本日公開「ポッピンQ」は「ドラゴンボール」と「プリキュア」の血を受け継いでいる。宮原監督を直撃

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12月23日公開の、東映アニメーション60周年記念オリジナルアニメ映画「ポッピンQ」。それぞれに悩みを抱いた中学校3年生の少女たちが、不思議な世界「時の谷」で出会い、トラブルを乗り越えながら再び歩き始める──というジュブナイルストーリーだ。
黒星紅白によってデザインされた少女たちは、華やかに、繊細に、画面の中で動いている。こんな多感な少女を描ける宮原直樹監督とは、いったい何者なのか? 公開を記念して宮原直樹監督にインタビューを行った。


──「ポッピンQ」を見て、「心の中に生き続けている中学生女子」(概念)が号泣しました!

宮原 ありがとうございます。こんなおっさんが作っています。

──監督の子どものころのお話を聞かせてください。

宮原 長崎県の対馬で生まれ育った、フツーの男子でしたよ。中学校の時は帰宅部で、高校は美術部でした。ただ、ずっと絵を描いていましたね。小学校2年くらいから、コマを割った漫画も描いていて。記憶にはないですけど、田舎の家には小学校に入る前の「コレあんたが描いたのよ!」みたいな絵が出てくる(笑)。

──例えば、手塚治虫さんの絵をマネしてみたり?

宮原 漫画家というよりも、アニメを見て描いていたんだと思いますね。身内褒めみたいになってしまうかもしれないですが、僕の小学生のころは東映アニメの「マジンガーZ」「デビルマン」「キューティーハニー」なんかが全盛期でした。だから、当時は一番永井豪さんの絵柄に影響を受けていたかもしれません。

──ぜひ読んでみたいです。

宮原 いや、恥ずかしいですよ! 高校卒業後は、もう勉強するのが嫌で(笑)。絵も好きだったし、映画も好きだった。自分の好きなものが職業として成立するとしたらどんなものだろうと思うと、「アニメっていいなあ」と考えるようになっていた。でも、当時は今ほどアニメの専門学校はなくて、御茶ノ水にある東京デザイナー学院のアニメーション科に進みました。就職するならとにかく東京に出ないと、とは思っていましたね。


──東京デザイナー学院から、アニメ業界へ進む人はすごく多かった?

宮原 うまい人は、卒業する前にどんどんヘッドハンティングされてプロダクションに入ってましたね。ヘッドハントという形でなくても、みんないろんな情報やツテを持っていて、どんどんアニメ業界に入っていく。僕は田舎から出てきて、何も持っていなかった。2年間ちゃんと在籍してしまって(笑)、もうすぐ卒業のタイミングで、運よく東映アニメーションからの求人が来た。初めての就職活動は、ものすごく緊張しましたねー。入社できたのはラッキーです。

──最初の就職活動で東映アニメーションに入社した……内定率100%ですね(笑)。入社してから出会って印象に残っている東映アニメーションの方は誰でしょうか?

宮原 入社してすぐではなく、ある程度描けるようになってからですが……西尾大介さんは衝撃的でしたね。

──衝撃?

宮原 西尾さんは「ふたりはプリキュア!」のシリーズディレクターでよく知られています。僕が初めて衝撃を受けたのが、Zシリーズ初の映画「ドラゴンボールZ」(1989年)。もともと名前も存在も存じ上げていたんですけど、作品を試写で見て「すごいかっこいい! こんな作家さんが身近にいるんだ!」とシビれてしまって。社内のツテをなんとか使って、「僕もドラゴンボールやらせてください!」とスタッフに混ぜてもらいました。

──志願したんですね。

宮原 当時の「ドラゴンボール」シリーズは、西尾さんもいらっしゃったし、専門学校で同期だったアニメーターたちも活躍していて、アニメ雑誌にも「今ドラゴンボールがすごい!」と取り上げられるような熱のある作品だったんですよ。その一方僕は……という気持ちもないわけではなかった。原画で参加して、本当に勉強させてもらいました。それが東映アニメ歴3、4年目、23歳ぐらいのことです。

──現場でどのようなことを学んだんでしょうか。

宮原 技術的ノウハウはもちろんですが、「どのようにアニメーションが成り立っているのか」その全てです。それぞれの職種があって、それらはどういうポジションで、どういう動きをすればどう繋がっていくのか。それまでは頑張っているつもりではいたけど、与えられた仕事をただ机で坦々とやっていた。でも3、4年目でようやく、スタッフの繋がりまで意識して仕事をできるようになった。基礎的なことを1から10まで学ばせてもらったのが「ドラゴンボール」でした。

CG異動で「長くなった鼻がポッキリ」


──宮原監督は、「ドラゴンボール」シリーズなどで作画監督、「デジモンアドベンチャー」で総作画監督なども担当しています。

宮原 15年作画をやって、だんだん社内のほかのプロジェクトから「ちょっとこっちでも描いてよ」と声をかけられるくらいにはなっていたと思います。その入社15年目で、転機がありました。

──CGのセクションが立ち上がって、そちらに移った。作画でベテランだと、CGを使うことに抵抗はなかったですか?

