70歳同級生3人が、少年野球の応援団になる──(写真:DREAMNIKON/PIXTA)

定年退職後、所属なし、希望もなし。主人公は全員70歳。かつて応援団員だった3人が、友人の通夜で集まった。そこに、「応援団を再結成してくれ」と遺書が届くが、誰を応援してほしいのかがわからない……!?

熱くて尊い、泣ける老春小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』の第1話「シャイニングスター 引間広志の世間は狭い」の試し読み第7回(全8回)をお届けします。

「なぜ、周くんが一番なんだ」

周くんと別れた後、皆で巣立湯に向かった。

暖簾をくぐると、希さんが「収穫ありました?」と声をかけてきた。

「応援したくなるような熱い奴はいたぜ」

「誰ですか」

「ちっさくて下手くそな周。あいつがチームで一番熱い」

板垣は言い切った。

先ほどの練習で情が移ったのか。居残り自主練をしているだけで、一番と断言してしまうことに、違和感を抱いた。

テーブルにあった新聞を何気なくめくっていると、「4番バッターの子じゃない?」と宮瀬が覗き込んできた。スカウトも注目するスーパー小学生、という見出しとともに、バッターボックスに立つ健斗くんが載っていた。地域欄とはいえ、一面級の扱いだ。インタビューを読んでいくと、1つのコメントが目に留まる。

「一番のライバルはチームメイトです。必死にがんばる仲間を見て、自分を奮い立たせてます」

チーム内の競争のほうが過酷なのだろう。強豪らしい発言に、胸がちくりと痛む。彼の言う「ライバル」に、あの周くんという不器用な少年は含まれていないだろうから。それ以上読む気にはなれず、新聞を閉じ浴室に向かった。

身体を湯船に沈める。ぼんやりとした視界の中で、壁絵のユダがせり出して見えた。湯気が水滴となり、涙のようにユダの頬をつたう。

裏切るほうだって苦しいよな。

私は努力に裏切られた側なのに、ユダに感情移入してしまう。

隣では、板垣が涼しい顔で拷問風呂につかっていた。

「なぜ、周くんが一番なんだ」

私は先ほどの違和感をぶつけた。「居残り練習してるからか?」

「居残り練習なんて、自己満足だろ」

「じゃあ……」

「50本ダッシュの足跡だよ」

「足跡?」

「ラインの手前で折り返した足跡が、周だけなかった」

「本当に周くんだけなのか?」

「おうよ」板垣が頷く。「周の隣で走ってた健斗ですら、何本かズルしてたぜ」

「足跡なんて、よく気づいたね」

宮瀬がシャンプーの手を止めて、会話に加わる。

「俺様くらい徳が高くなると、すべてお見通しなんだっての」

「腰が曲がってるおかげで、目線が低かっただけだろうよ」

「まあ、ほかの奴らの気持ちもわかるぜ。ラインの手前で折り返しても、監督が見てるわけじゃねえし。1メートル手前ならまだしも、足の指分くらいだ。ただ──」

板垣は杖を手にして、目の前に一線を引いた。

「あのラインを超えたか、超えないかは、決定的に違う」

たった数センチ。ほかの選手たちも、手を抜いているなんて意識はないかもしれない。だからこそ、ラインを毎回確実に超えるのは、とても難しい気がした。

「人間は、無意識に力をセーブする生き物だ。限界まで追い込んだつもりでも、つい余力を残しちまう。だから、しんどいときにがんばれる奴は、本物だ」

板垣の言葉に、私は目を閉じた。のろのろと走っているように見えた周くんは、あれが彼の全速力だったのかもしれない。私が「ほどほどでやり過ごせ」と念じていたときもずっと、必死に走っていたのだとしたら。

これは想像でしかない。ただ、少しでも楽をしたかったら、わざわざ50本全部、白線を超えはしないだろう。ダッシュを終え、青白い顔で倒れ込んでいたことや、「死にそうでした」という言葉が、想像に真実味を与える。

「笑われても、歩いてでも、走ってる奴はよ、走ることをやめた奴より、よっぽど熱いわな」

板垣の独り言が、湿った浴室内にはっきりと響いた。

「まずは、必死に走ろうぜ」

かさぶたの隙間から血が滲み出すように、じわじわと身体が熱くなる。

湯船の水面に映る自分の影が揺れていた。

12年前のあの日から、ずっと自分を恥じていた。分際をわきまえず奔走し、失敗したあげく逃走した過去を消し去りたかった。でも、揺れつづける影が問いかける。

あの日、必死に走った自分が、本当に嫌いか?

