家族の形を縛ること、正しい親を決めること - 紫原 明子
※この記事は2018年06月15日にBLOGOSで公開されたものです
不完全な家族、不完全な親
子どもの頃、私はショッピングモールが大嫌いでした。所帯染みていて、悲しくなったからです。微妙な服屋に微妙な靴屋。微妙な本屋に微妙なCD屋。夢のない田舎を象徴しているようで、閉塞感で胸がいっぱいになりました。
でも自分が子を生み、親になってからというもの、途端に大好きになりました。スーパーのとなりにドラッグストアがあって、ドラッグストアにはさまざまなメーカーのさまざまなサイズのオムツやお尻拭きが用意されていて。さらにそのおとなりのフードコートには、うどん、たこやき、マクドナルド。子どもサイズのショッピングカートが用意されているモールなんて、分かってるね~、と言いたくなります。
けれどもそんなショッピングモールを再び嫌いになったことがあり、いつだったかというと、離婚してひとり親家庭になった直後のことです。ショッピングモールに来ると嫌が応にも、世の中の大勢の人たちが、何も欠かすことなく、幸せな家族のままでいる、ように見える。
そうあり続けることができなかった自責の念と、同時に、あるべきものを欠いていることに対して、他人が自分に哀れみの目を向けているのではないかというような猜疑心にかられ、便利なことこの上なかったショッピングモールが再び、悲しい場所になってしまったのです。
考えてみれば、小さなひとつの家族の一員である私が、他人から、社会からの目をこうも気にして塞いだのは、決してこのときが初めてというわけではありませんでした。
19歳のときに母になったので、若い母親と後ろ指をさされているのではないか、若いから虐待していると疑われるのではないか。子どもの定期健診や病院も、現場で控えている人たちが自分の味方であるような気がしたことは一度もなく、何かしら自分の親としての落ち度を指摘されるのではないかと、内心いつもビクビクしていました。
うちの子達には虫歯があり、また矯正治療も受けているので定期的に歯医者さんに通っているのですが、子どもたちが中学生、高校生となったいまだに「お母さんは若いからね」「お母さんは今が青春なんでしょ」などと言われることもあり、虫歯という親としての落ち度が年齢に紐付けられているな、と感じています。
一方、これで思い出すのが私の幼少期の出来事です。私はどうやら唾液の量が少ない体質だったようで、そのせいか虫歯が多くできました。私の母は28歳という、立派に大人な年齢で私を産みましたが、私の虫歯について「お子さんの虫歯はお母さんの責任ですよ」と歯医者さんにこっぴどく叱られ、その夜の母が一人どっぷり落ち込んで、ダイニングテーブルで泣いていたのを今でも覚えています。
ひとり親である、若い親である。一般的とされる親、一般的とされる家族と違うことを、私は常々どこか後ろめたく思いながら子育てをしてきました。
けれども、もしそのどちらでもなかったら。私は何の後ろめたさもなく子育てをしてこられたのか。何の後ろめたさもない親に、家族に、なれたのか。本当はそうでもないんじゃないか。最近自分が、“小さい子の子育て”、“小さい子を持つ家族”の当事者から少しずつ遠ざかっていく中で、当事者であった自分を少しずつ俯瞰して振り返る中で、どうもそんな気がしてきました。
他人が家族の正しさをジャッジできるのか
先日、カンヌでパルムドールを受賞し話題の映画『万引き家族』を観てきました。この映画は、是枝監督が「犯罪でしか繋がれない家族」というキャッチコピーを最初に思いついて、そこから作られた映画だそうです。この映画に登場する家族はタイトルの通り、主に万引きで食いつないでいます。これだけでも一大事ですが、他にもさまざまな後ろめたい事情を抱えています。
同じく現在上映中の『フロリダ・プロジェクト』という映画も、アメリカの貧困家庭の現実を描いた作品です。実は是枝監督の『誰も知らない』に影響を受けて作られたそうで、テーマも演出も、とても近いものがあります。
どちらの映画に登場する家族も、一般的にはとてもじゃないけど、よしとされない家族です。でも、どちらもまさにその点に、とても大きな問いを投げかけているんです。
