駒野友一が語る「忘れられない5試合」 ジーコに初めて招集された夜の衝撃「みんなベッドなのに、僕は畳で...」
駒野友一が現役時代を振り返る
「忘れられない5試合」(前編)
サンフレッチェ広島で8年、ジュビロ磐田で8年、その後FC東京やアビスパ福岡、そしてFC今治で現役を終えるまで、計23年間のプロサッカー選手生活──。2000年以降の日本サッカー史を語るにおいて、「駒野友一」の名前を外すことはできないだろう。
2022シーズンかぎりでユニフォームを脱ぎ、今年から「第二の人生」を歩んでいる駒野氏に現役時代を振り返ってもらった。まずは23年間のなかで「忘れられない5試合」について。アテネ世代の一員として戦ったあの試合、そしてドイツワールドカップで味わった屈辱も......。
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A代表に初めて呼ばれた当時23歳の駒野友一
── 昨季かぎりで23年間に渡る現役生活に幕を閉じた駒野さんは、今季よりサンフレッチェ広島のアカデミー普及部コーチとしてセカンドキャリアをスタートさせています。新しい生活はいかがですか?
「今はスクールのコーチとして、いろんな会場を回りながら、子どもたちと一緒にサッカーをやっています。スクールだけじゃなく、ジュニア、ジュニアユース、ユースと、各カテゴリーの練習を見たり、トップの練習に顔を出すこともあります」
── 子どもたちには実際にプレーするところも見せているんですか。
「そうですね。引退してまだ1年目なので、動ける時に動いておこうと。でも、やっぱりそんなに動けなくなりましたね。スタミナもアジリティもだいぶ落ちました(笑)。子どもたちにとってはプレーを見ることも大事だと思うので、子どもたちのためになんとか動いています」
── 教える、という仕事にやりがいを感じていますか。
「面白いですよ。自分が考えたことを子どもたちに理解してもらって、それを取り組んでもらうわけなので、やりがいはありますし、責任も感じます。
子どもの成長は無限なので、自分の教えたことを自分のものにしてもらうことはもちろん、これから子どもたちがサッカーを続けていくなかで『あの時、駒野コーチが言っていたことはこういうことなんだ』と、成長の過程のなかで気づいてもらえたらいいなと思います」
── 将来的には監督を目指しているのですか?
「監督になりたいですけど、今の時点ではまだ『11人も見きれない』というのが本音です」
── イメージしている監督像はありますか。
「監督が言ったことをやらされるのではなくて、子どもたち自身が考えて、ピッチで表現してくれるような選手を育てていきたいなと思っています。まずはアカデミーが中心になると思いますが、将来的にはトップの現場にも立ちたいと考えています。お世話になったクラブなので、結果で恩返ししていきたいと思っています」
── 今回は「現役時代に印象に残った試合・選手」をテーマにお話を聞きたいと思います。まずは試合について。キャリアを振り返った時、思い返される試合を5つ教えてください。
「5つか......そうですね、まずはアテネ五輪のイタリア戦ですね。2-3で負けたんですけど、スコア以上に個々の力の差を感じた試合でした」
......【日本vsイタリア「2-3」/2004年8月15日/アテネ五輪】
── イタリアにはなかなかのメンバーが揃っていましたよね。
「アンドレア・ピルロ(ミラン/当時・以下同)がいて、ダニエレ・デ・ロッシ(ローマ)がいて、FWにはアルベルト・ジラルディーノ(パルマ)がいて......。同世代だけどすでに名の知れた選手がたくさんいましたし、『これが世界レベルのサッカーなんだ』というのを突きつけられましたね。
特にピルロはすごかった。余裕でボールをキープするし、キックの精度も圧倒的。セリエAで活躍するにはこのレベルが必要なんだな......と感じました」
── 日本も最後に1点を返すなど、善戦しましたよね。
