【赤木智弘の眼光紙背】平和を報じるなら、戦争も報じよ - 赤木智弘
※この記事は2010年02月19日にBLOGOSで公開されたものです
いよいよバンクーバー冬季オリンピックが開幕した。自分ではスポーツはほとんどしないものの、スポーツを観るのは好きな私にとって、普段目にしないスポーツを目にする機会を与えてくれるオリンピックは、とても楽しいイベントである。
日本のマスコミは、いつも通りのメダル期待偏重の報道ではあるものの、見る側にとっては、そのような煽りなど気にせず、好きなスタイルでオリンピックを楽しめばいい。もちろん日本選手にメダルを期待するのもスタイルの一種と言える。
ところで、バンクーバー冬季オリンピック開幕した裏側で、米軍によるアフガニスタンでのタリバン掃討作戦が開始されたことを皆さんご存知だろうか?(*1)
私が見聞きした限り、オリンピック開幕に浮かれるテレビ局で、掃討作戦の開始を報じる局はなかった。彼らにとっては、戦争よりも、オリンピック出場選手の服の乱れの方が、大きな問題だったようだ。
ふと思い返せば、2年前に北京で夏季オリンピックが開催された日も、ロシアとグルジア間で紛争が勃発した。こちらはさすがに報じられないということはなかったものの、それでもオリンピックの熱狂の中に、紛争の存在はいつしか忘れ去られていった。
オリンピックは「平和の祭典」と呼ばれる。多くの国が1つの都市に終結し、同じスポーツでその優劣を競う。
アテネでは38度線を挟んでいがみ合ってきた韓国と北朝鮮が合同で行進した。北京では当日に紛争が勃発したロシアとグルジアの選手が抱きあう光景が見られた。
スポーツというルールの下に、各国がフェアに競い合う光景は、なるほど平和的である。
しかし現実では、オリンピックというビッグイベントを隠れ蓑として、その裏でこっそり国際社会に悪印象を植え付けないようにして、戦争を繰り広げようとする人たちが存在している。
また、どうしても国別対抗スポーツ大会になってしまうオリンピック自体、「安直なナショナリズムを喚起してしまっている」という批判から逃れることはできないだろう。
かつて、アドルフ・ヒトラーがベルリンオリンピックを「アーリア人の優秀さを世界に喧伝するイベント」と位置づけたように、今でも多くの為政者がオリンピックなどのスポーツイベントを政治的に利用しようとしている。
「平和」とは目指すべき理想であり、唱えれば平和が得られるお題目ではない。
オリンピックという見せかけの平和の裏に、戦争という現実がある。それをしっかり暴きたてることが、マスメディアの存在意義だろう。
オリンピックでマスメディアが盛り上がるのは結構だ。広告収入のために、企業スポンサーがついた選手ばかりを大々的に応援するのもいいだろう。だが、マスメディア自身がオリンピックの陰に戦争を隠してしまうのであれば、果たしてそんなものにマスメディアであるべき価値はあるのだろうか?
少し前に、NHKの経営委員が、委員会の中で「若者に、徴農制とか徴林制などと同じように、法律でテレビを見なければいけないようにしろ」などと発言をした事が話題になっていた。(*2)
だが、平和の祭典と、その裏側で繰り広げられている戦争という現実、そうした両輪を報じ、戦争や平和の問題を世間に訴えることができないテレビなど、視聴する価値はまったくないのである。
*1:アフガン:タリバン掃討 米軍、アフガン軍が大規模攻撃(毎日新聞)http://mainichi.jp/select/world/america/news/20100215k0000m030032000c.html
*2:NHK経営委員会|過去の議事録|第1110回(NHK)http://www.nhk.or.jp/keiei-iinkai/giji/g1110.html
プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。著書に「「当たり前」をひっぱたく」など。