70歳3人に応援された野球少年「土壇場」の奇跡
天に与えられた時点で、才能が輝くわけではない。来る日も来る日もしつこく磨き続け、初めて輝きを放つ。天才もまた、泥臭く努力してきた人なのだ(写真:イチゴミナト/PIXTA)
定年退職後、所属なし、希望もなし。主人公は全員70歳。かつて応援団員だった3人が、友人の通夜で集まった。そこに、「応援団を再結成してくれ」と遺書が届くが、誰を応援してほしいのかがわからない……!?
熱くて尊い、泣ける老春小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』の第1話「シャイニングスター 引間広志の世間は狭い」の試し読み最終回(全8回)をお届けします。
「俺らは応援団だぞ」
「かっ飛ばせー、健斗っ」
自分たちの絞り出した声が虚しく響く。
「私たちの応援は、もう必要ないんじゃないか」
絶望的な状況に、本音がこぼれる。
「敬遠じゃあ、さすがにかっ飛ばすのは無理だ」
「おい、俺らは応援団だぞ。前を向く選手に、後ろ向きな言葉を吐いていいわけねえだろ」
板垣が真っ赤な顔で睨む。ただその声は苦しげだ。
「でもさ、本当に諦めてないかも」
宮瀬が健斗くんの手元を指した。「バットのグリップを長く持ち変えてる」
「バッターボックスの内側ぎりぎりまで寄ってるぜ」
板垣の声に鋭さが戻る。
健斗くんの目は死んでいない。
それどころか、虎視眈々と獲物を狙う視線は、ぞっとするほどに美しかった。
私は勘違いしていた。
天に与えられた時点で、才能が輝くわけではない。来る日も来る日もしつこく磨き続け、初めて輝きを放つ。天才もまた、泥臭く努力してきた人なのだ。
「応援、まだ必要かもしれないな」
私は喉もとに拳を叩きつけた。むせるような痛みが走り、皮膚の裏側が濃厚な熱を持つ。「声はかれても、情熱はかれてなかった」と今度は口に出してみる。私は背中で両拳を合わせ、肩幅より一足だけ広く足を開いた。
「いっそシャイニングするまで、エンドレスでいいよ」
宮瀬がシャツの袖をまくる。
板垣が右手を天に掲げ、雄叫びを上げる。
「ミラクルホークスのおおお、勝利をねがってえええ、エールを送るううう」
呼応するように、私は咆哮した。
「フレッ。フレッ。ミラクルホークス! フレッ。フレッ。ミラクルホークス!」
絶対に声を届ける。ぶっ倒れるのを覚悟で絶叫した──はずだった。しかし次の瞬間、まわりから上がった「わあ」という歓声に、エールは呆気なくかき消された。健斗くんがバットを投げ出しながらも放った打球が、三塁線ぎりぎりに落ちたのだ。左翼手が捕球する間に、健斗くんは二塁を攻める。滑り込む脚とグラブが交錯し、砂埃が舞った。
判定は、アウト。
自分たちが絞り出した声援よりも遥かに大きな親たちのため息に、呑み込まれていく。
巣立、やっぱり努力は裏切るじゃないか。
1点リードされたまま、とうとう6回裏を迎えた。小学生は6イニング制だから、これが最後の攻撃となる。
私は席から身を乗り出して、ベンチの様子を窺った。周くんの横顔が見える。彼は、試合の様子を他人事のように、ぼうっと眺めていた。あのバッターボックスに立ち、ボールを打ち返すために今日まで走り続けてきた。その夢が、潰えようとしている。
彼の目から輝きが失われていく。その瞳に、いつかの自分が重なった。
その時、聞き覚えのある声がした。
「引間さん……っすよね」
横の通路に立つ男性に、じっと目を凝らす。
「村下か?」
10年ぶりに会う犬顔の部下だった。
「なんでここに」
「それはこっちの台詞っすよ」村下はあの頃と変わらない口調で言った。「息子の試合を観に来たんですけど、最近残業続きで、つい寝坊しちゃって」
「一塁側ってことは、ミラクルホークスなのか?」
村下は決まりの悪そうな笑みを浮かべた。
「俺に似て野球は好きなんですが、これまた俺に似て、野球が下手なんです。ただ今日は初めて背番号をもらえたみたいで」
そう言って、ベンチの端を指さした。
「えっ? 周くんか」
「かっちょいいっすね」
「なんでうちの息子を知ってるんですか」
村下が目を丸くする。
「でも、苗字が……」
「5年前に離婚したんですよ。榎木は妻の旧姓でして」
「そうだったのか……」
「なに、責任感じてる、みたいな顔してんすか。俺の人生に、そこまで引間さんの影響力ないですから」
久しぶりに聞いた村下の軽口に、眉間の皺がほどけていく。
「っていうか、引間さんは何してるんすか」
「いや……」
私が逡巡していると、板垣が、おほん、と咳払いをして名乗りを上げた。
「俺らは、全ホモ・サピエンスにエールを送る応援団。その名も──シャイニング!」
応援団に対する、少年たちの冷めた反応が頭をよぎる。
しかし村下は「かっちょいいっすね」と興奮気味に言った。