「スコア的にはそう見えるかもしれないですけど、一瞬のプレーがぜんぜん違いました。Jリーグでは見たことのないプレーというか、このタイミングでシュートを打つのか......というシーンも何度もありましたし。デ・ロッシにはオーバーヘッドで決められましたけど、その距離で、それをやるかっていう衝撃がありましたね」
── 個人的なパフォーマンスはどうでしたか。
「あの試合に関しては、個人の印象はほとんどないので、いいプレーはしていなかったと思います」
── そのイタリア戦を経験したことで、自身のなかに何か変化はあったのでしょうか。
「それがきっかけというわけではないですけど、世界との差を感じたことで『海外でやりたい!』という気持ちがより強くなりました。Jリーグでプレーするうえでの意識を変えなくちゃいけないな、と思いました」
── アテネ世代の一員としてオリンピックを経験した2年後、ドイツワールドカップのメンバーに入ったのは駒野さんと茂庭照幸選手(FC東京)のふたりだけでした。その意識の変化が次につながったわけですね。
「結果的にそうなりましたね。日常の意識を高めたことがよかったのかなと思います」
── では、ふたつ目の印象に残っている試合を。
「代表デビュー戦となった東アジア選手権の中国戦です。2005年ですね。この大会は国内組で臨んだんですけど、最初の段階ではメンバーに入れなかったんですよ。でもアツさん(三浦淳寛/ヴィッセル神戸)がケガをして、追加招集で入ったんです。それが初代表でした」
......【日本vs中国「2-2」/2005年8月3日/東アジア選手権】
── 選ばれた時の心境は?
「韓国で開催されたんですけど、チームから連絡があって、すぐに韓国に行ってくれと。喜ぶ間もなく、すぐに準備をして飛行機に飛び乗ったので、代表に選ばれた実感は湧かなかったんですよ」
── 実感が湧いたのは、現地に着いてから?
「いや、韓国に着いたら、なぜかホテルの部屋がほかの選手とは違う棟だったんです。みんなが新館とすれば、僕は別館で......みんなはベッドなのに、僕は畳ですよ(笑)。
普通、アツさんがいなくなった部屋に入れるのかな、と思うじゃないですか。でも、違ったんですよね。だから、大会期間中は自分だけ違う棟で寂しく寝ていました。『これが初招集の洗礼なのか......』と思いながら(笑)」
── なかなか悲しい経験ですね。それがこの試合を選んだ理由ではないですよね(笑)。
「もちろん、違います(笑)。東アジア選手権は4カ国が参加したリーグ戦で、初戦の北朝鮮戦(0-1)は出られなかったんですけど、メンバーをガラッと変えた2試合目の中国戦でスタメンに入ったんです。
僕自身は初招集ですし、1年後のワールドカップに出たいという想いを強く持っていたので、すごく気持ちが入っていました。中国が激しくきましたけど、僕自身も負けじと闘えたし、自分のなかで満足するプレーもできたので、思い出に残るデビュー戦になりましたね」
── 年代別代表を経験してきた駒野さんですが、A代表はやはり別物でしたか。
「違いましたね。オリンピックの舞台に立てたのはうれしかったですけど、年齢制限のないなかで選ばれるのは特別ですよね。より重圧はかかりますけど、この試合に関しては思いきってやることしか考えていなかったので、プレッシャーはなかったです」
── 当時はジーコ監督が指揮を執っていましたが、何か言われたことは?
「そんなにしゃべらなかったと思います。初招集だったので『おめでとう』とは言ってもらえましたけど」
── チームメイトの反応はどうでしたか。
「海外組がいなかったとはいえ、中澤佑二さん(横浜F・マリノス)、ヤットさん(遠藤保仁/ガンバ大阪)、小笠原満男さん(鹿島アントラーズ)......などなど、Jリーグで活躍している選手たちがたくさんいました。
僕自身は事前合宿にも参加していないですし、ほとんどコミュニケーションを取れないまま合流したので、最初は緊張しましたよ。でも、同世代の選手もけっこういたので、彼らに助けられたところは大きかったです」
── 駒野さんにとって忘れられない試合の3つ目はどれになりますか?
