中日・立浪和義監督【写真:荒川祐史】

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川又米利氏は2002〜04年、12〜13年に中日で打撃コーチを務めた

 元中日で野球評論家の川又米利氏は現役引退後、古巣の打撃コーチを2002年から2004年、2012年から2013年の計5年務めた。1軍担当は山田久志監督時代の2003年だけで、後はすべて2軍で選手育成に励んだ。多くの選手に関わったが、特に印象深いのは2012年がプロ1年目だった高橋周平内野手という。「モノが違っていたからね」。その後、伸び悩んでいるが「周平がチームの顔としてやってもらうのが一番だと思う」とエールを送った。

 川又氏がコーチを務めた2002年と2003年は山田監督、2004年は落合博満監督、2012年と2013年は高木守道監督が1軍を率いた。「2002年は最初、島野(育夫)さんが2軍監督だったけど、星野(仙一)さんが阪神の監督になられたから、そっちに行かれるんじゃないかと思ったら、やっぱりだったね」。コーチ初体験シーズンはそういうドタバタからスタートした。

 落合体制となったコーチ3年目の2004年には佐藤道郎2軍監督の下、2軍打撃コーチを務め、ウエスタン・リーグで優勝し、ファーム選手権も制覇した。「あの時は(土谷)鉄平がいたなぁ」。後に楽天へ移籍し、パ・リーグ首位打者のタイトルも獲得した男の中日若手時代。登録名も「鉄平」ではなく、まだ「土谷鉄平」だった頃だ。「1軍に送り出した若手が上で活躍するのが楽しみだったし、うれしかった」と振り返った。

 2度目のコーチ業となった2012年と2013年の2軍監督は鈴木孝政氏。2年ともウエスタン・リーグ最下位だったが「僕らの仕事は選手を1軍に送り込むこと。いかにいい状態で呼んでもらえるようにしていくかが義務だと思ってやっていました」ときっぱり。そこで印象に残っているのが高橋周平だ。「(東海大甲府から)ドライチで入ってきたけど、バッティングは素晴らしかった。中日を引っ張っていく選手になってほしいなって思ったね」。

 その高橋も29歳になった。怪我にも泣かされ、まだまだ思うような成績を残せていないが、川又氏はこれで終わるような選手とは思ってもいない。「今は本人も歯がゆいと思うけど、怪我にも強くなって1年間戦ってほしい」。もう一段階上のレベルの選手として期待しているし、その力も十分あると見ている。

ナゴヤ球場では「ホームランが魅力。見ていて面白かったんじゃないかな」

 苦しい戦いが続いている古巣についても「真剣にやっているのに、どこか気が抜けたようなプレーに見えてしまうのがねぇ……。そういうのがなくなれば今の地位にはいないと思う」。後輩でもある立浪和義監督のことは気になるようで「時代が違うから監督も怒りたくても、そんなに怒れないよねぇ……」と心配そうに話す。怒れば解決すると言っているわけではない。何とかしてチームを好転させてほしいと願うばかりだ。

 その上で川又氏は“強竜打線”と呼ばれたナゴヤ球場時代を思い浮かべながら「あの頃はホームランが魅力だった。(ファンも)見ていて面白かったんじゃないかな。ナゴヤドームも昔の甲子園みたいにラッキーゾーンを作ったらいいと思うけどね」と話す。「取り外しができるフェンスを前に出して立てて、高さも180センチから190センチくらいにして、ちょっと上がったら捕れそうにするとかね。昔(阪急の)山森(雅文外野手)が(西宮球場で)よじのぼって捕ったみたいに……」。

 現在、川又氏は野球評論家以外に「ドラゴンズアカデミー」のコーチと、名古屋市のバッティングセンター「らららアカデミー」のコーチも務める。「ドラゴンズアカデミーは週1回、水曜日を担当している。らららアカデミーは月1回かな。子どもたちを教えるのは楽しい。ここからプロが出てきてほしいなと思っていますよ」。かつて巨人終身名誉監督の長嶋茂雄氏は川又氏の打撃フォームを見て教科書通りという意味で「ブックだねぇ」と絶賛した。それこそ子どもたちにもとっても最高のお手本だろう。

「そりゃあ、チャンスがあれば(プロのコーチを)もう1回やってみたいというのはある。大変だけど、人生かけてやってみたいというのはあるよね」と正直な思いも川又氏は口にした。美しい打撃フォームは今なお健在。「ブック」と呼ばれた元中日の“仕事人”は指導者としての勉強も重ねている。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)