消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者〜足立修(前編)

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 1994年、春のスポニチ大会で準優勝したプリンスホテルだったが、夏の都市対抗は予選敗退。本大会連続出場が11年で途絶えた、その年のオフのことだ。監督の石山建一が電撃的に辞任し、巨人に入団する。そのスカウティング、選手育成能力を高評価していた監督である長嶋茂雄にヘッドハンティングされ、編成本部長補佐兼二軍統括ディレクターに就任したのである。

 プロ以上のアマチュアチームをつくる──。高い目標を掲げてプリンス野球部を立ち上げた石山にすれば、創部から15年で23名がプロ入りした実績はもとより、自らの入団も大きな成果に違いない。だが、チームは続いていく。新監督に任命されたのは、89年の都市対抗優勝時に主将を務めた足立修だった。

 足立は長野・松商学園高で1年時から2年連続で夏の甲子園に出場。三塁手だったが3年時は投手になり、82年に進学した早稲田大でも、1年時の秋から速球派右腕として活躍。4年時には日米大学野球の代表メンバーに選ばれ、斉藤学(青山学院大−中日)、西川佳明(法政大−南海)、園川一美(日本体育大−ロッテ)というドラフト上位指名候補の投手と肩を並べている。

 当然、プロを意識していたと思われるが、なぜ進路先がプリンスホテルだったのか。同社では野球部が廃部になる2000年まで監督を務め、強豪チームの最後を見届けた足立に聞く。


プリンスホテルで主将、監督を歴任した足立修氏

【全体練習は午前中だけのはずが...】

「たしかに、私も意識はありました。実際、プロからの誘いもあったんですが、4年の秋に肩を壊してしまって。それで社会人、多くの企業からお話をいただいたなか、プリンスホテルの重役だった古川澄男さんが、私の地元、長野の松本市の隣村出身だったんです。しかも、実家の店屋まで歩いて買い物に来たって言うんですよね」

 古川は当時、東京プリンスホテルの総支配人。足立が早大に入学した時から、地元の縁で食事に誘われていた。だがこれは足立に限らずで、プリンス野球部が発足した時からの、会社を挙げたスカウティングの一環。全国各地のホテルの支配人はじめ役員全員で地域ごとの担当を決めて、ありとあらゆるコネを使い尽くして逸材を集めていた。

「それと、松商から1年上の川村先輩(一明/元西武ほか)がプリンスに入っていました。でも川村先輩は、ドラフト1位指名を蹴ったわけです。『えっ? どういうこと?』ってなりますよね。石毛さん(宏典/元西武ほか)、中尾さん(孝義/元中日ほか)が入った時も、すごいな、なんだこりゃ、って思ったし。センセーショナルで得体の知れないチームという印象でした」
 
 理解しがたい部分もある会社ながら、その時点で創部6年目にして9名がプロ入りしていたチーム。足立には、肩さえ治ればプロを目指せるという思いもあった。一方、古川のほかに創部時の副部長、当時は顧問の奥田裕一郎からも誘われ、その野球に対する情熱に心が動いた。さらに監督の石山からも勧誘され、野球部の日常生活や社業の説明を受けた。

「最初に石山さんに言われたのが、みんな『笑っていいとも!』見てるんだよ、でした。選手は朝、バスでグラウンドに行って、昼には寮に帰ってきてテレビを見ていると。つまり全体練習は午前中だけで、あとの練習は個人、個人に任されていると。で、ほとんど会社には行かなくていい。そう聞いていました。でも、入ってみたら一日練習だったんですよ(笑)」

 話が違う──。足立自身はそんなふうに思わず受け容れたが、バスの中では「え? 今日も一日?」といった先輩たちの不平が聞こえてきた。聞きながら、思い当たることがあった。前年、85年の都市対抗、プリンスは優勝候補に挙げられながら1回戦で敗退。足立は後楽園球場で観戦していただけに、「あの負けで練習方針が変わったのでは?」と想像できた。