似たような問題がここ数日、ネットでも大きな話題になっています。 公共の場で泣く赤ん坊について、赤ん坊が泣いているだけなら苛立たないが、親が泣き止ませようという努力をしていない場合には苛立つ、という内容の発言がありました。
これに対し、親が努力しているかどうかを他人が判断できるのか、という疑問の声が多数寄せられているのです。これは全くその通りで、以前も書いた例ですが、癇癪を持っている子など、一刻も早く泣き止ませるためにはなだめようとしたら逆効果で、静観せざるを得ないという場合もあるのです。
ところが、少なくともそういった知識を持っている私、他人からのあるかないかもわからないジャッジの視線に、当事者として思い悩んだ経験を持つ私も、ふと気を抜くと、他人に、同じようにジャッジの視線を向けてしまっていることがあるんです。
たとえば、言動の様子が変わってきたなと感じる子どもがいたとして、つい家族との関わりの中に原因を見出そうとしてしまうことがあります。また友人、知人として接する大人の、物事の捉え方に違和感を感じたら、ついその根っこを、育った家族の中に辿ろうとしてしまうこともあります。
家族のあるべき形、正しい繋がりの形を無責任に定義してくる他人の目に苦悩しながら、自分もまたともすれば、同じことをしようとしてしまうのです。
じゃあこれはよくないからやめよう、と簡単にやめていいものかというと、そうではないから非常に難しいところです。どんなに親が子どもに愛情を感じていると言っても、その表現方法が暴力であるような場合は虐待であり、子どもは危険のない場所に保護されなければなりません。
虐待を見抜き、子どもを救うのは、家族の外にいる人の眼差し、あの親子関係は不適切ではないかという、ジャッジの目に他なりません。
先日起きた幼い女の子の虐待死事件、あまりの酷さに多くの大人が心を痛めました。イラストエッセイストの犬山紙子さんの呼びかけにより #ひとごとじゃない #児童虐待問題に取り組まない議員を私は支持しません というハッシュタグが広く拡散したり、またNPO法人フローレンスの駒崎弘樹さんを発起人に、児童虐待の対策を求める署名運動が開始されたりと、ネット上でも次々と大きな動きが展開しています。
一番は子供の命を守ること
#ひとごとじゃない というハッシュタグが示すとおり、家族の中で起きる多くの凄惨な事件は、ありふれた日常と地続きで、誰にでも起こり得ることです。『万引き家族』で描かれたあの家族のあり方さえ、私には決して他人事と思うことができませんでした。
現在、おそらく多くの親たちが、自分が良い親かどうか、正しい親かどうか、絶えず社会から問われ続けているような、そんな感覚を持っているのではないかと思います。しつこいようで恐縮ですが以前も紹介した「泣いてもいいよ」ステッカーも、やはりそんな親御さんへ向けて、少しでも信頼できる社会を可視化するために、「安心していいよ」を伝えるために作ったものです。
けれど、そうはいっても、何より真っ先に優先されるべきは、やっぱり子どもの命が守られることです。「子どもが痛めつけられているかもしれない」というとき「疑えば親が傷つくかも知れない」を天秤にかけることはできません。
ジャッジする目が機能している社会で子どもの命が守られるのであれば、やはりまずは、何よりもその環境を享受するべきだと思います。
私は、ある面では過去の自分を救いたいがために、今後も、小さい子を育てる親御さんがより安心できるように、社会を信頼できるように、そのための方法を考えていきたいと思います。が、同時に親御さんの方も、今よりもっともっと強くなっていいのではないか思います。
他人に無責任なことを言ってこられたら、何か文句あるか!これが我が家の正しい家族の形だ!と、堂々と言い返していいのではないかと思います。
家庭にばかり子どもの責任を押し付ける社会の中で、弱く、脆い命を守り育てる重要なミッションを遂行されているのだから、そのくらい言っていいと思うんです。
その上で、最後の最後のジャッジは、子どもの命を守るために無責任な社会が行います。なおかつその是非については私達全員が、決して安易に結論を出さず、いつまでも辛抱強く、考え続けていかなくてはならないことだと思うのです。