2017年の駅名変更から5年以上が経過し、獨協大学前<草加松原>駅の名称は住民にも馴染みつつある=2023年7月(筆者撮影)

2023年、埼玉県草加市は市制施行65年を迎える。前身の草加町は1955年に草加町・谷塚町・新田村が合併して誕生し、1958年に市制を施行。当時は時限的に市制施行の人口要件が3万人に緩和されていたこともあり、このタイミングで草加町は市になった。

その後も人口は順調に増加した。その背景には、高度経済成長期に地方の農村部から都市部への人口流入が加速していたことが挙げられる。東京に接しているという地理的要因もあり、ベッドタウンとして順調に発展を遂げた草加市の発展史を概観したとき、市内を南北に貫く東武鉄道の伊勢崎線が果たした役割は見逃せない。

北関東の貨物輸送を支えた東武

東武鉄道は1899年に最初の区間となる北千住駅―久喜駅間を開業しているが、同時に千住―越中島間も申請しており、そちらは却下されている。すでに、北関東には日本鉄道(現・JR東日本の東北本線・高崎線・常磐線など)が路線を広げており、同鉄道は北関東で生産された生糸を東京・横浜へと運搬するという役目を課せられていた。

しかし、日本鉄道の沿線からはずれた機業地も少なくなく、そうした地域から鉄道を望む声があがる。それが伊勢崎線の実現につながるわけだが、開業前から日光街道・奥州街道の旧宿場町にあたる千住・草加・越谷・粕壁(春日部)は多くの人出でにぎわっていた。地元の篤志家たちは、鉄道が開業すれば沿線の殖産興業につながると主張。資金を出し合って、1893年に千住茶釜橋―越ヶ谷町間に千住馬車鉄道を開業させる。

馬車鉄道は馬が引く鉄道で、日本鉄道の汽車と比べるとスピードも輸送力も劣り、加えて馬糧費や馬を管理するための人件費などの経費が高くなるので経営効率は決してよくない。開業時の熱狂が薄れると客足は遠のき、経営は傾く。そして、1896年に解散に追い込まれた。

馬車鉄道の消失により草加が衰退すると案じた地元の名士や千住馬車鉄道の元職員たちは、施設を買い上げて草加馬車鉄道を新たに発足させた。同馬車鉄道は1898年に千住茶釜―草加間を部分開業し、すぐに大沢町(現・越谷市)まで延伸した。しかし、翌年に東武が北千住駅―久喜駅間で運行を開始。東武は蒸気機関車による運行なので馬車鉄道に勝ち目はなく、同馬車鉄道は1900年に廃止される。

そこから東武は東京方面への進出を図りながらも、北関東へと路線網を広げていく。それは貨物輸送の割合が大きかったことが一因にある。沿線には大谷石・藪塚石といった建材に適した良質の石を産出する地域が点在し、戦前・戦後を通じて貨物列車を頻繁に運行。東京圏の建築・建設需要を満たしていた。

一方、北関東に路線を延ばしたことは旅客面で不利だった。東京にターミナルを置く大手私鉄のうち、東武だけが山手線と接続していない。当時、伊勢崎線から東京都心部へと出るには、北千住駅で常磐線に乗り換えるか浅草駅から銀座線に乗り継ぐしか手段がなかった。そうした理由から、伊勢崎線は東京都心部へ通勤するサラリーマンに忌避され、宅地化は遅れた。

都心進出と「通勤路線化」への道

東武の社長、根津嘉一郎(初代)は都心へ路線を延ばすことで通勤・通学需要を取り込み、沿線を宅地化することを目指したがかなわなかった。後を継いだ根津嘉一郎(2代目)も同様に、戦後復興期から都心進出を積極的に推進した。

東武沿線の宅地化を後押ししたのは、戦災復興だった。戦災復興事業により、日本経済が少しずつ動き出すと、東京は労働力不足が表面化する。その解消策として、金の卵と呼ばれる中学校を卒業したばかりの男女が重宝されていく。その金の卵たちが歳月とともに成長し、1950年代半ばから家庭を持つようになる。これによりマイホーム需要は急増し、東京は住宅難に陥った。

政府は1950年代から矢継ぎ早に、公営住宅法や住宅公団法を制定。住環境の改善を図ろうとしたが、不動産価格が高騰。庶民にとって東京でマイホームを持つことは高嶺の花になっていた。