「真相は不明ですけど、オープン戦の時にほかのチームの方から聞いたことがあります。『当たり前だよ、一日練習。会社に行かずに、会社から給料もらって野球やってるんだから、練習して結果を出さないと』って。やっと普通の社会人チームになったんだな、と言ったらおかしいですけど、ほかのチームから見て普通じゃなかったんですね。いま思えば、それだけ個人を尊重して、責任が重かったんだと思います」

【プリンスを変えた他社の野球の血】

 他社といえば、84年に中途入社した両ベテラン、右腕・鈴木政明(岡山・勝山高)と外野手・中本龍児(近畿大)の存在がある。いずれも最初は大昭和製紙でプレーし、休部でヤマハ発動機に移籍。そのヤマハ発動機も休部となり、同社から揃ってプリンスに加入した。

 鈴木は87年、史上初の都市対抗20年連続出場を達成し、現役を引退するまで投手陣を支えた。一方、中本は現役引退後の85年、石山からコーチに任命される。監督でも間違いがあれば臆せず指摘し、常に直言する中本の性格は指導力につながると見られた。

「鈴木さんは人一倍、ひたすら走っていまいた。その姿を若い投手たちが見ているわけです。コーチの中本さんは"社会人の叩き上げ"のような方で、練習の時の厳しさは相当なものがありました。もちろん石山さんが監督になって変わった部分もあるでしょうけど、他社の野球の血、それもものすごく濃い血が入って、プリンスは変わったと思います」

 石山は日本石油(現・ENEOS)時代、67年の都市対抗を筆頭に全国大会で8度の優勝を経験。その強さは、大学出と高校出、有名校と無名校の選手がライバル心に燃えることで生まれていた。そこでプリンスの監督に就任すると、若手を意図的に抜擢。チームの競争心に火をつけたことが成功につながるのだが、足立は当初、競争のなかに入れなかったという。

「1年目の都市対抗予選で投げさせてもらったあと、やっぱり肩が痛くなって......。秋に手術したんです。普通、ピッチャーはその時点で退部でしょう。でも、石山さんに『おまえ、野手やるか?』って言っていただいて。『やります。やらせてください』と。それは本当に感謝しています。本来、私は野手ですし、ずっとやりたいと思っていたので」

【都市対抗出場も本戦では屈辱の控え】

 念願の野手転向も、大学4年間は投手。足立は目の色を変えて練習し、高いレベルの野球を勉強した。目の前に中島輝士(元日本ハムほか)、小川博文(元オリックスほか)という全日本メンバー=プロ入り確実と評される野手がいる環境。「こんなの絶対かなわねえな......」と思う選手が、みっちりと全体練習をやったあと、さらに個人で練習する姿に圧倒された。

「室内練習場でティーバッティングをやったり、ウエイト場でトレーニングしたり、その姿は迫力十分で、人を寄せつけないようなオーラが出ていましたから。ティーでボールを上げれば『もうちょっとこっち、もうちょっとこっち』っていう。投げ手だってビビりますよ。でも、その人たちと同じようにやろう、やらないといけないと思ってやりました」

 猛練習の成果はあった。足立は87年、野手転向1年目で三塁のレギュラーを獲得。都市対抗の予選でも、5年連続の本大会出場に貢献した。ところが、大会に向けて、東芝府中の初芝清(元ロッテ)、スリーボンドの四ケ所重喜(愛知工業大)が補強され、いずれかが三塁で出場。準決勝までの4試合で、足立の出番は代打の1打席だけだった。

 しかも翌88年、都市対抗の予選では足立が三塁を守ったが、本大会出場を決めると再び初芝、四ケ所が補強された。1回戦で敗退したこの大会、足立はベンチに控えたままで終わった。

「予選では私が三塁手で、死にものぐるいで東京都代表の座を獲ったのに、2年連続、補強選手にコロッと代えられた。そりゃあ、頭にきますよ。私のイメージはいつも初芝。東芝府中で中軸打っている選手で、プロに行く選手。だから仕方ないなんて思いませんよ。もう、悔しくて悔しくてね。『予選で勝ったのオレやで』って言いたくなりました」

後編につづく>>

(=敬称略)