1820年、突然経済が急激な成長を始めた納得理由
知識と情報の普及がイノベーションを可能にしたと著者は指摘します(写真: metamorworks / PIXTA)
経済成長論の権威であり、フランスをはじめ、世界最高峰の大学で教鞭をとるアギヨン教授が行った連続講義をまとめた書『創造的破壊の力:資本主義を改革する22世紀の国富論』の邦訳がついに出版された。
20世紀の偉大な経済学者シュンペーターが提唱した「創造的破壊」をベースに資本主義の未来を語る本書から、経済が1820年から急激な成長を遂げ始めた3つの理由について、抜粋、編集してお届けする。
経済の急成長はなぜ1820年に始まったのか
経済成長の歴史における真の断絶は、1820年にある。つまり、たかだか200年前だ。
今日では1人当たりGDPは増えて当たり前のように考えられているが、人類の歴史を俯瞰すれば、それはごくごく最近になって始まったのである。
18世紀末から途切れなく続いた右肩上がりの成長が、経済成長の歴史において最初の注目すべき現象であることはまちがいない。
今日からみると、18世紀の生活水準はもはや想像もできない。とりわけ住居、栄養状態、公衆衛生に関してそう言える。
19世紀までは珍しくもなかった平時における餓死や凍死は、先進国ではほぼ姿を消した。
人口動態も劇的に変化する。17世紀には、新生児の25〜30%が1歳になる前に、50%が20歳になる前に死んでいた。
今日では、欧州連合(EU)加盟国における乳幼児死亡率は0.4%未満である。
1820年まで世界の成長と人口がともに停滞していたのはなぜだろうか。ヨーロッパは中世の頃から重要な発明発見の舞台だったのに、成長のテイクオフはなぜ1820年に始まったのか。
第1次産業革命がヨーロッパで起き、車輪や羅針盤を発明した中国で起きなかったのはなぜか。テイクオフの原動力となったのは何か、技術の進歩か、それとも制度の進歩か。
科学的な思考の出現
産業革命のだいぶ前から、人類の歴史には技術革新がちりばめられていた。
だが工業化時代と違ってこれらのイノベーションは単発で孤立しており、持続的なイノベーションと成長にはつながっていない。
■命題的知識と規範的知識
この点に注目した経済史家のジョエル・モキイアは、成長のテイクオフの実現には科学的な知識と実用的な知識との相互作用が必要だと2002年に指摘した。
彼は命題的知識(理論知識)と規範的知識(実践知識)を区別する。前者は自然現象を解明する科学の知識を、後者は生産に活用される技術の知識を意味する。
命題的知識の進歩は発見であり、規範的知識の進歩はイノベーションである。
工業化以前の時期の成長は、基本的に規範的知識の進歩に依存していた。つまり技術の利用者が、その土台となった科学的知識を知らなくても役に立つ技術の蓄積に頼っていた。
対照的に19世紀に入ると、技術を活用する基礎として、原理を理解しようとする動きがさかんになり、科学的なアプローチが目立つようになる。
「どうすれば動くか」ではなく、「なぜ動くのか」を問うようになったわけだ。
こうして科学的な思考が出現したことでそれまでの流れとは断絶が生じ、命題的知識の理解と新たな分野への応用が始まる。
■科学と技術の歩調を揃えた進化
経済学者のデービッド・エンカウアが指摘したとおり、「この時期には知識の状態が実用技術中心から基幹技術中心に移行した。つまり、科学と技術が結合したのである」。
たとえば化学の分野では、いろいろな物質を混ぜ合わせたらどうなるかということは何世紀も前からわかっていた。
だが化学組成の概念が定式化されて初めて、新たな化合物を作り出すことが可能になる。
同様に、顕微鏡はずっと前に発明されていたが、科学的な知識の習得によって微生物学の発展が可能になった。
このような科学と技術の相互作用にとりわけ役立ったのが数学である。
たとえば数学によってニュートンの法則の定式化が可能になり、発射体の運動を説明できるようになって弾道学の進歩を後押しし、新たな科学的発見につながっている。
産業革命を特徴付けるのは、まさにこの科学と技術の歩調を揃えた進化なのである。
となれば、なぜこのような進化が可能になったのかを問わねばなるまい。
モキイアは3つの要因を挙げている。この3つはそれぞれシュンペーターの3つのアイデアに対応する。
第1は知識と情報の普及で、これがイノベーションを可能にする。
第2は国同士の競争で、これは創造的破壊を可能にする。
第3は、発明家の知的財産権を保護する制度の確立である。
知識と情報はどのように普及したか
知識と情報の普及は18世紀に非常に重要な役割を果たすが、それが可能になったのは、安価な郵便サービスの出現と印刷コストの低下のおかげである。
新聞の数は劇的に増え、百科事典も多数刊行された。
英語で編纂された最初の近代的な百科事典は1704年にロンドンで出版されたジョン・ハリスの『技術事典』だと言われる。
この事典はイーフレイム・チェンバーズの『百科事典』(1728年)の土台となった。
ディドロとダランベールの出版計画も、当初は『百科事典』をフランス語に翻訳するというものだったが、その後にもっと野心的な計画に切り替えている。
彼らの『百科全書』、正式には『百科全書、または学問、芸術、工芸の合理的辞典』の第1巻は1751年に出版された。
