水中考古学者の山舩晃太郎さん(37)は、沈没船や海や川に眠る遺跡を発掘する若手研究者だ。大学生の時、図書館で手に取った1冊の本が人生を変えた。初の著書『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』(新潮社)からお届けする――。
写真=Shipwreck Institute for Education and Local Development
バハマでの発掘調査の様子 - 写真=Shipwreck Institute for Education and Local Development

■世界中の海には、大量の沈没船が手付かずのまま眠っている

近年、貴重な沈没船の水中遺跡が凄い勢いで発見されている。水中探査機器の進歩や、レジャーとしてのスキューバダイビングが浸透したのに伴い、沢山の沈没船が見つかっているのだ。ギリシャのエーゲ海に浮かぶ島の周辺から、4年間の調査でなんと58隻の沈没船が見つかったこともある。

ユネスコは少なく見積もっても、世界中には「100年以上前に沈没し」、「水中文化遺産となる沈没船」が300万隻は沈んでいるとの指標を出している。

300万隻という数は一見多いように感じるかもしれない。だが、天気予報や水中レーダー、海図や造船技術が格段に進んだ現代の日本でも、転覆や沈没といった海難事故は毎年100件以上起きている。このペースが過去1000年変わらなかったとしたら日本単独でも10万隻もの沈没船があった計算になる。

つまり、ギリシャの島の周辺から58隻見つかったのは不思議でもなんでもない。むしろ少ないくらいだ。大量の沈没船が、まだまだ手付かずのまま世界中の海に眠っているのだ!

こうした沈没船や、水中に眠る遺跡を発掘・研究するのが「水中考古学」だ。

よく陸上の考古学と対をなし、独立して存在している学術分野ではないかと勘違いされるが、これは間違いである。水中考古学はあくまで一般的な陸上の考古学の一部だ。ただ、遺跡が「水中」という環境にあるため、陸上の遺跡よりも格段に保存状態が良いケースが多い。

その一方で、発掘作業や海底から引き上げた遺物の保存処理作業に特殊な技術と知識も必要だ。これらの技能を身に付けた考古学者を包括的に水中考古学者と呼ぶ。「海の中でも発掘ができる陸上の考古学者」が水中考古学者というわけだ。

ここで重要なのは、考古学の神髄は発掘ではなく、発掘された遺跡や遺物を対象に行われる研究であることだ。エジプトの海底から神殿が見つかればそれはエジプト考古学研究の水中考古学者が行わなければならないし、日本で飛鳥時代の古墳が水中で発見されれば、それを専門に研究している考古学者が発掘研究を行わなければならない。

そして私の専門は、学問分野でいえば水や海に関わる人類の歴史を専門とする海事考古学の中の「船舶考古学」になる。

■「万年バッティングピッチャー」諦めたプロ野球選手になる夢

私は1984年、秋田県で生まれた。

一人っ子でわがままに育った私を心配したのか、父が転勤族だったため当時住んでいた名古屋市で、両親は小学校3年生の私を少年野球チームに入れた。これが13年間続けることになる野球との出会いだった。中学生で千葉県市川市に引っ越したが、「将来はプロ野球選手になれる」と信じ、ひたすら野球に打ち込み、法政大学第一高等学校にスポーツ推薦で入学する。

高校時代、大きな挫折を味わう。2年生の春に右肘をけがしてしまったのだ。夏休みに手術を受け、再び球を投げられるようになったのは、3年生に上がった後だった。

小さい頃から甲子園を目指していたが、結局夏の予選のベンチに入ることもできずに終わる。今思えば当然の結果なのだが、当時は全てが嫌になるほど絶望したのを覚えている。付属校で大学受験の無かった私は、リハビリと練習を続け、大学野球の名門の法政大学でも野球を続けることにした。

