JR山手線内側の「廃線」をたどる 新国立競技場にかつて“駅” 響いていた軍靴の音
新国立競技場はかつての青山練兵場に位置します。同地には通称「青山練兵場停車場」があり、ここを出た陸軍の専用列車が千駄ケ谷駅の信濃町寄りで、現在のJR中央線に乗り入れていました。ただ、痕跡は全く残っていません。
軍用列車の方が先に走った現JR中央線 新宿〜千駄ケ谷
東京オリンピックのメイン会場となった新国立競技場。勝者と敗者、悲喜こもごもの舞台となったこの地にはかつて、出征列車の始発駅がありました。甲武鉄道(現・JR中央線)の青山停車場(駅)、通称「青山練兵場停車場」です。
ホームでは行く人と見送る人が唱する軍歌の声、馬のひづめ音と鳴き声、機関車の汽笛と蒸気音、そして列車が動き出すと「万歳!」の合唱で、喧噪と熱気、それに別離の哀愁に包まれていたといいます。青山停車場からは陸軍省専用線が、現在の中央線 信濃町〜千駄ケ谷間の100mほど南を同線に沿って進み、千駄ケ谷駅の信濃町寄り付近で甲武鉄道へと合流していました。
大番町通跨線道路橋から千駄ケ谷方面を望む。左側が明治神宮外苑(2022年9月、内田宗治撮影)。
軍用の停車場として青山停車場が設置されたのは、日清戦争の際です。清国への宣戦布告が1894(明治27)年8月1日、新宿〜青山(軍用停車場)の開通が同年9月23日、新宿〜牛込(現・飯田橋駅付近)の旅客扱い開始が同年10月9日なので、現在の中央線 新宿〜千駄ケ谷間では、旅客列車より先に軍用列車が走ったわけです。
青山停車場があった地を訪ねてみましょう。信濃町〜千駄ケ谷の中間付近で、なにやら古びたコンクリート製の橋が線路を跨いでいます。大型車が片側通行で通れるほどの幅がありますが、車止めが設置され、さながら人と自転車専用となっているのもいわくありげです。
橋の名称がまた奇妙です。橋自体には「大番町通跨線道路橋」とのプレートが貼られ、甲武鉄道の史料でも「大番町通陸橋」とありますが、橋の前の信号機には「無名橋」と書かれています。大番町とは同地(現・新宿区大京町)の旧町名です。地元でもこの橋の名前はあまり知られていないようで、無名橋とされた由来も不明でした。
短絡線を通り、いざ大陸への玄関口へ
橋の上に立って千駄ケ谷方向(西側)を向いた場合、右手(北側)に慶應大学病院など、左手には新国立競技場や神宮球場などがある明治神宮外苑が広がっています。時期により施設は異なるものの、明治時代から大正時代にかけて慶應大学病院周辺は、陸軍輜重(しちょう)兵営や兵器支廠倉庫などでした。前出の青山練兵場は、明治神宮外苑に位置します。ちなみに輜重とは、前線に補給する武器・弾薬などの軍需品のことです。
青山停車場があった時代には、大番町通陸橋のほか、そこからそれぞれ千駄ケ谷方向と信濃町方向へ50mほど離れた地に、輜重廠前陸橋と輜重兵営前陸橋が架けられていました。それらの橋を渡って、戦地へ赴く兵士たちは青山停車場へと向かったことでしょう。ただ、現在の大番町通跨線道路橋は、信濃町〜代々木間が複々線となった1927(昭和2)年頃の竣工と推定されます。
青山停車場を出た軍用列車は、広島県の宇品港へと向かいます。新宿駅でスイッチバックして山手線の渋谷方面に向かい、現在の大崎駅付近から分岐する1.4kmの短絡線「品川西南線」を通り、現在の京浜東北線 大井町駅付近から東海道線へ入りました。なお1894年8月以前は品川駅まで行ってからスイッチバックしていましたが、これでは方向転換のたび先頭の機関車を付け替える必要があり非効率だったため、先述の短絡線が建設されたのです。
また、当時の横浜駅は現在の桜木町駅の場所にあり、ここでもスイッチバックが必要だったため、神奈川〜程ヶ谷(現・保土ヶ谷)間の短絡線(神奈川程ヶ谷直通線、3.5km)が同年12月に造られました。
廃線跡は外苑西通りから見える側線ではない
青山停車場への陸軍省専用線は、日清戦争後いったん廃止されましたが、1897(明治30)年、英照皇太后(明治天皇の嫡母)の霊柩列車運転のため甲武鉄道が再度開設しました。さらに1912年、明治天皇の大喪の礼が青山練兵場で行われ、霊柩を伏見桃山陵(京都市伏見区)へと運ぶ大喪列車が運行されています。
青山練兵場付近(1909年測図、陸地測量部)。
その後、この線路は廃止されていましたが、青山練兵場を明治神宮外苑とする建設計画が1918(大正7)年12月に策定され、翌1919(大正8)年10月、資材運搬のため明治神宮造営局千駄ケ谷側線として復活します。千駄ケ谷駅付近の分岐から1045mある路線で、1926(大正15)年3月の側線撤去までの間に鉄材、石材、大理石、セメント、煉瓦、砂利など貨車総トン数換算で22万8654トンが運ばれました。
明治神宮外苑完成後、線路は完全に撤去されたようです。中央線線路に沿った首都高速道路の建設もあり、線路跡部分の地形は一部が改造され、かつての線路の痕跡は全く残っていません。
なお現在、千駄ケ谷駅の信濃町寄りには、外苑西通りの架道橋東側で分岐して本線に沿う側線があり、これがかつての青山練兵場への路線跡と判断される方もいますが、実際には線路はもっと西側で分岐して、現在の首都高速より南側に延びていました。
今回は痕跡のない歴史的内容でしたが、都心付近の中央線は、四ツ谷駅西側にある中央・総武線各駅停車の煉瓦造り坑口の御所トンネルなど鉄道遺産が点在し、興味深い区間となっています。