織田信長の銅像(写真: けいわい /PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は「傍若無人」とも語られる、織田信長の性格をさまざまな史料から分析する。

織田信長の性格は、信頼できる歴史家が著した書物においても、いまだに以下のようなステレオタイプで語られがちだ。

「人の言い分や要求などに耳を借すこともない信長」

「信長はその性格ゆえに傍若無人であり、他者との誓約を平気で破って相手を滅ぼし、またそれゆえに他者から背かれ、離反され、攻撃されることが日常茶飯であった。もとより背反の態度を示した者は容赦なく家族・家臣もろともに殺戮しており、一向一揆に対する殺戮も常軌を逸していた」(笠谷和比古『徳川家康』2016年)。

このように、信長と言えば、小説やドラマの影響もあり、傲慢で激怒しやすく、暴力的で、家康や秀吉と比べても怖いイメージが一般的にはあるだろう。しかし、信長はそのようなイメージばかりで塗りつぶされるような人物ではない。

山中で乞食に出会った信長

信長に仕えた太田牛一が記した信長の一代記『信長公記』に次のような逸話がある。

美濃国(岐阜県)と近江国(滋賀県)の国境に山中という土地があったが、そこの道の傍らに身体障害者が雨露に打たれて乞食をしていた。信長はその者の姿を京都に上る途上に何度も見て「可哀想に」と思ったという。

このことだけでも、信長の心に情があったことがわかるが、信長はさらに一歩進んだ行動をとる。

ある時、土地(山中)の者に「大体、乞食は住処が定まらず、放浪するものなのに、あの者だけはいつも変わらずに、山中にいる。なぜか?」と尋ねたのだ。

それに対して土地の者は「この山中にて、昔々、常盤御前(平安時代末期の武将・源義経の母)を殺した者がおったそうです。その因果により、その者の子孫には代々、身体障害者が出て、あのように乞食をしているのです。『山中の猿』というのは、あの者のことでございます」と答えた。

天正3年6月26日、信長は京都に上る途中で、急に「山中の猿」のことを思い出す。そして、木綿20反を自ら取り出すと、山中宿を訪れ、「この町の者は、男女問わず、皆、集まるように。言いたいことがある」と言い出した。

町の者は、「権力者の信長が何を言い出すのか」と緊張した面持ちで集まってくる。信長は木綿20反を、乞食をしていた「山中の猿」に与えることを宣言すると、皆に対し「この反物半分でもって、誰かの家の隣に小屋を作ってやり、餓死しないように、山中の猿に情をかけてほしい」と伝える。

さらには「山中の猿のために、麦や米を少しずつでも与えてやったならば嬉しい」とも信長は呼びかけた。

哀れな境遇の人に同情して、私財を投じ、助けてやってくれないかと促したのだ。あまりのことに、「山中の猿」はもちろんだが、町の者や信長のお供の者まで涙を流したという。世間では「魔王」と言われることもある信長だが、この逸話からは「仏」の顔を覗くことができる。

また信長は「怖くて近寄りがたい」イメージが流布しているが、若い頃は、踊りの興行をし、自ら「天人の衣装」をまとい、小鼓を打ち女踊をしたこともある。

津島の年寄たちを御前に召して、親しく気安く声をかけ、暑い最中でもあったので、年寄たちを団扇であおいでやってもいる。「お茶を飲まれよ」とも勧めたという。年寄たちは、暑さの疲れを忘れ、感涙を流して帰っていったそうだ。

一度逆らった者は必ず成敗する!?

信長は一度自らに逆らった者は、許さずに成敗すると思われているが、決してそうではない。

弟・信行が謀叛したときも、謝罪すれば、許している。信行に与した柴田勝家、林佐渡守をも許しているのだ。信行は、再度、謀叛を企み、信長に誘い出されて殺されているが、それは仕方ないことだろう。

信長を裏切った者の中には、室町幕府の第15代将軍の足利義昭もいるが、義昭が兵を挙げたときなども、信長は最初から踏み潰そうとせずに、交渉で和睦をもちかけている。一度は和平が成立したものの、義昭がまたもや挙兵したため、信長も対処せざるをえなかった。

そのほか、 松永久秀が謀叛したときも、怒り狂って討伐せよと叫ぶのではなく「どのような事情があるのか。存分に思うところを申せば、望みを叶えてやろう」と信長は交渉を提案している。

信長は妹のお市の夫・浅井長政が寝返ったときでさえ、容易に信じようとしなかった。「妹を嫁がせているし、江北の支配も任せてあるのに、何が不満なのか」と驚くばかりだったようだ。謀叛の情報がしきりに入ってきて、やっと信用したという有様だった。

さらには摂津の荒木村重が「謀叛心を抱いている」との報があちこちから入っても、信長は事実ではないと思い、明智光秀等を荒木のもとに遣わしているのだ。「何か不満でもあるのだろう。思うところがあるなら、聞いてやろう」と信長は言っていたようなので、物分かりのよい優しい上司のようにも思える。

ここまでの信長の逸話を読んでいると、「魔王」と言われる信長の面影はない。 信長は、家臣が謀叛しても許していることも多々あるのだ。しかも、その謀叛人の言い分まで聞いてやろうという寛大さもあった。ある意味、自分を裏切り、殺そうという人に対し、ここまで寛大になれる人は、現代人でもそうそういないのではないか。

荒木村重は信長に謀叛したため、荒木一族の妻子は処刑されることになるが、それも殺人鬼のように冷酷な心で命じたわけではなく、「不憫な想い」を抱きつつ命令したのだ。

信長は自分を殺そうとしたり、裏切った者には、容赦ない仕打ちをすることもあるが、さすがに、謀叛人の妻子を多数磔(はりつけ)にして殺害することには抵抗があったと言えよう。

悪をとことん憎む信長

『信長公記』からは、悪を憎み、正義の実現に努めている、という信長の一面を知ることもできる。

例えば次のような話が記載されている。

京都下京に、木戸番の女房がいた。しかし、この女は単なる木戸番の女房ではなかった。多くの女性を誘拐し、堺の町に売り飛ばす人売りだったのだ。女人売りは、信長に仕えていた村井春長軒により捕縛され成敗されたが、このような人売りは許さないというのも、信長の胸中にあったはずだ(この女は、80人もの女性を売り飛ばしていた)。

また、すでに決着した訴訟を、文書を偽造して蒸し返し、信長に直訴した山崎の町人がいたが、彼も「けしからん」と信長の逆鱗に触れ、成敗されている。

信長は不正を憎む精神を持ち、家臣が謀叛をしても翻意するならばそれを許す寛大さを持っていたと言えよう。残虐・傍若無人で塗りつぶされるだけの人物では決してなかったのだ。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)