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人はなぜ病気になるのか?、ヒポクラテスとがん、奇跡の薬は化学兵器から生まれた、医療ドラマでは描かれない手術のリアル、医学は弱くて儚い人体を支える…。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、X(twitter)で約10万人のフォロワーを持つ著者が、医学の歴史、人が病気になるしくみ、人体の驚異のメカニズム、薬やワクチンの発見をめぐるエピソード、人類を脅かす病との戦い、古代から凄まじい進歩を遂げた手術の歴史などを紹介する『すばらしい医学』が発刊された。池谷裕二氏(東京大学薬学部教授、脳研究者)「気づけば読みふけってしまった。“よく知っていたはずの自分の体について実は何も知らなかった”という番狂わせに快感神経が刺激されまくるから」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。

病原体の根絶宣言

 一九八〇年、世界保健機関(WHO)は天然痘撲滅宣言を行った。人類史上初めて、一つの病原体が世界から根絶されたのである。ワクチンの普及によるものだ。

 ひとたび感染すると致死率は二〇〜五〇パーセントに及び、二十世紀だけでも推定三億人以上という膨大な数の人類を死に追いやってきたこのウイルスは、今や自然界に存在しない(1・2)。

 研究を目的として、アメリカとロシアの研究施設に保管されているのみである。歴史上、天然痘で死亡した最後の人類となった女性は、悲惨な事故とともに広く知られている。

突然の体調不良

 撲滅宣言から二年前のことだ。イギリス、バーミンガム大学の解剖学教室で医療用写真を現像する仕事をしていた四十歳のジャネット・パーカーは、一九七八年八月、突然の体調不良を訴えた。

 頭痛や筋肉痛、全身にひどい発疹が現れたのだ。彼女の入院後、主治医は驚くべき検査結果を手にすることになる。パーカーの体液から天然痘ウイルスが検出されたのである。

特効薬は無い

 当時、天然痘患者はもはや全世界からほとんど姿を消していた。一九七一年に南米で、一九七五年にアジアで天然痘が根絶され、一九七七年十月にソマリアの病院職員が一人罹患したのを最後に、世界では一例も報告がなかった(3)。

 天然痘に特効薬は存在しない。パーカーは一ヵ月後の九月、隔離施設で死亡した。全身を防護服に覆われた医療スタッフ以外に、彼女は誰とも会うことができないまま孤独な最期を迎えた。

 自然界にはほぼ存在しないはずのウイルスに、まして先進国の大都市に住むパーカーが、なぜ感染したのか。それは、想定外の事故によるものだった(4)。

 彼女が所属する解剖学教室の真下には、微生物学教室の実験室があった。この実験室で天然痘ウイルスの研究を主宰する教授のヘンリー・べドスンは、成果を急いでいた。

 天然痘の撲滅宣言を目前に、研究施設が次々に閉鎖を余儀なくされていたからだ。ウイルスを保管する研究室を、できる限り減らしたいというWHOの方針によるものだった。

 ベドスンは熱心なウイルス学者だった。中東の危険地域を訪れて研究活動を行うなど、天然痘の撲滅を目指してウイルス研究に打ち込んでいた。彼はWHOに嘆願し、一九七八年末までの数ヵ月間、かろうじて研究継続を許可されていた。

気づかないうちに体に侵入

 事故が起きたのは、そんな矢先だった。実験室から漏れ出した天然痘ウイルスが、気づかないうちにパーカーの身体に侵入したのである。ウイルスが通気孔を通って真上の解剖学教室に到達したと見られるが、はっきりした理由はわかっていない。

 いずれにしても、パーカーが不運にも研究室内で天然痘に感染したのは確実だった。 調査の結果、責任を問われたベドスンには非難が集中した。気を病んだ彼は、一九七八年九月、自宅で喉を切って自殺した。

悲惨な結末

 あまりにも悲惨なこの事件は世界中の研究機関を揺るがし、施設の安全性を見直す大きな契機となった。現在、病原微生物を扱うあらゆる研究室は、極めて厳格な基準を満たさなければならない。

 人命を奪う恐ろしい外敵でありながら、私たちはその存在を肉眼で検知できず、逃避行動をとることすらできないからだ。

【参考文献】
(1)NIID国立感染症研究所「天然痘(痘そう)とは」
https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/445-smallpox-intro.html
(2)“The eradication of smallpox--an overview of the past, present, and future” Henderson DA. Vaccine. 2011;29 Suppl 4:D7-9.
(3)Centers for Disease Control and Prevention「History of Smallpox」
https://www.cdc.gov/smallpox/history/history.html
(4)Brirmingham Live「The Lonley death of Janet Parker」
https://janetparker.birminghamlive.co.uk/

(本原稿は、山本健人著『すばらしい医学』からの抜粋です)

山本健人(やまもと・たけひと)

2010年、京都大学医学部卒業。博士(医学)。外科専門医、消化器病専門医、消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医、感染症専門医、がん治療認定医など。運営する医療情報サイト「外科医の視点」は1000万超のページビューを記録。時事メディカル、ダイヤモンド・オンラインなどのウェブメディアで連載。Twitter(外科医けいゆう)アカウント、フォロワー約10万人。著書に17万部のベストセラー『すばらしい人体』(ダイヤモンド社)、『医者が教える正しい病院のかかり方』(幻冬舎)、『もったいない患者対応』(じほう)、新刊に『すばらしい医学』(ダイヤモンド社)ほか多数。
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公式サイト https://keiyouwhite.com