宮原 僕はなかったですね。「面白いツールが出てきたぞ!」「作画でのアニメーションノウハウがそのまま生かせる」と飛びついちゃいました。ただ、今思えば「普通にPCが触れるくらいのスキルがあるだけ」なのに、西尾大介さんや山内重保さんといったトップクラスのディレクターさんが手掛ける劇場作品のCGを担当することになって、何もできなくて、怒られて、それでも形にしなくてはならない……と頑張ったのは、ちょっと苦い経験でしたね。CGにいってゼロからスタートして、「こんなことしかできないの?」とちょっとがっかりされるのは、作画で1回長くなった鼻がポッキリ折れるような感じでした。今となってはいい思い出ですし、それが今の自分に繋がっているとも思うんですうけどね。

──数多いCGの担当作の中で、印象に残っている仕事はありますか?

宮原 「ドラゴンボールZ 神と神」(2013年/CG監督)は、あまりに大変すぎて、逆に記憶が残ってないですね……(笑)。ただ幸いなことにCGのスタッフが優秀だったので、僕は「これはかっこいいからマル」「これはかっこ悪いからバツ」と一寸引いた視野で仕事ができた。本来「ドラゴンボール」は、手描きの絵の力でグイグイ押してきた作品なので、CGの使い方が難しい。CGになってしまうと、力が抜けてしまう部分が出てくる。なので、打ち合わせの時に「ここでCGを使うのは逆効果」「これはかっこよく仕上がる」と提案させてもらいました。


──「逆効果になる」とは、どういうことなんでしょうか?

宮原 鳥山明先生のキャラクターが持つ独特のディティールを、CGで100%再現するのはやはり難しく、コントロールしきれないと思っていました。僕自身「作画だったらこうするな」というイメージが頭の中に描けてしまうだけに、ちょっとしたニュアンスの違いが許せないんですね。

直接、見ている人の気持ちを揺さぶれる」手ごたえを感じた「プリキュア」


──宮原監督は「プリキュア」劇場作品のCGも数多く担当しています。

宮原 「映画 プリキュアオールスターズDX2 希望の光☆レインボージュエルを守れ!」(2010年)のED映像は面白かったですね。初めて自分でコンテを描いて、楽曲に合わせて仮編集をやりながら、1本をまとめていくという作業をしました。これまで、編集の仕事については、あまり考えていなかったんです。でもそれ以降は望んでするようになりました。「直接、見ている人の気持ちを揺さぶれる」という手ごたえがあって。1カット1カットの絵じゃなくて、いくつかカットをつないで山あり谷ありがあって、それがビタッとはまると、鳥肌が立つ……そんなシーンづくりが初めてできたのが「DX2」のEDでした。


──「プリキュアオールスターズDX 3Dシアター」(2011年)では監督を務めています。個人的な話で恐縮ですが、私、「3Dシアター」が大好きなんです……。ぜひこぼれ話をお願いします!

宮原 ありがとうございます(笑)。セリフがない作品ですが、簡単なストーリーの流れはいただいていて。「じゃあ、どういう感じになるとかわいいかな?」と絵のイメージを作っていきました。鷲尾天プロデューサーのご所望は「おもちゃを実写のようなリアルな質感で」。だからオープニングのストーリーパートではそういうアプローチをしつつ、大半を占める大掛かりなステージのダンスパートは「プリキュア」のEDで使っている技術を使いながら作り上げていきました。

──「プリキュア」シリーズのエンディングは、いちはやくCGを導入して、「ダンス」をモチーフに展開されてきました。モーションキャプチャーなども取り入れているんですよね。

宮原 「3Dシアター」の制作時期は、東日本大震災と重なっていて、ずいぶん制作にも影響しました。モーションキャプチャーをするときって、しっかり固定した特殊なカメラで撮影しなきゃいけない。でも、まだ余震が続いていて、カメラがずれてデータが台無しになる……というのを何回も繰り返して。「揺れるなよ、揺れるなよ……」と言いながらモーションキャプチャーを撮っていたのが、ものすごく印象に残っていますね。

──近年のプリキュアの春映画は、CG短編を同時上映したり、歌やダンスの要素にフィーチャーしたりしています。ファンの間では「原点にあるのは3Dシアターだ!」ということが言われていたりするんですよ。

宮原 えー(笑)。でも、いまだに上映してくださる施設があったりもするので、作った身としては感謝感謝です。

──ぜひ続編を……。

宮原 続きは若手スタッフがまた頑張ってくれますよ! 40人超えはちょっと大変かもしれませんが……でも、「やったるでー!」と燃える人が現れて、たぶんやってくれるはずです。

──宮原監督のキャリアをこれまで伺ってきました。作画15年、CG15年やってきて、ちょうどキャリアの半々。宮原監督の15年は、日本のCGの歴史でもあると思うのですが、どのように変化してきたと考えていますか?

宮原 「CGでキャラクターアニメーションを描く」ことが認めてもらえるようになってからは、気持ち的にすごく楽になりましたね。それまでキャラクターって、「やっぱりCGで作ると冷たい」「ちょっとお人形さんみたいで気持ち悪い」と言われるような空気があった。「フレッシュプリキュア!」のエンディングを出したとき、本当に認めてもらえるのかすごく不安でした。でも、否定的な意見はあったけれど、「かわいいじゃん!」という意見が多数を占めてくれた。最初否定していた人も、オセロゲームで挟まれた石のように、次第にスタンスを変えていくんですね。面白いことに。

後編に続く

(青柳美帆子)