算数で「64の前の数字はなんですか?」と聞かれたとき「65」と答えた子がいます。子どもにとってじつは、「前」や「後ろ」というのは難しいことばなのだそうです。

言語習得研究の第一人者である慶應大学教授の今井むつみさんと、400メートルハードル元オリンピアンで、ことばにずっと興味を持っていたという為末大さんとの対談書籍『ことば、身体、学び』(扶桑社刊)から、子どものことばと学習について紹介します。

簡単な算数の問題を間違えてしまう子ども

為末 大さん(以下、為末):高校生のテストを見せてもらったことがあるのですが、文章を読んだとき、出題された問題に回答できるかは、その文章の内容をどれだけ立体的に頭の中で描けるかということと、密接な関係がある感じがしました。

今井むつみさん(以下、今井):そのとおりです! 私は共同研究者の方々や広島県教育委員会、福山市教育委員会と共同で「たつじんテスト」というテストを開発し、小学校2年生から5年生までを対象に調査を実施しました。
このテストは、子どもの学力の躓きの原因を明らかにすることを目的としたもので、調査の結果は今井むつみ他著『算数文章題が解けない子どもたちーことば・思考の力と学力不振』(岩波書店、2022年)という書籍で詳しく報告しています。
その中にこのような問題がありました。
「14人の子どもがいて、太郎さんの前には6人います。太郎さんの後ろには何人いますか?」これを5年生でも間違える子がかなりいました。

為末:それは、太郎さんを入れないで計算してしまうというパターン?

今井:そうです。多くの子どもは、いきなり14から6を引き算してしまい、太郎さんがどこかに行ってしまう。そこでなにができていないのかというと、出題された状況を心に描いて、「だからこの部分を聞かれているのだな」と推測することをしないのです。状況を心の中で組み立てたイメージ、これをメンタルモデルというのですが、そのメンタルモデルがつくれていないということなのです。
文章を読んでわかる、理解するということは、結局、このメンタルモデルをつくるということで、それができない子どもが非常に多いのだと思います。

為末:なるほど。そう聞くとこのメンタルモデルというのは非常に重要な感じがします。

今井:メンタルモデルは難しい用語です。専門的には、「表象」ということばを使います。私がメンタルモデルと言ったのは、状況を適切に抽象化してイメージできるということです。
たとえば「全部で14人いて、太郎さんの前には6人、太郎さんの後ろには何人いますか?」と聞かれたとき、引き算の式を立てるためには、問題に書かれていない数字を入れなくてはいけません。
問題にはない数字を、自分で行間を埋めて探すというのは、じつはとても難しいことなのです。

●本を読まない子は「行間を埋める」ことができない

今井:メンタルモデルをつくるためには、多くの場合、行間を自分で埋めることができないといけません。読解力がないと言ってしまえばそれまでですが、読解力はとても複雑な要素から成り立っています。そもそも語彙自体が少ない場合、わからないことばが多くて読めないということもありますし、それだけでなく、行間を埋める力がなくて、メンタルモデルがつくれないから読めないということもあります。それらはきれいに切り離すことはできなくて、たいていお互いに問題が絡みあった状態です。
語彙がない子どもはあまり読む訓練もしていないことが多いです。行間を埋めることができるというのは、どのくらい読む訓練をしているか、どれだけ本を読んで考えているかということにもかかわります。

為末:そうすると、本を読んでいる子どもは、メンタルモデルがつくれるということになりますか?

今井:本をまったく読まない子どもに比べたらつくりやすくなるとは言えますね。
ただ、「読めること」というのは、本を読んだら自動的にその状況が理解できるようになることというわけではありません。本を読めるようになることの価値は、ひとつの次元に落とし込めるものではなく、本当にたくさんの次元で、本を読む効果があるのです。
そのひとつが、推論です。
本の中には非常に豊かな文脈があります。わくわくするような文脈もあれば、面白くて興味をもてるような文脈もあるでしょう。そのなかで、知らないことばが出てくれば、「これはこういう意味かな?」と推論します。
この推論するということが大切で、読書というのは、この推論によって、書かれている
ことを自分なりに心の中で再構築する作業であるともいえます。
そのためにはもちろん、先ほどお話ししたように、語彙も必要です。語彙が増えるというのは、読書のいちばんわかりやすい、目に見える効果です。

●「前」は、未来も過去も指す

今井:「子どもが14人並んでいる文章題」では「前」ということばが使われていますね。このことばはじつは曲者です。
「前」ということばを文脈で正しく理解するためには、自分の枠組みではなく、問題の出題者が「前」と「後ろ」についてどのようなメンタルモデルをもっているかを推論する必要があります。自分のメンタルモデルと出題者のメンタルモデルが食い違うことがあり、そうすると、答えは間違ってしまうのです。

この間、「前」のメンタルモデルの食い違いによって起きた興味深いエピソードを知りました。算数のドリルをやっていた子どもが、「64の前の数字はなにですか?」という問題に、「65」と書いていた、というものです。大人なら63と答えるのが当たり前ですが、それはことばの使い方の慣習を知っているからにすぎません。
子どもは「前」と言われても、なにを基準に前と言っているかわからないと正しく答えられないのです。

為末:65と答えた子どもはどういうイメージだったのでしょうか?

