浦和レッズとパラアスリートの偶然かつ必然の出会い…“サッカーのまち”さいたまでつながる2つのサッカー

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 4年前の2015年、浦和レッズの平川忠亮(現・浦和レッズコーチ)は、練習中にボールが至近距離から顔に強く当たり、半日ほど両目が見えなくなるという体験をした。この体験がきっかけとなり、視覚に障がいのある人たちを支援したいという気持ちが彼の中に芽生え始める。しばらくして平川は知人を介し、ブラインドサッカーチームの埼玉T.Wingsでキャプテンを務める、ブラインドサッカー日本代表の加藤健人と出会った。

 加藤は1985年、福島県に生まれた。小学校3年生でサッカーを始め、Jリーガーになりたいという夢をいつしか抱いていた。5、6年生のときには福島市のトレセン入りを果たし、中学のサッカー部ではキャプテンを務め、伊達市の強豪、聖光学院高校サッカー部に入部する。

 そして高校2年生から3年生になる春休みのある日、眼科で視力検査を受ける機会があり、片方の目の視力がほとんどないことを告げられた。人には手や足と同じように「利き目」があるため、もう片方の目の視力が低下しているという自覚が全くなかったという。その後、福島県立医科大学でも検査をしたところ、遺伝性のレーベル病という病を発症していることが判明する。利き目の視力もいずれなくなるかもしれず、現代医学での治癒は難しいという診断を受けた。

「視覚に障がいを持った方や相談できる人もいなかったので、これからどうなるんだろうと。サッカーだけでなく、学校生活や日常生活にも大きな不安を感じました」

 やがて医師が診断したとおり、もう片方の目の視力が落ちていき、日常生活にも支障が出始め、高校も休みがちになっていく。

「黒板や教科書の文字も見えなくなっていったのですが、なかなか友達にも言いにくくて。それまでは学校を休むことなんてなかったんですけど……」

 なんとか高校は卒業したが、視力の低下に伴い、一人で外出することができなくなり、家にこもる時間が増えていく。高校時代の友達が家に遊びにきてくれることもあったが、「これから先、自分には何もできないんじゃないか」と不安ばかりが募った。

 しかし、加藤の両親は諦めていなかった。息子にもできることが何かあるはずだと必死に情報を集めていたある日、インターネットでブラインドサッカーという文字が目に留まった。

自分を必要としてくれる人がいて始めたブラインドサッカー

 加藤がブラインドサッカーの存在を知った15年前は、日本ブラインドサッカー協会も設立から2年しかたっておらず、全国で5チームほどしか活動していなかった。

「ブラインドサッカーと言われても、漠然としたイメージしかなかった」が、福島から一番近くにあった茨城県つくば市のチームに連絡を入れて、父親と2人で見学に行った。高校を卒業してから約半年がたっていた。

「自分には何もできないんじゃないかとか、自分なんて必要ないんじゃないかとか、死にたいと言ったら大げさになってしまうけど、この先どうしたらいいのか本当に悩んでいました。ブラインドサッカーと出会ったときは、自分がそれまでやってきたサッカーとは違うなと思いながらも、たまたまそのチームには同年代の選手が多くて楽しそうな印象を受けました」

 見学を終えた加藤は、その場でスタッフから、チームに入らないかと誘われた。

「今思うと、その頃はブラインドサッカーをやっている人が非常に少なかったので、スタッフの方が見学に来た僕をチームに誘うのは、むしろ当たり前だったのかなと思います。でも、そのときの僕にとっては、誘ってもらえたことがとてもうれしかった。一緒にやってもいいんだ、自分を必要としてくれる人がいるんだと思えました」

 高校卒業から1年後、加藤は筑波技術短期大学(現・筑波技術大学)に入学する。視覚障がい者・聴覚障がい者のための大学で勉強をしながら、チームに所属してブラインドサッカーにのめり込んでいく。