"戦場"キエフに留まる女性「死ぬ覚悟」を語る理由
キエフの中心にあるマイダン広場。大統領府に続く道はバリケードで封鎖されていた(写真:筆者撮影)
2月24日に始まったロシア軍のウクライナへの侵攻。国連は民間人の死者が1月で1000人を超えたと発表した。国連人権高等弁務官事務所によると、侵攻後に死亡した子どもは78人、負傷したのは105人にのぼるという。
一方、日本のメディアは多くが首都キエフから撤退し、取材拠点を西部のリビウや隣国に移した。そうした中、キエフに入った日本人写真家が10日間にわたり見聞きした状況を3回にわたって掲載する。今回が2回目。
キエフの象徴、マイダン広場の現在
開戦16日目、3月11日13時23分、この日何度目かの空襲警報が鳴った。街を警備する兵士が避難を促す。キエフの中心部、マイダン広場にいた筆者は避難のため地下街に降りた。
この広場は2014年に起きた民主化運動「ユーロマイダン革命」の舞台だ。ソ連崩壊後、ロシアは広大な面積と旧ソ連第2の人口を有する隣国ウクライナに関心を寄せていた。一方、国民の多くは貧しさからの脱却を期し、EUへの加盟に希望を抱いていた。
そんな中、親ロシア派のヤヌコビッチ大統領がEUとの連合協定締結に向けた準備を停止すると発表した。怒りに火がついた国民はマイダン広場に結集。デモの参加者は10万人以上にふくれあがり、治安部隊との衝突で100人以上の死者が出た。
騒乱を受けて、ヤヌコビッチ大統領はロシアに亡命し、政権は崩壊した。そして、ロシアはクリミア半島を一方的に併合した。ロシアとウクライナの紛争はそのときから続いている。
2014年に始まったロシアとの戦争で犠牲になったウクライナ兵の慰霊碑(写真:筆者撮影)
修道院の前の壁にはこんなタイトルの下、大勢の兵士の遺影が並んでいた。
〈MEMORY WALL OF FALLEN DEFENDERS OF UKRAINE IN RUSSIAN-UKRAINIAN WAR(ロシアーウクライナ戦争で亡くなったウクライナ兵の記念碑)〉
その数およそ4000人。最初の一人の死亡日は2014年3月18日だった。時折、女性兵士も混じる遺影から、血と涙が絶え間なく流されてきた紛争の根深さを感じた。
土嚢を積む若者たち
再びマイダン広場に出た。親欧米で、民族主義派の後押しも受けた現大統領、ゼレンスキーがいる大統領府に向かう道はバリケードで封鎖されている。その方向にカメラを向けることは許されない。ほとんどの政府機関は地下に潜り、オンラインで実務を遂行しているという。
マイダン広場のバリケードで土嚢を積んでいたニコラ(写真:筆者撮影)
別のバリケードのところで若者4人が土嚢を積んでいた。どれくらいの重さなのかと思い、試しに持たせてもらったがまったく持ち上がらない。ひとつ60キロくらいはあるだろうか。彼らはそれを二人で持ち上げ、テンポよく積んでいた。
休憩時間に若者のひとり、日本のアニメが大好きだというニコラが、炭酸入りの水を持ってきてくれた。右腕にはウクライナの二色国旗のうち、実り豊かな小麦を意味する黄色のテープを巻いている。
「日本でもウクライナをサポートするためのデモをやってるよ」と伝えると、「本当? ありがとう」と笑顔が返ってきた。
飲酒は禁止され、店は休業しショッピングも楽しめない。青春を謳歌する場がなくなったこの街で、彼らはそれぞれの居場所を見つけているように感じた。
「アンナさんがまだキエフにいます」
東日本大震災から11年のこの日、日本在住のロシア語リサーチャーからこんなメールが届いた。
〈いまキエフにいるのですか? アンナさんがまだキエフにいます。「逃げて」と言っているのですが、「逃げない」と。高齢の親がいるからだと思います〉
2013年に開催された「福島への祈り展」の準備をするチェルノブイリ博物館副館長アンナ・コロレフスカ(写真:リサーチャー提供)
アンナさんとは、ウクライナ国立チェルノブイリ博物館副館長のアンナ・コロレフスカ(63)のことだ。東日本大震災が起きた翌年、博物館は福島原発事故に関する資料の収集を始め、特別展を開いた。福島第一原発構内の撮影をしていた筆者は、写真を提供するよう博物館から依頼された。そのとき橋渡しをしてくれたリサーチャーが、私のキエフ入りを知ってメッセージを送ってくれたのだ。
早速、私からアンナに問い合わせのメールを送った。返事はこうだった。
〈ありがとう。でも、私は避難するつもりはありません。私と家族はキエフに留まっています〉
アンナの自宅近くにはロシア軍のミサイルが度々着弾している。避難の途中で万が一のことが起きてはいけないと、案じての判断らしい。
1986年に起きたチェルノブイリ原発事故。移住を強いられた住民は約16万人にのぼり、多くが100キロ離れたキエフに辿り着いた。一方、放射能の影響を心配して、100万もの市民がキエフから逃げ出したという。
当時、飛行場や鉄道の切符売り場に殺到した市民の姿は、38年後の今につながって見える。原発の恐ろしさを熟知しているはずのロシアが、こともあろうか運用中の原発に砲撃を加えたのは開戦9日目、3月4日のことだった。
ロシア軍の攻撃を受けたザポリージャ原発(写真:Press service of National Nuclear Energy Generating Company Energoatom/ロイター/アフロ)
欧州最大級の出力を誇るザポリージャ原発。6機の原子炉を有し、国内で使用する電力のうち約2割を担っている。砲撃によって火災が発生したのは原子炉付近にある訓練棟だった。長くチェルノブイリ原発の被災者支援に関わってきたリサーチャーはこう語る。
「ああ、ロシア軍は一番大きな原発にも来てしまったか、と感じました。そのとき、すでにチェルノブイリが占拠されていましたから」
「私はこの街とともに死ぬ覚悟です」
3月12日、キエフ中心部から北西に2.6キロのところにあるチェルノブイリ博物館がバリケードで封鎖された。この日の朝、近くの行政庁舎がロシア軍の砲撃を受け、炎上したからだ。警備にあたる兵士たちの表情から怒りがにじみ出ていた。
幼い頃のアンナと両親(写真:アンナさん提供)
近所に爆弾が落ち、自宅が激しく揺れることもあるというチェルノブイリ博物館副館長のアンナ。父はロシア人で母はウクライナ人だ。キエフで生まれ育った母は1941年、ナチスドイツがキエフへ侵攻したときに疎開した。当時6歳。大学に進学するため故郷に戻れたのは13年後のことだった。アンナは言う。
尾崎孝史氏によるウクライナのレポート、2回目です
「私は母のような運命を繰り返したくありません。故郷を離れて何年も帰還を待ちわびるのはごめんです。もし運命ならば、私はこの街とともに死ぬ覚悟です」
アンナの母は2017年に亡くなった。いま、足を患い自由に動けなくなった父を支えながら空襲に耐えている。「記事に添えてください」と、筆者に送ってくれた家族写真とともに。
(3回目に続く)
連載1回目記事:日本人写真家が記録した"戦場"キエフの10日間
連載3回目記事:民間人410人の遺体、キーウ周辺の人々が語ること
(尾崎 孝史 : 映像制作者、写真家)