「周のチームを応援しに来てくれたんすか」
「おうよ。っていうか、おまえが熱いオヤジか」
「熱いかどうかはわからないっすけど、熱い人に憧れてはいます」
村下がはにかみ、こちらに視線を寄越す。
「うちのブルーのこと、よくわかってるじゃねえか」
なぜか板垣が握手を求め出す。
「ブルーって、いいっすね」と板垣の手を握り返す村下に、私は「ほめ言葉らしいからな」と皮肉を返す。
「そういや」板垣が村下を見上げる。「周、オヤジとの約束を守ってるぞ。笑われても、歩いてでも、走れ」
「あいつまだそんなこと言ってるんですか」
村下が照れたように頭をかいた。そして、何かに気づく。
「それ、もとは引間さんのことですからね」
「なんだって?」
「天空の市民公園プロジェクトで、駅前ビルのオーナーから契約破棄の通知が来たじゃないですか。その時に引間さん、『私の不手際かもしれないので、謝罪してきます』って、デスクから猛然と走り出したんですよ。ただ、めちゃくちゃ遅くて。顔は必死なのに歩いてるようにしか見えないから、役所内のみんなに笑われてました」
「しょうがないだろ。足が遅いんだから」
当時を思い出し、うなだれた。
「俺、こっそり跡をつけたんですけど、息切らしてるのにずっと走ってて。どれだけ遅くても、走るのやめないんすよ。その姿が、なんかかっこよかったんですよねー。引間さん、仕事でも絶えず奔走してましたから。だから俺の座右の銘は、笑われても、歩いてでも、走れ、です」
私は俯いたまま、「そうか」とだけ返す。
「そうだ、これ見てくださいよ」
村下は鞄から一枚のチラシを取り出した。
「来年の春に、駅前のロータリー広場を使ってお祭りをやるんです。目玉企画はなんと、屋上プラネタリウム。一日限りなんですけど、一応、駅前ビルの許可も取ったんで」
「目玉は応援団コンテストにしろよ」と板垣が口を挟む。
「需要がないだろうよ。せめてお笑いコンテストとかじゃないと」
「引間さん、それ、いいっすねー」
村下は笑いながら携帯にメモを取り始めた。
あらためてチラシを眺める。「村下が企画したのか?」
「そうです。引間さんの弔い合戦です」
「勝手に殺さないでくれ」
「今じゃ、『粘りの村下』って言われてますよ。あっ、裏がプラネタリウムの詳細です」
チラシを裏返し、息を止めた。
『夜空は、誰にでも平等に広がっている──』
12年前には使われることのなかった、あのキャッチコピーだった。
「ようやく、我が子に誇れる仕事ができそうです」
村下の言葉に導かれ、目の前に夜空が広がった。映し出された星たちが、プラネタリウムのようにゆっくりと一周し、始まりの位置に戻っていく。
私は天を仰いだ。
「巣立、年末調整、ぎりぎり間に合ったみたいだ」
もしかして、天国で神様の事務手続きを手伝ってくれたのか?
次の瞬間、勝手に足が動いていた。
「努力は無駄ではなかった」
「引間さん?」という村下の声を背中で受け流し、ミラクルホークスのベンチへ一目散に駆け出した。
周くんの前に立つ。
他の選手が驚きで固まっている中、彼はきょとんとした顔でこちらを見上げた。あの夏のスタンドのような七月の光が、燦々と頭上に降り注ぐ。
吸った息を、ゆっくりと確かめるように言葉へ変えた。
「私たちの人生は、努力しても、うまくいかないことばかりです。何かに挑戦するたび、自分に失望して、がんばったことを後悔するでしょう」
プロジェクトに奔走した日々が、走馬灯のように巡る。
望んだ結果には、繋がらなかった。
ただあの苦しかった日々が、村下の情熱に火を灯し、周くんに受け継がれ、その姿を見て、私はもう一度、走り出すことができた。
12年前の努力が、一周して今の私に繋がり、背中を押してくれた。
「でも、努力は無駄ではなかった」
周くんが、私をじっと見つめ返した。
「今までの君のがんばりが、いつか必ず、その背中を押してくれるはずです」
私は背筋を伸ばし、「努力は無駄だと言ったこと、謝罪させてください。すみませんでした」と深々と頭を下げた。
すると、周くんの「うっ」という声が頭頂部に降ってきた。同時に、後方から興奮した宮瀬の声が飛んでくる。
「シャイニングしてる!」
意味がわからず、顔を上げた。周くんは眩しそうな顔で立ち上がり、「引間さんの頭に太陽が当たって、キラキラ光ったというか……」と告げる。私が頭を下げたことで、毛のない頭皮に太陽光が反射し、彼の顔面に直撃したらしい。
「すげえぞ。シャイニングエール改め──謝罪ニングエールだ」
板垣が恍惚の表情で、ダジャレを口にする。宮瀬も「こんな風に相手を輝かせることができるなんて」と満面の笑みを寄越す。
そのやり取りを聞いていた周くんから、ふふっと声が漏れた。「おかげで、元気が出てきました」と吹っ切れたように笑う彼の目には、満天の輝きが戻っていた。