「ドイツワールドカップのオーストラリア戦です。大会前の親善試合でドイツとやって、そこで加地亮さん(ガンバ大阪)がケガをして、途中から出ることができました。
結局、加地さんが間に合わなかったことで、初戦のオーストラリア戦に出ることになりました。あの試合が今振り返ると、これまでで一番緊張した試合だったと思います」
......【日本vsオーストラリア「1-3」/2006年6月12日/ドイツW杯】
── 先制しながら、終盤の連続失点で1-3と逆転負けを喫してしまいました。
「最後の最後で、オーストラリアの武器でもある高さでやられてしまいました。すごく悔しい試合になってしまいましたね」
── 初めてワールドカップの舞台に立った心境はいかがでしたか。
「ほかの国際試合とはぜんぜん雰囲気が違いましたし、前半45分がこんなに短く感じたのは初めての経験でした。だから、あまり覚えていないんです。だけど、ハーフタイムを挟んでちょっと落ち着いたので、後半は果敢に仕掛けていこうと考えていました。
でも、積極性は出せたのですが、最後の精度が足りなかった。1本でもFWに合わせられるシーンを作れたら、結果は違っていたかもしれない。それも含め、とにかく悔しい試合でした」
── 逆転された終盤の時間帯、何が起きたのでしょうか。
「人数は日本のほうが揃っていたので、防げた失点だったと思います。どれだけ自陣のゴール前で身体を張れるか、身体を投げ出せるか。のちに映像を見た時、そういう部分が足りていなかったんだなと感じました」
── 試合後の雰囲気はどうでした?
「グループステージは初戦がすごく大事、というのはわかっていたので、勝利に近づきながら最後に逆転負けを喫した時のダメージはありましたね。自分も結果を残せなかった悔しさが大きかったですし、チームの雰囲気も試合のあとはかなり落ちていたと思います」
── あの時のジーコジャパンは「史上最強」と言われ、期待感も大きかったです。結果が出せなかった原因をどのように分析していますか。
「個人のレベルはすごく高かったと思います。でも、やっぱりサッカーはチームスポーツですから。チームとしてどれだけ戦えたのかな......と考えると、そういう部分が足りていなかったのかなと思います」
── 当時のチームでは駒野さんが一番若かった(当時24歳)ですが、そのなかで自分の力を出しきれたと思いますか?
「若いからこそ引きこもることなく、果敢に仕掛けていこうと考えていました。そこは自分の特長でもあるので意識しましたし、後半に関してはしっかりと出せたと思っています」
── 結果的に、次の試合からピッチに立つことはできませんでした。そこの悔しさもあったのでは?
「そうですね。初戦に出られたのはよかったですけど、もしあそこで勝っていれば、次も出られたんじゃないか......もっといいプレーができていれば、ピッチに立てていたんじゃないかって。大会のあとは本当にいろんなことを考えましたね」
── ワールドカップに出たことは、その後のキャリアにどんな影響を与えましたか?
「まずは『次のワールドカップに出たい』という気持ちになりましたし、出るだけではなく、あの舞台で活躍するためにはJリーグで圧倒的な存在にならなければいけない、自分の価値を上げていかなければいけないと思いました。
そのために、自分の武器であるクロス精度というものを、Jリーグのなかでしっかりと見せつけていこうと。一番は結果なので、結果をどれだけ残せるか常に考えるようになりました」
(後編につづく)
◆「忘れられない5試合」後編>>松井大輔がずっとそばにいてくれた「今は、お前のせいだと...」
【profile】
駒野友一(こまの・ゆういち)
1981年7月25日生まれ、和歌山県海南市出身。中学3年時に広島に転校し、サンフレッチェ広島ユースから2000年にトップチームへ昇格。プロ2年目からサイドバックで活躍したのち、2008年にジュビロ磐田へ移籍。その後、FC東京→アビスパ福岡→FC今治でプレーし、2022年に現役を引退する。2004年アテネ五輪、2006年&2010年ワールドカップに出場。日本代表・通算78試合1得点。ポジション=DF。身長173cm、体重70kg。