今井:その子は数字が小さいほうから大きいほうに向かって並んでいるイメージをもっていました。そうすると子どもにとって進行方向、すなわち大きい数字のほうが前というイメージになります。
こうしたことばは子どもにとって本当に難しく、小学1年生はカレンダーの1週間前と1週間後ということばにも混乱します。実際、ことばはときには、とても意地悪です。私たちは直感的に、未来は前にあると思います。「未来に向かって前進しよう」「過去は振り返らない」などと言いますよね。
その一方で、1週間前というのは逆方向の過去のことなのです。ですから、その文脈では前をどのように定義するかという規範を知らないと使えないわけですが、それは教えてもらえません。

●文章を読むことは、じつは複雑なプロセスを経ている

今井:前や後ろということばは日常的に使うので、やさしいと思うかもしれませんが、じつは日常的に使うこれらのことばはとても難しいのです。

為末:言語外にある無意識の規範といいますか、みんなに共通している認識のようなものがあって、それがこういうことかなと予想がつくようになると、ことばの奥にある意味を推測できるようになるという感じでしょうか。

今井:ですね。ですから、「豊かな語彙」も単に「なんとなく知っていることばの数」が多いということではなく、「きちんと文脈に合わせたメンタルモデルをつくれる、意味を理解していることばをたくさんもっている」と考えたほうがよいと思います。
読解力というのは、文字という記号の意味を読み取るプロセスだけを指すわけではなく、その背後にある「文字列をデコード、つまり解読していって、文字から単語、文、文章の意味を構築していく一連のプロセス」がすべて大切なのです。

為末:言われてみると、文字の形を見て、意味を捉え、それを頭の中で自動変換してイメージをもつというのは、進化のプロセスでも、ある意味、不自然なことですよね?

今井:そう、すごく不自然なことなのです。
ですから、小学校の国語の授業で行われている、「ごんぎつね」を読む時の登場人物の気持ちや状況などの読み取り訓練は、氷山でいうと海面から頭が出ているごく一部分にすぎないのです。
よい読み手になるには、その氷山から頭を出している部分を下階層でがっちり支える必要があります。下階層というのは、目の動きを中心とした運動制御や単語へのアクセス、書かれている文字の中から知っている単語を認識し、脳にアクセスして語彙を引っぱってきて、書かれていることを再構築するという情報処理をシームレスに行うことです。
それらの無意識で自動的に行っている認知機能がスムーズに、自動的にできてはじめて、論理的解釈や、主人公の気持ちを読み取るなどの上位の階層にたどりつけるわけです。

●幼児期の読み聞かせが読解力を育てる

為末:そういう意味でも本を読むことが大事?

今井:いちばんいいのは、小さい頃からの読書ですよね。幼児期の読み聞かせは子どもの
読解力を育てるもっとも大事な一歩となります。

為末:音と文字の両方で入ってくるのがいいのでしょうか。

今井:文字を音にして単語を認識することがスラスラできず、つまずいてしまう子どもが
たくさんいます。だから子どもがひとりで読む前に、大人が音読してあげるといい。それ
は、先ほど述べた、文字をデコードすることの支援になります。お子さんには、ぜひ、本を音読してあげるといいですよ。

為末:どういう本を読んであげるといいのでしょうか?

今井:子どもが自分で読みたがったら読める本を読んであげるのが基本です。強制は絶対
しないほうがいいです。
それよりは、いちばん大事なのは、子どもが本を好きになるように、たくさん音読をし
てあげること。それがあるかないかで、子どもの一生はものすごく大きく変わると思う。
本を読んであげることは、親が子どもにできる最大のプレゼントですね。

為末:そう思って、うちの子には読み聞かせをしたのですが、本を読まないと寝なくなっ
て、それはそれで、けっこう大変でした。でも、自分で読めるようになるまでのスピード
が一瞬でした。

『ことば、身体、学び』(扶桑社刊)では、ほかにも「ことば」について紹介しています。