鹿島を常勝軍団へと導いた“ノウハウ” 揺るがないスタイルの裏側
強化部長が語る常勝軍団への出発点
「ジーコを獲得したのは、選手としてのプレーだけではなく、プロクラブになるすべての面で伝授して欲しかったから」―鈴木満(鹿島アントラーズ強化部長)
2002年日韓ワールドカップ(W杯)を終えた冬だった。かつてサンパウロにあった日系人リーグの取材で、日系の新聞社を訪れた。そこで鹿島の社長が意外なエピソードを教えてくれた。
「ここでジーコサイドと岡野(俊一郎)さんが会って、話し合いをしたんですよ」
ジーコは一度引退して、ブラジルのスポーツ庁長官を務めていたが、プロリーグが誕生する日本で復帰を考え始め、まず日本サッカー協会(JFA)と接触した。当時ジーコは38歳。JFAは最初に古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)に話を持ち掛けたそうだが、古河は年齢やブランクを懸念して獲得を見送る。そこで次に打診されたのが、住友金属(現鹿島アントラーズ)だった。
ジーコより4歳年下の鈴木満は、当時住友金属の監督だった。
「ウチはプロ化へ向けて何もないところから始めなければならない。すでにジーコの人間性などは調査済みでしたからね。選手としてのプレーだけではなく、プロクラブになるための全てのノウハウを伝授して欲しいと考えた。だから年齢は関係なかったんです」
「ジーコは本当に怖かった」―、根付いた哲学
スーパースターのジーコが、土のグラウンドで練習をする。モチベーションを疑問視する声もあったが、最初からジーコは真剣そのものだった。連日疑問をぶつけられる鈴木は、その重圧で毎朝4時に目が覚めてしまうようになったという。
1993年のJリーグ開幕を控え、鹿島は欧州遠征に出かけている。トレーニングマッチの相手は、5年後のフランスW杯で3位になるクロアチア代表。ダボル・シューケル、ズボニミール・ボバンら錚々たるメンバーが顔を揃え、格の違いは歴然としていた。結果は1-8。しかしこの相手でも、負けを受け入れられないジーコは激怒した。
それからジーコがピッチ上で笛を吹くようになり、チームの雰囲気も急変していく。遠征の最終戦では、インテルと引き分け。帰国後はブラジルの古豪フルミネンセを下し、リーグ開幕へと弾みをつけた。
「あの頃のジーコは、いつも怒ってばかりで本当に怖かった。でも僕らは全てをジーコから教わろうというスタンスに変えた。それが良かったんだと思います」
Jクラブの中で際立つ安定感、「プロクラブとしての成熟が早まった要因」は…
93年のサントリーシリーズを制し、記念すべき最初のステージ王者となった鹿島は、それ以降Jリーグ8回、リーグカップ6回、天皇杯を5回制すなど、最多タイトル数を誇る名門としての地位を固め、昨年はFIFAクラブワールドカップで準優勝の快挙を成し遂げた。チームを指揮したのは、ジーコと同じタイミングで住友金属に移籍してきた石井正忠だった。
改めて鈴木は振り返る。
「ジーコには、ピッチ上のことだけではなく、現場を管理する人間としての立ち居振る舞いなど、プロとしてのすべての面で教えられました。それが他のクラブより、プロクラブとしての成熟が早まった要因だと思います」
Jリーグ開幕時から参戦した「オリジナル10」で、J2降格を経験していないのは鹿島と横浜F・マリノスだが、停滞期を作らず安定してタイトルを増やし続けているのは鹿島だけである。
加部究●文 text by Kiwamu Kabe
◇加部 究(かべ・きわむ)
1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(ともにカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』 (ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。