鳥取市内にある吉川経家像

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 鳥取城の籠城戦で名の知られる吉川経家は、元からの鳥取城主ではありません。いうならば、「雇われ城主」でした。織田方と毛利方が鳥取城を舞台に激突した当時、城主は山名豊国でしたが、1580(天正8)年、羽柴秀吉に攻められ、降伏して城を出てしまいました。ところが、山名家家臣の中村春続、森下道誉らは秀吉への屈服を嫌い、城の明け渡しを拒否し、籠城を始めたのです。

 毛利方にとどまる道を選んだ春続と道誉は毛利方・山陰方面の軍事部門トップ・吉川元春に、しかるべき大将を派遣するよう要請しました。元春はその要請に応えて、自分の家臣を送り込んだのですが、鳥取城兵は納得しませんでした。

 結局、元春は、吉川一族で、その頃、石見の福光城(島根県大田市温泉津町)城主だった吉川経家を送り込むことに決め、経家が1581年3月18日、およそ400人の家臣を従えて、鳥取城に入城しました。このとき、経家は35歳です。

徹底した兵糧攻めに苦しむ

 経家の鳥取入城を知った秀吉は6月25日、自ら2万の大軍を率いて姫路城を出陣し、鳥取城に向かっています。鳥取城が包囲されたのは7月12日でした。この日から、厳しい籠城戦が始まります。

 鳥取城は久松山(きゅうしょうざん)という、ふもとからの高さが240メートルもある山に立つ山城で、経家はこの要害堅固な山城であれば、秀吉軍を迎え撃つことができると考えていました。城を囲まれても、本家の元春が後詰(ごづめ)に出てきてくれると思っていましたし、冬まで持ちこたえれば、秀吉軍が撤退するはずだと思っていたからです。

 ところが、籠城戦が始まってすぐ、思わぬ事態に気付きます。兵糧が予想外に少なかったのです。これは、秀吉側が戦いの始まる前、鳥取城のある因幡国中の米を時価より高く買い占めていたからでした。秀吉軍によって包囲される前に、経家が「兵糧米を集めるように」と命令を出しても、集める米がなかったのです。これが一つ。

 さらに、秀吉軍は鳥取城を包囲する前に村々を襲い、農民たちに乱暴し、彼らが鳥取城に逃げ込むよう仕向けていたのです。ただでさえ少ない兵糧米が見る見るうちになくなっていきました。

 早くも9月ごろに兵糧が尽きかけたのは、経家にとって大きな誤算でした。期待していた元春の後詰の援軍も来ない中、穀類は食べ尽くし、やがて、木の実や草の根、さらには木の皮なども食べ尽くし、ついには馬の肉、最後は餓死した人の肉まで食べるという凄惨(せいさん)な地獄絵が繰り広げられたのです。まさに、秀吉が「鳥取の渇(かつ)え殺し」と表現した状態になりました。

助命の誘い断り、切腹

 経家はこれ以上の籠城戦続行は無理と判断し、家臣の野田春実を秀吉の陣所に送り、自らの切腹と引き換えに城兵の命を助けるよう伝えています。「敵ながらあっぱれ」と思ったのか、秀吉は経家ではなく、中村春続、森下道誉2人の切腹を要求しましたが、経家の決意は固く、経家が全責任を取って切腹することになりました。

 切腹前日の10月24日付で、吉川元春の三男・広家に宛てた遺書が「吉川家文書」にあります。そこには「日本弐(ふた)つの御弓矢の堺において忰腹(かせばら)に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と書かれています。織田と毛利という二大勢力の間にあり、毛利のために戦ったことは名誉だとの思いが伝わってきます。

 また、切腹当日25日には、子どもたちに宛てた遺書の中で「我ら一人御ようにたち、おのおのをたすけ申(もうし)、一もんの名をあげ候」とつづられています。吉川一門の名を上げたという満足感もあったと思います。武将の責任の取り方を天下に示した、見事な死に方だったといえるでしょう。