「協調性のない高齢者」のほうが"若い"という根拠
「最近老けたな…」と感じるあなた、「年齢呪縛」かかっていませんか?(写真:8x10/PIXTA)
誰もが避けては通れない「老い」。しかし、いつまで経っても若い人と老け込んでしまう人と分かれます。これはなぜなのでしょうか。
老いのいちばんの原因は、「年齢呪縛」にかかることだと話すのは、“高齢者専門の精神科医”和田秀樹氏です。「もういい歳なんだから、あたらしいことはできない」「食べ物も質素にして着るものだって地味な色を選ばないと……」といった「年齢呪縛」によって何事にも慎重になり、自分にブレーキをかけるようになる。すると心の自由も行動の自由もどんどん奪われます。その結果、老いが固定され、年齢通りの高齢者になってしまうといいます。
『心が老いない生き方』(ワニブックスPLUS新書)より一部抜粋・再構成のうえ、「心の老い」からの抜け出し方をお届けします。
心が老いるとワクワク感が小さくなってくる
私たちが「齢を取ったな」と感じるのは、体力が衰えたり運動機能が低下したときだけではありません。これはたいていの人が気づいていると思いますが、身体的な老いの前にまず、気持ちの老いが自覚されるのです。
たとえば居酒屋好きの男性が友人から「駅の向こう側にいい店見つけたんだ。こんど飲みに行こうよ」と声を掛けられたようなときです。
あんなに居酒屋が好きだったのにふと「億劫だな」という気分になります。とくに忙しいわけでも疲れているわけでもないのに、何となく気が進まないのです。その友人が「いつ行ける?」と誘ってくると「そのうちな」と曖昧な返事になってしまいます。
面白そうな映画をやっているとか、好きな作家の新刊が出たとか、以前なら休日になるとすぐに目的地へ出かけたようなことでも、「急がなくていいか」とか「そんなに評判良くないな」とブレーキをかけてしまいます。
以前だったら「すぐ行こう!」でした。満足するかガッカリするか、そんなことは観てから、読んでからのことです。「面白そうだな」と思ったときには「行ってみよう!」という気になったのです。
それがだんだん自分でブレーキをかけるようになってきます。身体が動かないわけではないのですから、これは心のブレーキです。
「どうせ大したことないだろう」とか「いまじゃなくてもいつでも行けるんだから」とかいろいろ理由をつけますが、簡単に言えば心がそれほど動かなくなったのです。かつてのようなワクワク感が膨らんできません。
かつてはどうだったでしょうか。「面白そうだ」とか「いいな」「行ってみたい」と思えばもう動き出していました。ワクワクしてくると抑えきれません。それだけ心が若くて奔放だったのです。
逆にあれこれ言い訳をして行動をためらってしまうのは、それだけワクワク感が小さくなっているからだとも言えます。心が老いるとワクワクしなくなるのです。
ワクワクしなくなるのは「前頭葉の老化」が原因
脳も身体の一部分ですから加齢によって老化します。脳の中でもとくに前頭葉と呼ばれる部位は老化が始まるのが早くて、人によっては40代のころから機能が衰えてきます。
前頭葉が老化すると感激や感動といった心のときめきが薄れてきます。いわゆる感情の老化と呼ばれるものですが、外の世界への関心が薄れてくるのです。
すると好奇心とか憧れのようなワクワク感もなくなってきます。旅行でもグルメでも、ワクワク感がなくなってくると、自分を突き動かすものも弱くなります。「時間がない」とか「少し疲れも溜まっているし」といった言い訳も入り込みやすくなります。
すると「どうせ混んでるだろう」とか「味はだいたい想像できる」といった、動かない自分を正当化する理屈も出てきます。
でも、いろいろ言ってみたところで、ワクワク感が弱くなっていることがいちばんの原因でしょう。前頭葉が若々しいころでしたら、「わあ、行きたい」「いますぐ食べたい!」といったワクワク感が爆発しますから、先延ばしの言い訳なんか入り込む余地がないのです。
ワクワク感の衰えも心の老いを感じさせます。
「初めて経験することにワクワクしなくなった」
「料理でも旅行でも、慣れているメニューや訪ねたことのある場所のほうが安心する」
期待して裏切られるよりある程度結果の予測できるもののほうが安心というのもありますが、予測不能の世界にワクワクする前頭葉が衰えると、どうしても慣れている世界を選ぶようになってしまいます。
サラリーマンのランチなんかがわかりやすいでしょう。若いころは「今日はなに食べようかな」と考え、あっちの店、こっちの店、評判になっている店や行列のできている店にせっせと出かけていました。
ところがある年齢になってくると、ランチのメニューが決まってきます。「〇〇軒のラーメン」とか「○○屋の天ぷらそば」といった定番メニューが決まってしまい、それ以外の店には出かけなくなってきます。
自分でもつくづく「よく飽きないな」と感心しますが、慣れ親しんだ味がいちばん無難だと思い込んでいます。心の老いはランチのメニューにも表われるのです。
「丸くなったな」と気がつく心の老いがある
もう1つ、心の老いを教えてくれるものに協調性があります。
協調性には少しも悪いイメージはありません。組織で仕事をしていればチームワークは何より大事ですから、協調性こそ求められます。
自分の考えや意見にこだわってチームに逆らうとか、命令や指示に従わないような人間は組織には不要ですから、どんなに能力があっても「あいつはわがまま」とか「自分勝手で協調性がない」と見なされてしまいます。
ここでも面白いのは、協調性が成長とか成熟としばしば同一視されることでしょう。
「入社したころは逆らってばかりいたけど、最近はだいぶ協調性が出てきたな」
「彼も近ごろは協調性が出てきた。成長したんだな」
