才覚を重視して女性を抜擢した家康が福を重用したのは当然の流れだったのかもしれません(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第47回「乱世の亡霊」では、乱世という生き場を望む武士が豊臣方に集結した大坂城を、家康は再び攻めることを決めました。最終回「神の君へ」では、乱世に終止符を打った家康が病に倒れることに。『どうする家康』では、家康の歩みを「神の君」として家光に語る手法が使われてきましたが、その語り手だった春日局について『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母であり、江戸260年の歴史を彩る大奥の基礎をつくり上げた春日局こと福は、1579年に生まれます。父は、明智光秀の重臣・斎藤利三です。

斎藤利三は武勇に優れており、その能力を光秀に高く評価され、それまで仕えていた稲葉一鉄から引き抜かれるような形で明智家の筆頭家老に迎えられました。この移籍には光秀と信長の間に一悶着あり、それが本能寺の変の一因にもなったと言われています。

また、利三の妹は四国の雄・長宗我部元親の正室でもありました。そのことから光秀が四国征伐の担当になると思われていたところ、これも信長に外されて光秀の不満は高まる一方に。利三は本人の意志と関係なく、光秀と信長の関係に大きな影響を与えていました。

父が本能寺の変の首謀者の一人に

利三自身は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられたときに強く反対したようですが、光秀を翻心させることはできず、首謀者の一人として参加せざるを得ませんでした。本能寺の変そのものは成功しますが、その後の羽柴秀吉との山崎の戦いで敗れ、光秀は敗死、利三は捕縛され、六条河原で処刑されます。福、3歳の出来事です。

父の死により福は母方の実家であった稲葉家に引き取られ、三条西公国によって養育されます。福はこのころに公家の素養である書道・歌道・香道などを身につけたようです。その後、福は稲葉家の縁者であり、当時、小早川秀秋の家臣であった稲葉正成の妻となりました。

正成は関ヶ原の合戦のおり、徳川家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らせることに成功します。しかし戦後、秀秋と関係が悪化し、美濃に蟄居。福は夫を支えますが、秀秋の死により小早川家が断絶すると正成は浪人することに。福、23歳の出来事です。

1604年、京都所司代板倉勝重によって、2代将軍徳川秀忠の嫡男である竹千代(のちの家光)の乳母の募集が行われます。福はこれに志願し見事合格。この決定は、福の教養や資質、さらには夫の稲葉正成が関ヶ原の合戦のおり、徳川のために小早川秀秋を説得した軍功などを加味したと言われています。

福は夫と離縁することに

ここで興味深いのは、彼女が織田信長を討ち果たした明智光秀の重臣斎藤利三の娘であるという出自がマイナスに働かなかったことです。これが家康の、信長に対するドライな感情を物語る一要素であるように筆者は感じます。

福の乳母正式採用を受け、夫の正成は彼女を離縁しました。この離縁には「正成が愛人をつくり、それに福が怒った」「福が相談せず勝手に乳母に応募したことに正成が怒った」など諸説ありますが、真因は定かではありません。

しかしながら福と稲葉家のつながりは離縁後も深く、稲葉家がその後、幕閣の中で出世を重ねることからも、ある程度、夫婦間で話し合った結果だと思われます。おそらく稲葉家が福の力で出世したと思われないようにしたのでしょう。

福の逸話でも特に有名なのは、嫡男・家光より次男・忠長を溺愛する秀忠、お江与(えよ)の方に対抗して、自ら駿府にいる大御所・家康に直談判に及び、家光の立場を明確にさせたというものです。

ことの真偽はともかく、忠長を秀忠夫妻が寵愛していたのは事実のようで、下手をすると徳川幕府内の後継者争いが戦乱を招く可能性はありました。

家康はそのことを恐れ、長幼の序を後継者の基本とすることを定め、争いを未然に防ぎました。同時に福には、家光を皆が納得する後継者に育てる重責がのしかかりますが、家康は、その能力が福にはあると信頼していたようです。

この逸話からわかるように、家光の母・お江与の方と福は対立関係にあったと言われることが多いのですが、現実には福はお江与の方の信頼のもとに「将軍様御局」として、大奥の役職や法度などを定めていきます。彼女の立場は、お江与の方の右腕でもありました。

福、春日局となる

お江与の方の死後、福は江戸幕府における女性の最高権力者となりました。それまで、あくまで一介の乳母であった福は、その力を形のうえでも示すことになります。

1629年、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝した福は、そのまま京に上り、御所への昇殿を図りました。

武家の娘では(稲葉家とは離縁しているため、彼女の立場は罪人として処刑された斎藤利三の娘となっていました)昇殿できないため、かつての育ての親であった三条西家と縁組し、三条西福として昇殿します。


福は幼い家光に、家康の生き様を「神の君」として伝えました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

朝廷は彼女に従三位の位と「春日局」の名を与え、さらに再上洛した1632年には従二位に昇格しました。この位は、武家として初めて朝廷を席巻した平清盛の妻・平時子、鎌倉幕府の尼将軍と言われた源頼朝の妻・北条政子に匹敵するものです。

「謀反人の娘」が「日本最高位の女性」になった瞬間でした。


春日局の手紙。奉公人を気遣う内容がつづられている(写真:時事)

福の権力の源泉は、もちろん3代将軍・家光にありました。祖父・家康、父・秀忠は戦国時代を生き抜き、そして天下統一を果たしたわけですが、家光は戦に出ることもなく将軍となります。

江戸幕府は、まだまだ不穏な情勢を脱しておらず家光の器量次第という状態でした。現に島原の乱など、下手をすると全国に飛び火しかねない大事件もありましたが、家光は強権をもってこれを封じ込めます。

福はまさに家光にとっての母


生まれ持っての最高権力者としての強さを見せつけた統治スタイルは「武断政治」と呼ばれるように。その一方で家光は精神の不安定さを見せることもあり、そうした弱さを福がカバーしていたと思われます。

福は家光の疱瘡治癒祈願をした際、自分自身の薬を一切断ちました。最晩年で病床に臥した際も薬を拒否したため、家光自らが薬を飲ませたとあります。

福はまさに家光にとっての母だったのでしょう。一方、福にとっては、家光は生涯をかけた作品であったのかもしれません。

信長の時代に後継者である信康を失った家康は、その信長を葬った男の娘によって、真の後継者を得たのかもしれません。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)