写真=筆者提供
6大学野球で優勝した時、神宮球場でチームメイトと記念撮影する山舩さん - 写真=筆者提供

大学野球部のレベルは想像以上だった。甲子園や野球雑誌で見てきた選手が同級生として入ってきたのだ。私は万年バッティングピッチャーだった。

3年生の初め、野球推薦の新入生が自分の横で150km近い球を軽々と投げているのを見た時に、どんなにもがいても敵わない世界があると思い知らされた。

この時、私は小さい頃から憧れていたプロ野球選手になる夢は実現せずに「夢」で終わるのだと知った。

写真=筆者提供
大学の野球部では万年打撃投手だった。 - 写真=筆者提供

■水中考古学との運命の出会い

そんな2回目の挫折の中、卒業論文のテーマを決めるため、大学の図書館に通っていたある日、運命の1冊と出会う。

アメリカのジャーナリスト・写真家のロバート・F・バージェスが書いた『海底の1万2000年―水中考古学物語』(1991年、心交社)だ。

「フロリダにある『ウォーム・ミネラル・スプリングス』という鉱泉から1万年前の人間の頭蓋骨と脳が発見された。この鉱泉の水底には酸素が存在せず、水温もほぼ一定だという。有機物の保存に絶好の環境で、腐敗がほとんど起こらず保存されていたのだ」と書かれていたのを読み、衝撃が走った。そんなことがあるのか!

すぐに様々な図書館から水中考古学関連の学術書を取り寄せ、夢中になって読み漁った。

日本語で出版されている書物を読み終えた後は、英語の本もできるだけ取り寄せ、文章はさっぱり分からないが、そこに載っている写真だけを眺める日々が数カ月続いた。地中海やカリブ海をはじめ、世界中の美しい海の中で撮られた水中遺跡や発掘の様子を捉えた写真。気づいた時にはもう夢中だった。

ある時、写真には必ずと言っていいほど、「テキサスA&M大学」のクレジットがあることに気づいた。世界中で発掘する精鋭集団。こんな人達もいるのだなぁ、すごいなぁ、と写真を眺めていた。

法政大学の硬式野球部は、練習に参加できなければ退部しなければならない。しかし4年生になれば、プロ野球か、社会人野球を目指す選手以外は就職活動のために練習に出ないでもよいという規則がある。私も4年生になり、監督に相談して練習を休ませてもらうことになった。こうして、13年間の野球選手としての人生が、事実上終わった。

■「英語力ゼロ」でアメリカ留学へ

この頃には、自分の中での新たな将来の進路は決まっていた。

「アメリカで水中考古学を学んでみたい!」

行きたい大学も決まっている。テキサスA&M大学だ。

写真=筆者提供
テキサスA&M大学 - 写真=筆者提供

テキサスA&M大学には留学生用の語学学校が併設されており、希望すれば外部からも入学できる制度になっていた。せっかく英語を学ぶのであったら、この語学学校に通って、憧れの大学院を見てみたい、同じ空気を吸ってみたい!

そう考えた私は、英語が得意な友人にアメリカの語学学校への申し込み作業を手伝ってもらい、学生ビザを取得する。

大学を卒業して、アルバイトをしながら数カ月過ごし、スーツケース1つに夢を詰め込み、両親に見送られてテキサスに旅立った。

真夏で気温が40度にもなる灼熱の中、ようやくたどり着いたテキサスA&M大学のキャンパス内で、語学学校のオフィスを見つけ出した。クーラーの効いた室内に入ると、受付のアメリカ人女性が話しかけてくる。

私には彼女が何を言っているのかが、さっぱり分からない。運がいいことにその日、少し日本語の話せる韓国人の男性が入学の手続きにやってきていた。彼の通訳によって、ようやく私に住む場所がないこと、知り合いが誰もいないことが彼女達に伝わった。

後から聞いた話によると、私のように住む所さえ決めずに渡米してくる学生は前代未聞だと、職員内で笑いの種になったそうだ。

■到着初日にマクドナルドで心が折れる

何もできない私の代わりに、語学学校の受付の女性が入学の手続きやアパートの手続きをしてくれた。しかし入居できるのは、授業が始まるのと同じく1週間後。それまでは、語学学校の先生が手配してくれた大学近くの安いモーテルに滞在することになった。

モーテルに着いた頃には夜の6時を過ぎていた。前日からほとんど何も口にしていなかった私は、考えられないほど空腹だった。

歩いて行ける距離にマクドナルドがあり、そこで食べることにした。店内は夕食時でとても混雑している。私が注文する番になり、体格の良い女性店員に何か尋ねられたが、彼女が何を言っているかは全然理解できない。

