【赤木智弘の眼光紙背】個人の幸せを、社会が定義することはできない - 赤木智弘
※この記事は2010年01月21日にBLOGOSで公開されたものです
世界保健機構は、これまでのタバコの広告やスポンサードの規制に加え、今後はアルコールの影響を鑑み、酒販メーカーに対する規制を進めていくという指針案をまとめたという。(*1)タバコとアルコールは、健康的な社会を構築したい人たちによって、常に害悪視されてきた。
「タバコ撲滅」の掛け声が一定の社会的賛同を得て、軌道に乗った今、その力を今度はアルコールに振り分けることは、既定路線といえよう。
つまり、これまでタバコに対して行われて来た禁煙キャンペーンが、同じようにアルコールに対して行われるという路線が確定したということである。今後はありとあらゆる手段で「アルコールは害悪である」という喧伝が行われ、お酒を楽しめる場所が減らされていくことは間違いない。
アルコールの害は、考えようによってはタバコの害よりも深刻なものだ。
タバコの凶器性は基本的に、体内に摂取されるニコチンやタール、そして行き着く煙の範囲に留まる。喫煙室などを用いて一時的に隔離をすることさえ徹底すれば、その害をある程度はコントロールすることができる。
一方、アルコールの凶器性は、アルコール中毒や依存症という体の問題もあるが、その多くは判断能力を低下させ、人間そのものが数時間凶器に変わりかねない可能性にある。一度アルコールを飲めば数時間は判断力が低下し、快活になる一方で粗暴な判断を下しがちになる。タバコのように喫煙ルームを作ってコントロールするわけにも行かない、極めて厄介な代物である。
お酒が好きな自分としても、ある程度の規制は必要だと思う。飲酒運転に対する社会的な取り組みはもちろん、以前に書いたがタバコの成人認証のためのtaspoのようなシステムをお酒でも整備し、有人店舗でもICカードによる年齢チェックをしなければお酒が買えないなどの措置は必要であろうと、私は考えている。
しかし私はそうした規制を、お酒が他者の権利を害することを阻んだり、未成年の飲酒喫煙防止のための措置としては認めても、「本人の健康」すなわち「酒を飲まない方が健康にいい」という考え方を強制する方法として認めるつもりはない。
私はこの欄でタバコのことを何度か取り上げて、安直にタバコを街や社会から追い出そうとする状況に対して、常に批判を加えてきた。
それは決して私が喫煙者で、タバコが吸えなくなると自分が困るからという理由で、批判しているのではない。また「タバコが健康に悪いなんてウソ」などという珍説を支持するつもりもない。
タバコを吸うという行為を私は行わないが、別の誰かの「喫煙」という行為を守ることが、私たちの自由闊達な社会を守ることに繋がるからこそ、私は喫煙の権利を擁護してきたのである。
確かに、健康を維持することによって、幸せになりやすい人は多いだろう。しかし、あくまでも何が幸せかの尺度を決めるのは、個人の自由であるし、そんなものは個人にしか決められない。そして、社会には、個人の幸せを下支えする義務はあっても、個人対して「幸せでなければならない」などと命令する権利はない。
WHOが「アルコールは摂取しない方が健康にいい」ということを提示しても、私たちにはそれを拒否する権利がある。また、それを理由にした国の規制に対しては反対しなければ、私たちは自由闊達な社会をやがて失い、誰かに定義された幸せを遵守しなければならない不自由な社会に生きることになるだろう。
*1:たばこの次はアルコール、広告など規制 WHOが指針案(朝日新聞)http://www.asahi.com/business/update/0118/TKY201001170292.html
プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。近著:「「当たり前」をひっぱたく」。
眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。