組織に馴染んできた部下を上司はしばしばこんな言い方で褒めます。採用面接の場でも、協調性の有無は大事なポイントになるでしょう。協調性が身についてきたかどうかが成長の目安にされてしまいます。どんなに在社年数が長くても、協調性のない人間は出世できなかったり大きなプロジェクトに入れなかったりします。
ところが老いてくると、この協調性が自然に備わってきます。備わってくるというより、自分に言い含めるようになってきます。
「いい齢をしてわがまま言うと嫌われるな」とか「齢なんだからもう少し穏やかにならないと」と自分に言い聞かせ、家族や周囲の意見に合わせるようになってくるからです。
周囲に合わせる、同調圧力に負けてしまう
それができるようになると、ふと自分でも気がつきます。
「わたしも丸くなったな。それだけ齢を取ったのかな」
そう考えることで何となく納得してしまいます。
でも、自分がやりたかったことや主張したかったことはどこに消えたのでしょうか。抑え込んで我慢したのだとすれば、心は不自由を受け入れたことになります。そのことで老いを実感できたとすれば、それも心の老いということになるはずです。
心の老いは年齢に関係なく始まります。通常なら脳が老化するはずもない10代20代であっても、心の自由を封じ込めようとすることがあるからです。
自分の意見や考えていることをのみ込む、やってみたいことを我慢する、周囲に合わせて行動する、こういったこともすべて心の自由を封じ込めることになります。
考えてみれば学校教育そのものが心の自由を制限してきました。友だちが多くてみんなと仲良くできる子が「いい子」です。親や先生の言うことに従うのが「いい子」です。和を乱さないとか、社会の道徳やモラルを守るのが「いい子」です。
この流れは大学に入っても続きます。
高等教育は本来、それまでに学んだ知識をもとに自分で考えたり、推理したり、あるいはそれを試してみる学生を育てることだったはずですが、大学生になっても上から教え込まれた理論や学説をそのまま覚えることが勉強になってしまいます。いくら自分で自由な発想をしても、教わった理論や学説から外れていれば評価されません。心の自由を抑え込まれたままで社会に出るのです。
社会に出れば今度は協調性ですから、ここでも上司や同僚に合わせることが生き延びる道になります。世の中の風潮とか常識に従うしかなくなります。同調圧力にも簡単に負けてしまうのです。
周囲に合わせているかぎり安全です。誰からも非難されないし、目立つこともありません。無意識のうちに安全、安心を選んでしまうというのも心の老いの表われでしょう。なぜならワクワクしたりドキドキしたりすることがないからです。
「これを言い出せばみんなに非難されるだろうな」
「でも共感してくれる人だっているかもしれない」
どっちになるかわからないけど、とにかく自分が思ったことを話したり、やりたいことを実行するときにはドキドキするはずです。心が老いてくると、そういうドキドキすることやワクワクすることを避けるようになってきます。
「年齢呪縛」に捕まりやすい人の生き方
高齢になってくるとほとんどの人が慣れた世界を選ぶようになります。たとえばメニューを眺めて初めての料理と食べ慣れた料理があれば、どうしても食べ慣れたほうを選びます。
これは味つけや素材がわかっていたほうが安心だからです。脂っぽくて食べられないとか固くて食べられないとか、そういうことだけはなくなります。
旅行や読書でも同じです。聞いたこともない場所より、何度も出かけた観光地、全国的に有名な町や温泉を選びます。読書もよく知っている作家や好きなテーマの本を選びます。すべて、大きく期待を裏切られることがないとわかっているから安心なのです。
ところが同じ高齢者でも若々しいタイプは違います。
結果がわかっている世界より、予測できない世界のほうを選びたがります。たとえばみんなで食事をするときでも、メニューに聞いたことのない料理名を見つけると「これなんだろ? 食べてみるかな」と面白がります。周りが「やめとけ、食べ残したらもったいない」と声をかけても「そのときは手伝ってくれ」と愉快がります。
結果はもちろんいろいろです。思いがけない美味しさに大喜びするときもあれば、やっぱり口に合わなくて「失敗したなあ」と後悔するときもあります。
でもこういうタイプはめげないのです。
同じような場面になればまた未知のメニューに挑戦します。旅行や読書、あるいはファッションでも同じです。知り尽くした安心感より、未知の経験や世界のほうに惹かれてしまいます。ワクワク、ドキドキすることが快感だからです。
年齢が若くても「心の老い」が始まっている人
こういうことは、必ずしも高齢者に限った話ではありません。年齢に関係なく、結果がわかっている安心を選ぶ人と、予測できない世界のワクワク感を選ぶ人がいるからです。わたしはここにも心の老いや若さが表われていると思います。
どんなに年齢が若くても、結果が予測できる安心・安全を選ぶ人は、すでに心の老いが始まっている可能性があります。そういう人が結局、ある年齢になると「わたしももう70歳過ぎたのだから」と意識し、年相応の分別や落ち着きを言い聞かせ、好奇心を抑え込んで自分の願望を封じ込めてしまいます。年齢呪縛に捕まりやすいのです。
なぜなら年齢というのはいちばん確かな現実になります。
やってみたいことや、試してみたいことがあっても、「もし失敗したら」と考えるとついためらいます。結果を予測できない世界に踏み出すことは勇気が要ります。たとえ心がそれを求めているとしても、「いくつになったと思うんだ」と実年齢を言い聞かせることで諦めがつきます。確かな現実を持ち出せば、心の不自由を受け入れることも納得できるのです。
(和田 秀樹 : 精神科医)