実は、アメリカのマクドナルドではハンバーガー単品のことを「サンドウィッチ」、セットメニューのことを「ミール」という。そんなことは全く知らない私は「バーガーセットプリーズ」と完全な日本人発音の英語で懇願していたのである。

徐々に店員の女性のいら立ちが顔に見え始め、繁盛している店内で私の後ろの注文待ちの列は、みるみる長くなっていった。

私の心は、完全に折れてしまった。

語学学校の授業の始まるまでの1週間、私はモーテルの受付の横にあった小さなスナックとジュースの自動販売機だけで命を繋いだ。部屋と自動販売機を行き来しながら「なんで自分は、こんな所に何も考えずに来てしまったのか?」と、情けなさと後悔で泣きながら過ごした。

■英語学習の成果は……“読解1点”

しかし、留学生活も半年が過ぎ、振り分けられた一番下のクラスの留学生相手なら苦労なく会話ができるようになっていた。

写真=Alfredo Martinez Fernandez
メキシコでの海底調査の様子 - 写真=Alfredo Martinez Fernandez

自分の英語力を試してやろうと、私はTOEFLを受けることにした。半年前まではチンプンカンプンだった英語も何となく理解できるようになり、英語力が相当伸びている自信があったのだ。

TOEFLは読解、聞き取り、作文、会話と4つの分野にわかれている。それぞれが30点満点で、合計120点満点だ。成績が届き、スコアを確認してみると……。

読解:1点

目を疑った。TOEFLは全て選択問題だ。適当に答えても各セクションで5点は取れそうなものなのに、1点とは……。他の分野のスコアも散々で、合計でも30点かそこらだった。このままだと、いつまでたっても大学院入学など果たせない。徐々に近づいていたと思っていた水中考古学ははるか先にあった。

次の日から、語学学校での授業後、深夜3時まで図書館で勉強する毎日が始まった。今思えばこの時が人生で初めての“受験勉強”だった。

■待望の船舶考古学授業、そして絶望……

そんなこんなで2008年、なんとかTOEFLと、大学院を目指すアメリカ人も受ける共通試験であるGREの最低限の成績をクリアし、大学院にNon-Degree Seekingという制度で仮入学することができた。大学院の授業1つと、大学4年生のクラス2つの全てでB(80点)以上の成績を1年間で残せば、正式な入学が許される。逆に成績が達しなかったら入学をあきらめ、帰国しなければならないというものだった。

写真=Alfredo Martinez Fernandez
メキシコでの海底調査の様子 - 写真=Alfredo Martinez Fernandez

何にせよ、あのテキサスA&M大学の船舶考古学プログラムで勉強をすることができる! 私は天にも昇る気分だった。このためにテキサスまでやってきて、毎日英語を勉強したのだ!

受講することになったのは、古代から中世中期までのヨーロッパの造船の歴史を学ぶ「船舶考古学概論」のクラスだった。私以外の学生は10人、全員がアメリカ人だ。

教授が教室に入ってきて、75分間の授業が始まった。最初の数分で、私の希望は絶望に変わった。

教授が発する単語が、何1つ理解できない。

理解率0%である。血の気がスーーーーーッと引いていった。

しっかりと考えれば分かるが、私はたった2年間英語を勉強しただけだったのである(中学校から大学まで何をしていたのかは聞かないでほしい)。日常生活の英語はそれなりにこなせるようになり、ある程度テレビ番組などの内容も頭に入るようになっていた。

ただ現実にはテキサスA&M大学の大学院の船舶考古学プログラムは、世界屈指の専門的な内容だ。高度な用語がバンバン飛び交うが、もちろん外国人の私のためにゆっくりと話してくれるわけでも、参考用の資料が配られるわけでもなかった。

私はパニック状態となった。

「どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう!」

理解できるのは、映し出されている写真や図だけだった。

■ようやく立てたスタートライン

文字や教授の話す内容を理解するのは諦め、1分毎ぐらいに変わるスクリーンの情報を必死にノートに書き写した。

写真=筆者提供
カメラ機材を持ち水中での調査をする山舩さん - 写真=筆者提供

授業が終わると船舶考古学プログラムに併設されている小さな図書室に走り込んで、書きなぐったスケッチと同じ写真や図のある本を探し出し、その図のことを説明しているページを、電子辞書を使いながら少しずつ読む。2回目の授業からは教授に許可を取って授業内容を録音し、とにかく、それを毎回続けた。75分のクラスの内容ノートをまとめるのに、毎回15〜20時間はかかったのを覚えている。