『百科全書』の目的は、専門家の知恵を結集し生きた知識を記述することによって、時代の叡智をとりまとめることにある。こうした著作の普及も、人々の科学技術知識の習得に役立った。
知識が普及すると、科学分野での交流が始まってアイデアの交換がしやすくなり、さらに知識の進化が加速する。この点は、組合やギルドが知識を秘密にしようとした15世紀と対照的だ。
■自由な情報交換がもたらしたもの
18〜19世紀になると、真の情報共有文化が定着する。おかげで発明家はゼロから始める必要がなく、豊富な知識を活用し「巨人の肩に乗って」新しい発明を構想することができた。
発明の意欲に燃える人たちや国家の間の自由な情報交換は、イノベーションの蓄積プロセスひいてはテイクオフの推進力となる。
国境を越えて人文主義者、大学人、文学者などが集い、共通言語であるラテン語で意思疎通するいわゆる「文芸共和国(Republic of Letters)」も発展した。
モキイアはこの知的共同体が果たした重要な役割を強調する。ルネサンスの頃からこの文芸共和国はヨーロッパに超国家的な場を形成し、自国の枠を越えた規模を提供するようになる。
最高の人材を国同士で取り合う
制度の面で第2に重要なのは、国同士の競争である。
それぞれの国では権力者や利益団体からの抵抗や反対があったものの、国同士が競争をしていたためにイノベーションと創造的破壊が可能になった。
政治的に寸断されていたヨーロッパの国々は、最高の人材を呼び込もうと激しいつばぜりあいを演じる。
国内にイノベーションに反対する勢力があっても、他国に出し抜かれる恐怖が他の思惑にまさったわけである。
■なぜ中国は停滞したのか
対照的に中国は他国との競争がなかった。このため、時の権力者が強い発言力を持つことになる。
かくして1661年に清朝第4代皇帝の康熙帝は、南岸沿いに暮らす住民全員に海岸線から15キロメートル以上離れた内陸部に移住するよう命じ、20年以上にわたりいっさいの航海を禁じた。
この禁止令は18世紀にも再び定期的に出され、外国との貿易を遅らせることになる。中国の歴代皇帝は創造的破壊が政治の安定を脅かすことを恐れたのだった。
中国では、皇帝が認めたイノベーション以外は許されなかった。しかもヨーロッパとは違い、皇帝に認められないからといってその発明家が外国に移住することはまず不可能である。
こうした絶対的な規制の結果、他国が工業化を果たす一方で中国経済は19世紀を通して20世紀初めまで停滞することになった。
■テイクオフでフランスがイギリスに出遅れた理由
イノベーションの知的財産権を保護する制度の確立は、成長のテイクオフの重要な要因である。おそらくこのことが、イギリスでまずテイクオフが始まり、フランスが出遅れた一因だろう。
イギリスが先行した理由は技術ではない。というのも18世紀には、両国の科学技術の水準は拮抗していたからである。
フランスが百科全書の国であることを忘れてはいけない。一方、財産権の保護に関してはイギリスが先行していた。
イギリスは1688年の名誉革命によって立憲君主制に移行し、議会が国王より大きな権限を持つようになる。このとき初めて財産権が政治的干渉を受けなくなり、イノベーションの機運が高まったのだった。名誉革命はフランス革命より1世紀早い。
そのうえフランス革命は、企業家やイノベーションに有利な新制度(ナポレオン法典の制定から第三共和政におけるジュール・フェリーの教育改革に至るまで)の発足になかなかつながらなかった。
こうしたわけで、発明家の権利を認めることに関してはイギリスが後に続く国の手本となり、ヨーロッパ各国に刺激を与えることになった。
すでに1624年には専売条例(Statute of Monopolies)が制定され、領主が正真正銘の最初の発明家以外の人物に商業的独占権を与えることを禁じている。
最初の発明家だけが14年間にわたる発明と新規事業の独占を認められた。特許制度の整備に向けた第一歩である。
発明特許に関する世界初の法律
アメリカ建国の父たちやフランスの革命家はこれに触発され、ほんとうの意味での発明特許に関する世界初の法律は1790年にアメリカで制定された。翌91年にはフランスでも制定されている。
それ以前はギルドが厳しく同業者を管理しており、習得した技術知識の秘密が漏れないようにした。
ギルドは勢力範囲内での職業の独占を目論んでおり、近隣都市からの参入を阻もうとした。
ブリュージュとガン、ジェノバとヴェネツィアの間で激しい縄張り争いが繰り広げられたのはその何よりの証拠である。
職業技術の習得が許されるのは、ギルドから資格を認められた徒弟だけだ。秘密厳守を裏切ったら恐ろしいことになる。
特許制度の出現は、イノベーションと技術の進歩に二重の効果をもたらした。
まず、一時的にもせよ自分の発明を独占的に活用し利潤を独り占めする権利を発明家に与えることで、発明の意欲を高めた。
次に、発明を支える知識を公開することで知識の普及を後押しし、それを活用した次の発明を促したのである。
(フィリップ・アギヨン : コレージュ・ド・フランス教授)
(セリーヌ・アントニン : OFCEエコノミスト)
(サイモン・ブネル : INSEEシニアエコノミスト)