「この頭が役に立ったのなら……」
私は薄くなった頭をかいた。
その時、ベンチから一人の選手が立ち上がった。
「監督。次オレに打順が回ってきたら、代わりに周を出してもらえませんか」
健斗くんだった。
監督は「バカ言うな」と呆気に取られながら答える。
「誰よりもがんばってきた周が、一度も打席に立てないまま終わるのは、なんか嫌なんですよ。オレがきつい練習をがんばれたのは、諦めないこいつに負けたくなかったからなんで」
健斗くんの言葉に、あの日の練習が蘇る。バッティング練習も、ダッシュ50本も、周くんが健斗くんのようになりたくて、彼の側でやっているのだと思っていた。でも意識していたのは健斗くんの方だった。「一番のライバルはチームメイト」というインタビュー記事が頭をよぎる。
「周。オレは今から腹が痛くなる予定だから、おまえが代打な」
健斗くんがバットを差し出す。予告ホームランならぬ予告腹痛。周くんはしっかりと健斗くんを見つめ返し、こくりと頷きバットを受け取った。
「おまえら、ふざけるなよ」
怒鳴る監督に対し、「お願いします」と健斗くんが頭を下げた。困惑する監督は、「どうなっても知らないぞ」と被っていたキャップを放り捨てた。
「いったい何をやってるんですか」
騒ぎを聞きつけた運営スタッフが駆け寄ってきた。部外者は出て行ってください、と腕を掴まれ引きずられる。その手を必死に振り払い、周くんに向かい声をかけた。
「私も約束します。笑われても、歩いてでも、走る」
周くんは小さく頷き、キャップを深く被り直した。
さらに数人のスタッフが駆けつけ、私たちはグラウンドの外に押し出される。
人生初の退場処分。
だが、悪い気はしなかった。
「情熱の炎は熱いほど青くなる」
「わっ、やったあ!」
グラウンドのフェンス越しに希さんが声を上げた。
2アウトと追い込まれたミラクルホークスの選手が、右中間を破る大きな当たりを打った。同点のランナーがホームに還り、バッターは三塁へ。一打出れば逆転勝利。そして、周くんがバッターボックスに向かう。
彼はボックスの前で立ち止まり、一礼した後、ゆっくりと足を踏み入れた。ずっと立ちたかった場所。この一打席のために、どれだけの汗をグラウンドで流し、トンボで均してきたのだろうか。「今度こそ絶対に打ちますから」という試合前の言葉を思い出す。
初球、2球目。ため息が球場を包む。しかし周くんは落ち着いた表情で、再びバットを構える。相手投手がセットポジションから振りかぶり、右腕を大きくしならせた。指先から放たれたボールは、一直線にキャッチャーミットへ向かう。ボールのスピードに合わせるように、周くんの左足がタイミングよく地面を蹴り上げた。肘を小さく折りたたみ、腰を素早く回転させ、叩きつけるようにバットを振った。
そのバットが、見事にボールを捉える――ことなく、空を切った。
望んだ結果には繋がらなかった。
残念ながら願いは叶わなかった。
映画のような奇跡は起きなかった。
――バットにボールが当たらないのに、逆転なんて無理に決まってる。
こんな時に限って、私の予想は当たってしまうのか。
あきらめろ。
期待などするな。
身の程をわきまえろ。
その声に、あの日と同じ絨毯の灰色が広がる。
私は観念し、深いため息をつく──代わりに大きく息を吸い、「灰色退場!」と叫んだ。そして、真っ青な空に、名乗りを上げる。
「私はブルー。情熱の炎は熱いほど青くなる」
もう何があったとしても、必死に走ることを、やめはしない。
もう何があったとしても、がんばったことを、恥じたりしない。
私だけが約束を破るわけにはいかないから。
その時、目の前がチカチカと光った。
白内障のせいだろうか。瞬きをして、もう一度目を凝らす。
いや、違う。
キャッチャーミットからこぼれ落ちようとするボールが、ひときわ輝きを放って見えた。
導かれるように、息を吸う。
身体中の熱を喉に集め、一気に放出した。
「周、いっけえ!」
私の予想はやっぱり当たらない。
試合はまだ終わっていなかった。
走れ、走れ、走れ
ボールがキャッチャーの後ろを転がり始める。
周くんは、一塁へ走り出す。キャッチャーに対しピッチャーが「後ろ」と指示する。その間に三塁ランナーがホームベースを駆け抜けた。これで一塁がセーフなら逆転だ。
周くんは腕を振り乱し、足をもつれさせながらも、懸命に地面を蹴る。息は上がり、口は曲がり、白い顔を真っ赤にして進む。
キャッチャーが捕まえたボールを一塁に投げる。
けれど、私は信じていた。
笑われても走ってきた日々が、歩いてでも走ってきた日々が、報われないわけがないだろ。
走れ。
走れ。
走れ。
フェンスに顔をめり込ませ、彼の背中に向かい、叫びつづけた。
(遠未 真幸 : 小説家)