静かに首を振る。

報われなかった努力を情けなく思うより、その努力を恥じて、走ることをやめた今の私のほうが、よっぽど情けない。

「明日から、朝練すっか」

板垣が拷問風呂から立ち上がり、言った。

「まずは、『死にそうでした』って言えるラインを超えるまで、必死に走ろうぜ。諦めるのはそれからだ」

「必死になることに関しては、若者より断然有利だしね」宮瀬が目尻に皺を寄せてウインクをする。「なにせ死が迫ってる」

「ふう。老いてて、ラッキーだったぜ」

板垣が沁み入るような声を上げた。

この日から、余白だらけだったカレンダーは、すべて「応援練習」の文字で埋まった。52年ぶりに声がつぶれ、ウィスパーにハスキーまで追加された。筋肉痛で箸を持つ手が震え、妻に本気で病気を疑われた。私が1回貧血で倒れ、宮瀬が2回熱中症で嘔吐し、板垣が3回脱水になり泡を吹いた。

必死な毎日は大変だった。けれど、1つ気づいたことがある。

楽ではない日々は、楽しい。

そして、あっという間に2か月半が過ぎた。

7月最終日曜、ミラクルホークスの試合の日を迎えた。

「気合い満タンじゃねえか、ブルー」

朝8時半。少年野球場に到着した私の顔色を見て、板垣が満足そうに頷いた。

「満タンなのは胃酸だ」

私は腹をさする。起きてからずっと吐き気が止まらない。

「今年一番の暑さだって言ってたから、水分補給は忘れずにね」

宮瀬がペットボトルの水を皆に配る。

「余裕だっての。俺がもっとホットにしてやるぜ」

板垣を先頭に場内へ入る。フェンスの脇にミラクルホークスの面々がいた。周くんはチームメイトから少し離れ、整備中のグラウンドを見つめていた。

宮瀬が「背番号」と声を上げ、周くんに駆け寄った。「補欠ですけど」と照れる彼の目は、満天の星のようにキラキラと輝いていた。

「よかったですね」

そんな言葉しか出てこない私に、周くんは「試合に出たら、今度こそ絶対に打ちますから」と力強く宣言した。そして「ユニフォーム着慣れてないから、緊張しちゃって」とおどけたように笑い、トイレに駆け出して行った。その様子を追いながら、彼のチームメイトの一団に目が留まる。数人が周くんを指さし、冷めた笑みを浮かべていた。

「おめえら、なに笑ってんだよ」

声をかけようか迷っている間に、杖をついた板垣が頭突きよろしく詰め寄る。

「いや、なんでもないです」と1人が答える。

「なかったことにはさせねえぞ」板垣の鋭い目つきに、「あいつ、出られないのに自慢してたから」とぼそぼそと言った。

「補欠だって、試合に出る可能性はあるんじゃないですか」私は尋ねた。

「お情けナンバーだから」少年はゴシップ記事を伝えるアナウンサーのような口調で言った。「親が観に来るからベンチに入れただけで。いわゆる、テイサイってやつです」

彼は「体裁」という言葉を、不自然に強調する。監督か誰かが言っているのを聞いたのかもしれない。

「応援させてもらうことになってるんですけど」

「っていうか、おじいさんたち、誰ですか」

「俺らは、全ホモ・サピエンスにエールを送る応援団。その名も──シャイニング!」

「応援団」

少年たちは、冷めた口調で繰り返した。

「あれだろ、『ガンバレって言うおまえがガンバレよ』ってやつ」

別の1人が、バカにしたように言った。

「その芸人のネタ大っ嫌い」

珍しく宮瀬の目が笑っていない。

「まあ任せとけ。俺のエールでヒットを打たせてやんよ」

「応援なんかより、これ飲んだほうが打てると思いますけど」

ゴシップ少年が、持っていたペットボトルに口をつけた。

「なんだよそれ」

板垣がぬうっと顎をしゃくる。

「アスリートのために開発されたエナジードリンクですよ。効果があるって、エビデンスも出てるんですから」

そんなことも知らないのか、と彼は呆れた表情を浮かべる。

「おい、行くぞ」

監督の声がする。彼らは、「せいぜい陸上部の応援でもしててくださいよ」と言い残し、グラウンドに入っていった。

少年たちの指す「陸上部」が、練習中にバットを与えてもらえず、ひたすら走っていた周くんのことだと気づき、さらに気持ちが沈む。

「わたしたちも移動しましょうか」

希さんに促され、一塁側に設けられた観覧席に向かう。

階段状になった座席は、思っていたよりも多くの人で埋まっていた。選手の家族なのだろう。ミラクルホークスのチームカラーである、青色のメガホンを首から提げている。

希さんが親たちの輪に声をかけた。

「あのー、今日応援させてもらうことになってるんですけど」

「ああ、巣立湯さんの」

輪の中心にいた男性が答える。

「どこで応援したらいいですか?」

希さんが尋ねると、彼は「あそこでお願いします」と最前列の角を指した。プレーする選手に最も近い特等席だ。

「VIP待遇じゃねえか」

板垣が興奮気味に眉を上下させる。

「これ、よかったら。皆さんのために用意したんで」

彼は感じのいい笑みを浮かべ、手にしていたものを差し出した。

拡声器だった。

冷たい汗が脇の下をつたっていく。拡声器でもないと声が届かない、そう思われたのだろう。

「いや、大丈夫だ」

板垣が血の気の引いた顔で答える。男性は好意が突き返されるとは思わなかったようで、途端に不機嫌な表情になった。「ではご自由に」と言ったきり、もうこちらを向こうともしない。

