浅香光代さん、コロナ禍の入院先で「浅草に帰りたい…」内縁夫と息子が明かす最期
「安らかな最期でしたよ。子どもたちが葬儀を執り行っています」
女優の浅香光代さんが、12月13日にすい臓がんのため亡くなった。葬儀の前日に取材に応じたコメディアンの世志凡太は、内縁の夫として、浅香さんと30年以上を共に過ごしてきた。
「悲しいとかはないですね。普通です。90歳を超えていますし、大往生だと思いますよ」(世志)
浅香さんは、弱冠9歳で演劇の道に。
「所属していた劇団が、座長の急死により解散となり、周囲に担ぎ上げられる形で14歳のときに『浅香光代一座』を立ち上げました。舞台のアクションの最中、生脚が着物からチラチラと見えるのが色っぽいと評判になり、“チラリズム”という言葉も生まれるなど話題になりましたね」(芸能レポーター)
晩年はバラエティー番組でご意見番としても活躍。“あたしゃねぇ〜”といった彼女のべらんめえ口調は、モノマネされるほどにお茶の間で人気を博した。また、'17年に亡くなった野村沙知代さんと互いを批判し合った『ミッチー・サッチー騒動』は当時、連日のようにワイドショーを賑わせた。
「浅香さんと沙知代さんは友人関係でしたが、何度も食事を奢らせたり、浅香さんの着物を断りなしに持って帰ったりと、沙知代さんの度を超えた厚かましさに面倒見のいい浅香さんは辟易。そんななか舞台共演する機会があったのですが、そこでも振り付けを無視したりして浅香さんが激怒。ラジオ番組で不満をぶちまけ、日本中が注目する批判合戦に発展しました」(スポーツ紙記者)
そんな舌戦を、「母らしいなと思いながら見ていました。母は演劇の世界で生きていたから礼儀にうるさいんです」と話すのは、浅香さんの次男である北岡昭二さん。
「私は幼いころから兄と2人で、母と離れて暮らしていました。生活は母のお手伝いさんが見てくれて。なかなか大変でしたがいい思い出です。普段は母のことは“先生”と呼んでいましたよ」(北岡さん、以下同)
政治家との“不倫”を暴露した
浅香さんは2013年に週刊誌にて、妻子のある政治家との関係を告白し、未婚のまま息子を2人出産したことを明かしている。その当人である北岡さんは“父”を知っているのだろうか。
「結局わからずじまいです。自分も聞きもしなかったですね。興味もなかったです。子どものころから母のお手伝いさんたちに“親なんて誰だっていいじゃない”と聞かされて育って来ましたから、“そうなのかな”って染み付いちゃったんでしょうね。子どものころに聞いたことはありましたが、“あんたの父親は、戦争で飛行機に乗っていて戦死した”と言ってました。私が生まれたころは、とっくに戦争が終わっているのに(笑)」
息子の目から見る浅香さんは、普通の母親像とはかけ離れていたそうだ。
「豪快で決断力があって、母というより父のようでしたね。まだ元気だったころ、お茶を飲みに喫茶店に入ったのですが、そこに知り合いの芸者さんが席まで挨拶に来てくれたんです。それで母は店長に芸者さんたちの分も払おうと、“芸者さんの伝票持ってきて”と伝えたんです。
すると向こうが聞き間違えて、店内にいるお客さん20人くらいの伝票をすべて持ってきてしまって……。お客さんも母にお礼するから引っ込みがつかなくなり、結局私たちは、お茶しか飲んでないのに3万円くらい払うことになっちゃいましたね。“お礼を言われたら引っ込めないわよ!”と言っていました」
幼少期から離れて暮らしてきたが、母に対してのわだかまりなどはなくなった。
「昔はあったかもしれませんが、大人になった今では確執といった感情はないですね。先生の内縁の夫である世志さんとも普通に接しています。どうしようが母の自由ですよ。生んでくれて感謝しかありません」
浅香家の子育てについては、次のように振り返る。
「高校のとき、私がヤンチャしていて、授業態度や成績の件で先生に呼び出されたんですが、突っ張って行かなかったことがあったんです。そしたら担任の先生がうちの母と連絡をとった際、“うちのせがれが何かしたんですか? なんだったら退学させてください”と言ったそうなんです。
先生も“君の親は何なんだ!?”って驚いていましたね。でも、翌日は一転して“一緒に先生に謝りに行くぞ”と一緒に学校に行ってくれました。そこで先生に対して“昨日は大変失礼しました”と頭を下げてくれて、親なんだなぁと思いましたよ。
その後も“泥棒したわけでもないし、勉強ができないとか気にするな”って言ってくれましたね。ほかにも“偉くならなくていい。そのかわり犯罪を犯すな。人に迷惑をかけるな”とよく言ってました。母なりの教育方針だったんでしょうね(笑)」
最後は「コーラが飲みたい」
母と最期の時間はどう過ごしたのか――。
「今年の10月に入院して、すぐ知らせが来ました。入院してから5回ほどはお見舞いに行きましたが、新型コロナウイルスの影響で、担当医からは面会時間は1分と言われていました。さらに母は耳が遠くて、大声を出すと飛沫感染する恐れもあるので“元気?”とかこっちが質問して、向こうがうなずくなどといったコミュニケーションしかできませんでしたね。
でも、親戚のおばさんが話しかけたとき“浅草に帰りたい”“コーラが飲みたい” とか言っていたそうです。母は地元とコーラが大好きでしたからね(笑)。あとは報道に出ている通り、安らかに亡くなりました。素敵な最期でしたね」
波瀾万丈な人生を歩んだ浅香さんは、2019年に週刊女性によるインタビューで、“天敵”と呼ばれた沙知代さんについて、こう語っていた。
「この世では2度とああいう女には会えないだろうね。あと何年かしたら、“座布団敷いて待ってたわよ”って迎えてくれるかもね(笑)」
今ごろは天国で、また……。