日本住宅公団(現・UR都市機構)は、1959年から草加駅を最寄り駅とする草加団地を建設。団地の入居者の多くは、草加駅から東武伊勢崎線に乗って東京へと通勤するサラリーマン世帯だった。こうした追い風要因もあり、東武の利用者数は増加していく。


建て替え前の草加松原団地。高度成長期の住宅需要に応じて各地に団地が建設された(写真:カージ/PIXTA)

1962年、日比谷線と伊勢崎線の相互直通運転が開始。当時、日比谷線は北千住駅―南千住駅間と仲御徒町駅―人形町駅間の部分開業にとどまっていた。1964年に日比谷線は全通し、都心とつながるという東武の悲願が実現した。

直通運転が沿線の宅地化を促したことは言うまでもないが、とくに伊勢崎線の人口増加を牽引したのが日本住宅公団の団地群であり、その象徴として語られるのが草加松原団地だ。前述した草加団地が410戸という規模に対して、草加松原団地は5926戸と比較にならない大規模な団地だった。そのため、同団地は “東洋一のマンモス団地”と呼ばれるようになる。

他方、規模が大きな団地は入居者数も世帯数も比例して多くなる。入居者数が多くなれば税収が増え、団地住民の日常の買い物といった経済効果が見込める。そうしたメリットがありながらも、草加市民は草加松原団地に猛反対している。

なぜ、地元住民は大規模な団地の建設に反対したのか? 草加松原団地の住棟が立ち並ぶ一帯は、それまで水田が広がる低地だった。そんな一帯に大規模な団地を造成するためには、道路・上下水道といった生活インフラなどが必要になる。その整備費に莫大な税金が投入されることは自明で、多額の整備費は市財政を圧迫する。どうしても団地のインフラ整備が優先されることになるから、市内のほかのエリアでは整備が後回しにされる可能性もあった。

通勤と反対方向の需要を生んだ大学誘致

こうした理由から市民の反対は根強かったが、市議会は敷地の約17万坪を4区画に分け、1961年から1964年までの4年をかけて、少しずつ造成していくことを決定。松原団地の住棟を少しずつ建設していくことによってインフラの整備費を平準化し、団地外住民の負担を和らげることが配慮された。

こうして草加松原団地は駅に近いエリアから順にA・B・C・D地区と割り振られ、A地区から住棟の建設が始まる。そして、1962年に玄関駅となる松原団地駅が新たに開業した。当初、同駅の入り口は団地の住棟が並ぶ西側に設けられた。駅名が示すように、まさに団地のために新設された駅だったといえる。


松原団地駅は団地住民の玄関駅として整備された=2011年5月(筆者撮影)

しかし、団地住民が乗車する電車は主に通勤に利用される。そのため、朝ラッシュ時は東京方面へと向かう電車ばかりが混雑した。運転本数を増やせば混雑を緩和できるが、電車は終点の浅草駅に着いた後に折り返してこなければならない。

折り返しの電車を空の状態で走らせることは、輸送面でも経営面でも非効率的になる。運転本数を増やせば増やすほど、比例して空の電車が折り返す本数も増えてしまう。東武としては効率的に電車を運行したいことだろう。しかし、折り返し電車に人を乗せるには郊外に集客施設をつくらなければならない。それは莫大な費用がかかる。

東武にとって悩ましい問題だったが、幸運にもすぐに解決する道筋がついた。1964年に獨協大学が開学したからだ。大学の開学により、朝ラッシュ時に通学需要が生まれ、浅草駅からの折り返してくる電車にも多くの学生が乗るようになった。


獨協大学は松原団地駅から徒歩5分の場所にあり、団地住民とともに東武の需要増に一役買った(筆者撮影)

東武が松原団地駅前に獨協大学キャンパスを誘致したのは、長らく電車運行の効率性を高めるためと言われてきた。実際、大学の開学で浅草駅から折り返す電車は多くの乗客を乗せている。しかし、当初の獨協学園は東京都東村山町(現・東村山市)に所在していた国立村山療養所(現・国立病院機構村山医療センター)にキャンパスを構えることを検討し、草加は予定外だった。

獨協の学園長だった天野貞祐は文部大臣を務め、退任後に学園長に就任。大学の開学を悲願にしていた。その天野は、大学用地として国立村山療養所に着目していた。同所は大蔵(現・財務)省が所有する国有財産だったが、大蔵省は大学用地として売却するには文部(現・文部科学)省から開学認可を得ていることを条件にした。一方、文部省は大学の敷地を確保しなければ開学の認可を出せないと渋っている。