指示された最前列に移動し、荷物を置く。

「親切マフィアめ」板垣が仏頂面で観覧席を見上げた。「優しい面して銃を突きつけてきやがる。親切をありがたく受け取れとな」

彼らにしたら、純粋な気遣いなのだろう。でもだからこそ、私たちはその善意を受け入れられずにいる。

「俺をみくびったことを後悔させてやる」

板垣が真っ赤な顔で杖を握る。

「僕らが声を出せば、一瞬でみんなを巻き込めるさ」

宮瀬が白い歯を見せる。

「そのために毎日がんばってきたんだもんな」

私は青ざめた指先でポロシャツの襟を立てる。真夏のグラウンドのもわっとした空気が、肌をかすめた。

肩を組み、円陣を作る。

「ラブ」

板垣の掛け声を合図に、全員で巣立の迷言の後を継ぐ。

「ニヤニヤ」

お手並み拝見とばかりに、太陽がギラついた光を放っていた。

「応援団失格だね」

初回。相手チームを三者凡退に仕留め、いよいよミラクルホークスの攻撃が始まる。先頭に立った板垣が、ここぞとばかりに声を上げた。

「勝利の三三七拍子!」

杖に全体重を預け、浮かせた右脚を地面に振り下ろす。弾ける足音を口火に、私は両手を広げた。

「勝つぞ、勝つぞ、ミ、ラ、ク、ル、ホー、ク、ス」

一心不乱に拍手を打つ。たちまち大量の汗が噴き出した。ポロシャツはべったりと濡れ、まとわりつく暑さを振り払おうと、また両手を叩きつける。

「打つぞ、打つぞ、ミ、ラ、ク、ル、ホー、ク、ス」

選手がバットを構えるたび、高校時代に戻ったかのように、声を張った。

しかし容赦ない日差しが、体力を蒸発させていく。サウナの中にいるみたいで、うまく呼吸ができない。

依然としてミラクルホークスの攻撃が続く。けれど腕は鉛と化し、脚の痙攣も止まらない。朦朧とする中、顔を上げ、スコアボードに意識を向けた。

──まだ1アウト。

思わずため息が漏れる。

横を見やると、宮瀬の顔は皺くちゃに崩れ落ち、板垣の背中もしぼんでいる。まるで玉手箱を開けてしまったかのように、皆が一気に老け込んで見えた。

次のバッターが初球を打ち上げる。「勝つぞ」と叫びながらも、打球が敵のグラブに収まるのを願う自分がいた。

「味方が打ち取られて『助かったー』と思っちゃうなんて、応援団失格だね」

悔しがるバッターから顔を逸らし、宮瀬がへたり込んだ。

空のペットボトルを見つめ、私は頷く。

「追加の水、買ってきますね」と希さんが駆け出す。

礼を言う声すら届かなかった。

2回表。守るミラクルホークスの選手たちの顔が一様にこわばる。四球2つにエラー1つで、2アウト満塁のピンチ。こんなはずじゃなかったという空気が、陽炎のようにグラウンドから立ち上っている。

「ドンマイッ! ドンマイッ!」

身を乗り出して声をかけるが、彼らの耳には届いていないのか、表情は硬いままだ。
「団長、こうなったら『ガンバレコール』で空気を変えよう」

宮瀬が板垣の十八番を口にする。現役時代、苦しい流れのときによくやっていた応援だ。

「いや、いつもの応援歌でいこう。いくぞっ」

「えっ、ちょっと待って」

宮瀬と私は顔を見合わせる。しかし板垣は、投球姿勢に入るピッチャーに視線を注いだまま、慌てたように応援歌の音頭を取った。が、唐突すぎる始まりに3人の息が合わない。焦るほどに呼吸は乱れ、板垣は1人で突っ走り、声がばらばらと崩れた。

変なリズムの応援歌が、グラウンドに流れる。

「次はちゃんとやるから」

そんなちぐはぐな空気が選手にも伝染したのか、一塁手がゴロを捕球するも、ピッチャーのベースカバーが遅れる。焦ったキャッチャーが、すでにランナーが滑り込んでいる二塁への送球を指示してしまう。ありえない連携ミスで、ノーヒットなのに先制点を奪われた。

やり慣れた応援歌だったのに。

あれだけ練習してきたのに。

選手の力になれると信じていたのに。

空気を変えるどころか、逆に呑まれて彼らの足を引っ張るなんて……。


「次はちゃんとやるから。俺に任せとけ」

杖を持つ板垣の手が震えていた。

私も「ああ」と慰めにもならない返事をするので、精一杯だった。

4回裏。張り上げた声援への手応えもなく、球場の誰もが、シャイニングのことなど気にも留めなくなっていた。

「拡声器、借りておけばよかったかな」

宮瀬が笑みを作ろうとするが、硬直した頬がそれを拒む。

「こちとら透明人間じゃねえぞ」

板垣が観覧席を振り返り怒声を発するも、やはり反応はない。

バッターボックスに健斗くんが立つと、一気に観覧席が沸いた。しかし期待はすぐに失望へと変わる。キャッチャーがミットを大きく外側に構えている。敬遠策だ。

(7月21日配信の次回に続く)

(遠未 真幸 : 小説家)