しかしもうやるしかなかった。毎週3日のペースで徹夜して勉強することとなった。

猛勉強の甲斐もあり、仮入学の1年間の2セメスターの授業でギリギリ平均B以上を取ることができ、2009年、正式に船舶考古学プログラムに修士課程の大学院生として入学することができた。これで、ようやく目標のスタートラインに立てた。

■研究室の門をたたく

大学院の授業の中で特に私の心を鷲掴みにしたのが、「沈没船の復元再構築」という授業だった。

写真=University of Zadar.
ドレッジという器具を使った水中発掘の様子 - 写真=University of Zadar.

復元再構築とは、簡単に話すと、沈没船遺跡で崩れた状態で発見された船から、発掘によって必要な情報を取り出し、それを基に船の姿(船型)を復元して、その船の積載量や帆走能力を導き出す方法論である。

「船」という乗り物に込められた先人達の技術を、パズルのピースを合わせていくように解き明かすのが醍醐味だ。当時の私は手探りだったが、様々な先行研究や、発掘の文献や歴史的な資料から断片的に情報を集め、組み合わせていく作業がたまらなく楽しかった。

「もっと勉強したい!」

私は気持ちが抑えられなくなっていった。

テキサスA&M大学の船舶考古学プログラムには当時7人の教授がいて、それぞれの教授に対し、1〜2人の大学院生が研究助手(Research Assistant)として働きながら、研究技術を吸収していた。研究助手は成績上位の学生の中から教授の独断で選ばれる。英語が苦手だった大学院入学当時の私は、どうあがいても復元再構築の授業を担当しているカストロ教授の助手になれる可能性は極めて低いと分かっていた。

そこで奇策に打って出た。

春学期も終わり、夏休みになったその初日……。

「たのもーーーーー!!!」

実際にはそんな声は上げていないが、それくらいの気合で教授の研究室を訪ねて、「掃除でもなんでもするから、復元再構築をもっと教えてくれないか」と頼み込んだ。カストロ教授は笑いながら快く受け入れてくれた。

私は大学院時代の6年間、教授にお世話になった。

■最新技術「フォトグラメトリ」が開いた新たなキャリア

そうして大学院生活は過ぎていき、2015年春学期、私は博士論文を書き進めていた。テーマは「16世紀・17世紀初頭のポルトガル船のデジタルモデル復元」。

しかし、ここで私は1つの決断をした。博士論文のテーマ変更である。「フォトグラメトリと復元再構築の方法論」を提出しようと考えたのだ。

経緯を少し説明したい。2014年3月頃、私はカストロ教授から呼び出され「今年の夏の発掘プロジェクトでフォトグラメトリを使い、沈没船の3Dモデルを作成してほしい」と言われた。

「フォトグラメトリ」とは、画像データを光学スキャンデータとして応用し、デジタル3Dモデルを構築する技術のことだ。当初は3Dスキャンの精度が低かったが、2010年代に入り、低価格で精度の良いフォトグラメトリ専門のソフトウェアがいくつか発売される。それにいち早く注目し、実際に発掘現場で使い始めたのが、考古学の中でも、我々水中考古学者であった。

理由は簡単だ。レーザースキャナーなど、陸上の発掘調査で使用されていた機材が、水中で使えないからである。また、水中での活動時間の制限や、透明度の問題から遺跡全体が目視できない水中考古学者達にとって、3Dデジタルモデルで遺跡全体をパソコン上で時間無制限で観察できるのも魅力的だ。ただ、私が教授から依頼された2014年頃は「ソフトウェアの精度が低く、考古学研究には使えない」というのが、まだまだ主流の考え方だった。

ソフトウェアを色々試す中で、ある考えが浮かぶ。

「フォトグラメトリを、水中発掘中の現場の記録作業にもっと活用できないだろうか? それに観察用だけではなく、精度の良い研究分析用のデータもフォトグラメトリから生成してしまおうではないか」

