党であり、ぶっ壊れたおかげで利益の追求を自由にできるようになった。その結果が、2000年代以降の景気の低迷した状況となって表れています。

グローバリズムを経て日本の保守がいなくなり、誰もが自分の利益を追求することを「自由」と呼んだ現在、日本社会における格差の拡大は進行しています。

本来、日本人にとっての国家は格差が広がらないために、平等を志向するための存在のはずです。権力者が自己利益を追求するようになり、国民の安全を守らなくなった現代において、どのようにすれば「平等」を希求する社会をつくることができるのか。

「友愛」のための「手触り」

ここで著者は自由、平等に続く第三項としての「友愛」の重要性を説きます。それは孟子が言うところの「惻隠の心」であり、さらに中国共産党の軍紀にも記されてあったといいます。1937年時点の赤軍の実相を伝える、エドガー・スノウ『中国の赤い星』から引用しています。

(1)人家を離れる時には、すべての戸をもとどおりにすること
(2)自分の寝た藁莚は巻いてかえすこと
(3)人民に対して礼儀を厚くし、丁寧にし、できるだけ彼らを助けること
(4)借りたものはすべて返却すること
(5)こわしたものはすべて弁償する
(6)農民とのすべての取引にあたって誠実であること
   もともとここまでの六項目でしたが、林彪がさらに二つを付け加えました。
(7)買ったものにはすべて代金を払うこと
(8)衛生を重んじ、特に便所を建てる場合には人家から十分な距離を離すこと
(中略)
みなさんに感じて欲しいのは、この革命軍規律の「手触りのやさしさ」です。「礼儀」とか「弁償」とか「誠実」とかいうのは頭の中で考えても出てくる言葉ですが、赤軍兵士に一夜の宿を貸したせいで、農民たちが感じる「寒さ」や「臭気」といった生理的不快まで気づかうのは、農民たちのごく身近にいて起居を共にした人間からしか出てこない言葉です。(213-214頁)

「農民たちのごく身近にいて起居を共にした人間からしか出てこない言葉」こそが、「手触り」を感じる言葉なのだと思います。そして自由と平等という拮抗する理念を具体化し、現実化するためには「手触りのある友愛」が不可欠なのです。

国民国家の再生は「戦前回帰」をすればいいということではありません。脳内だけで考えているようなバーチャルな「強い日本」を取り戻すのではなく、日本社会に生きる困難を抱える人びとが温かい食事が食べられて、安心しながら眠りにつけて、自分の痛みを共感してくれる人たちとの対話を通じて、人びとを守ってくれる日本を実現するのだと思っています。

手触りを感じるために、普遍的な理念を背に現場に赴くこと。ここからしか実現しないのだろうと思います。

(青木 真兵 : 「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」キュレーター、古代地中海史研究者、社会福祉士)