こうした状況から大学の開学は行き詰まり、獨協大学は幻に終わろうとしていた。一方、同時期に東武鉄道は沿線に大学を誘致するべく、東上本線の霞ケ関駅と坂戸駅、のちに松原団地駅となる伊勢崎線の北草加駅(未開業)に広大な敷地を確保していた。それを聞きつけた獨協学園の関係者は、3カ所を視察。計画段階では北草加駅と仮称されていた駅一帯を第一候補に定める。

団地と学園都市の2つの顔

獨協学園と交渉にあたった東武側の責任者である関湊は、東武総帥の根津から絶大な信頼を寄せられていた。関は同学園との交渉で、大学を誘致できることや学生による通学需要が期待できるからといって土地を安売りすることはしなかった。学園の関係者たちは、売値が高いことを難点としながらも、東京都心部から近いという立地に魅力を感じて購入を決断。中学・高校の卒業生からの寄付や大学債の発行、銀行からの融資によって資金を調達した。

こうして学園は、東武所有の3万5000坪のうち2万4000坪を大学用地として購入する。東武と獨協大学の交渉過程を見ると、大学用地の売買はビジネスだったことが透けて見えるが、関は獨協学園との交渉で天野の思想に感銘を受けた。天野も関の人柄に惚れ込んでいる。大学用地の交渉で両者は関係を深め、関は獨協学園の理事に就任。後に理事長も任されている。

松原団地と獨協大学が誕生したことにより、駅前風景は数年で急変した。それまで一面に水田が広がる農村然とした街は、大規模な住棟が立ち並ぶ住宅地と学生が闊歩する学園都市というふたつの顔を持つようになった。

しかし、駅周辺は低地の水田だったこともあり、団地建設で水捌けが悪化。台風によって、冠水が毎年のように起きるようになる。1974年には台風8号によって団地全域が浸水。これを機に水害対策協議会が設置され、綾瀬川や伝右川の治水対策が取り組まれるようになった。そして1985年には松原排水機場が完成。それでも、浸水被害はなくならず、団地の住民を悩ませた。

冠水時、団地から東京へと通勤するサラリーマンは家から長靴を履いて駅まで歩き、持参したビニール袋に長靴を入れて駅で通勤靴へと履き替えることが常識になっていた。そして、駅コンコースの手すりには長靴を入れたビニール袋をぶら下げておくのも松原団地駅の独特の習わしだった。長靴が手すりにぶら下げられて並ぶ光景は、平成期に入っても見られた。

東武は浸水対策も兼ねて伊勢崎線の高架化に着手し、松原団地駅を含む草加市全域は1988年に全線が高架化した。

「団地」の名が消えても残る功績

伊勢崎線の通勤需要を生み出してきた草加松原団地は、1990年代から建て替え議論が喧しくなる。そして、1996年には松原団地駅西口再整備事業が開始された。

1999年、松原団地の再生トップバッターとして高さ105mを誇る超高層住宅のハーモネスタワーが完成。そして、2003年から草加市・獨協大学・UR都市機構の3者によって松原地区の再整備事業が開始される。同事業では、駅から近いA地区から順に建て替えられることになり、A地区の団地はコンフォール松原へと生まれ変わる。


松原団地西口公園は現在も名称を存続。住民の憩いの場になっている(筆者撮影)

地域のシンボルだった草加松原団地が姿を変えたこともあり、草加商工会議所を中心にした松原団地駅名変更協議会が発足。同協議会が主導し、獨協大学が約3億円の費用を負担する形で2017年に駅名が獨協大学前駅、副駅名称が草加松原へと変更された。


松原団地の建て替えにより駅名改称の声があがり、2017年に獨協大学前<草加松原>駅に変更された=2020年8月(筆者撮影)

ベッドタウンとして東京を支えた草加松原団地は、駅名の改称により名実ともに歴史の1ページとなった。松原団地駅時代から数えても、獨協大学前駅は60年の歴史しかなく、1899年に開業した伊勢崎線の歴史から見れば短い。それでも高度経済成長を「住」の部分で支えてきた同駅と団地の存在は、今後も語り継がれていくことになるだろう。


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(小川 裕夫 : フリーランスライター)