それまでのフォトグラメトリは単に水中遺跡をパソコン上で観察するためだけに使用されてきた。そこからもう一歩踏み込ませた活用法はないか、と考えたのだ。

それを夏の発掘現場で実践したところ「コウタ、これはすごいよ!」と、とても喜ばれた。

■運命を変えた出来事

「このままポルトガル船の研究を博士論文として書き上げるよりも、フォトグラメトリを使った沈没船独自の発掘研究のやり方を方法論としてまとめた方が、多くの人に読んでもらえるのではないか」

写真=IBEAM(Instituto Balear de Estudios en Arqueologia Maritima)
スペイン海底の沈没船。精巧なデジタルスキャンを学術研究に活用している - 写真=IBEAM(Instituto Balear de Estudios en Arqueologia Maritima)

数日間考え抜いた私は、カストロ教授にその決断を話すことにした。

「博士論文のテーマを変えて、一から書き直そうと思います」

正直、私もこの申し出は半々の確率で却下される覚悟はしていた。

しかし当初のスケジュール通り「5月までに全部書き終える」ということを条件にカストロ教授から許可してもらえた。教授との約束通り、私は無事に「フォトグラメトリと復元再構築の方法論」で博士論文を書き終えた。

そして、私の運命を変える出来事がついに起こる。

2015年9月、3年に1回開催される大きな国際学会が開催された。「造船史と船舶考古学」に特化した学会で、世界中から船舶考古学者が集まってくる。数ある水中考古学関連の中でももっとも権威のある学会として知られている。

卒業式に臨む山舩さん(写真=筆者提供)

私もフォトグラメトリについての博士論文を発表テーマとして申し込んだら、なんと審査に通ってしまった。

開催場所はポーランド北部の港町グダンスクの海事博物館だった。現地に到着した私は数人のヨーロッパの友人達と再会し、和やかな気持ちで学会の初日を迎えた。

5日間の開催期間で私の発表は3日目だった。15分間の私の発表が終わり、質疑応答が始まった。20近く挙がった手の中で、会場の後方に座っているある壮年の男性にマイクが渡った。普通はその場で質問するものだ。だが、その人は立ち上がり、なぜか私の方まで歩いてくる。

彼の顔が見えたときに私は悟った。

「終わった……」

■世界中を飛び回る水中考古学者の誕生

マイクを持って歩いてきた紳士はフレッド・ホッカー博士だった。私が入学するずっと以前にテキサスA&M大学の教授を務めており、しかも私が専門とする沈没船復元再構築研究室の室長だった人物。世界中の船舶考古学者から尊敬されている大研究者だ。大学でもとても学生に厳しい教授だったらしい。そんな彼が、マイクを持ってこちらに向かってくる。殺される! 私は一刻も早く、その場から逃げ出したかった。

山舩晃太郎『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』(新潮社)

ホッカー博士は会場全体から見える位置で立ち止まり話し始めた。

「これまでも、3Dスキャンやフォトグラメトリを使用した研究事例はたくさん見てきたし、私自身も多くのデジタルスキャンの専門家と仕事をしてきた。彼らが持ってきたデータは、見栄えはいいが研究の役には立たなかった。でも今この発表を聞いて初めて、私はこのデジタルツールはしっかりと“学術研究”に使うことができるという確信を得た。こんなことは、はじめてだ!」

これ以上ない賛辞だった。

会場は一瞬静まり返り、その後、ざわざわしはじめた。そして拍手に変わった。

発表後、世界の研究機関から共同での発掘研究の依頼が舞い込むようになった。ここから、私の世界中を飛び回る水中考古学者としての生活が始まったのだ。

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山舩 晃太郎(やまふね・こうたろう)
水中考古学者
1984年3月生まれ。2006年法政大学文学部卒業。テキサスA&M大学・大学院文化人類学科船舶考古学専攻(2012年修士、2016年博士号修得)船舶考古学博士。西洋船(古代・中世・近代)を主たる研究対象とする考古学と歴史学の他、水中文化遺産の3次元測量と沈没船の復元構築が専門。著書に『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』(新潮社)がある。
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(水中考古学者 山舩 晃太郎)