プロ野球を彩った外国人選手(※写真はイメージです)

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今年も色々あったプロ野球。今シーズンは日本人選手の活躍が目立ちましたが、日ハムのレアードがパ・リーグの本塁打王を獲得したり、広島のジョンソンがセ・リーグの最多勝投手に輝いたりと、例年通り、多くの外国人選手が球界を盛り上げるのに一役買ったのは間違いありません。

こうした「助っ人外国人」、上記のような好成績を残す者もいれば、その反面、日本の水に全く馴染めずに"お荷物"扱いとなる者もいます。どんなに下馬評が高かろうが、まるでダメダメな場合も普通にあるのだから、球団側にとっては困ったもの。

そんな「外れ外国人」の中でも極めて悪質な選手が2005年、読売ジャイアンツに入団したのを覚えているでしょうか? その男の名はダン・ミセリ。彼が海を渡ってやってきたのは、堀内恒夫が巨人の監督を務めていた時代。ペナントレースで04年→3位、05年→5位と、常勝軍団にあるまじき低迷ぶりから「巨人の暗黒期」と評される時期に、入団した彼は、そのダメっぷり象徴するプレイヤーとして後世に名を残しています。

メジャーでは実績抜群 ミセリに飛びついた巨人


2004年のオフシーズン、巨人の首脳陣は悩んでいました。何にかといえば、クローザーを誰にするかということ。今でこそ、澤村拓一が抑えとして固定されていますが、かつてこのチームは、慢性的な「守護神」不足という問題を抱えていました。

そこで満を持して獲得したのがミセリでした。1993年にピッツバーグ・パイレーツで21セーブを記録し、1996年には、サンディエゴ・パドレスで67試合に登板して10勝5敗の成績を収め、ワールドシリーズ進出に貢献するなど、かなりの実力者として知られていた同選手。
メジャー通算579試合に登板したこのベテラン右腕の獲得は、巨人側にとって長年にわたる懸案事項の打開策となるはずでした。そのためには金を惜しまず、前年の年俸60万ドルの3倍に近い、170万ドルでオファーを出したのです。

2度連続で救援失敗…その後は敗戦処理に


そんな期待とは裏腹に、オープン戦から投球モーションとコントロールが不安定だったミセリは、8試合に登板して0勝1敗・防御率5.63というかなり微妙な内容。しかしこれはほんの序章に過ぎず、ペナント本番ではさらに酷いピッチングを披露します。
4月1日の広島東洋カープとの開幕戦、1点リードの9回表に初登板すると、簡単に3点を失い敗戦投手に。試合後「投げて打たれた。それも野球だ」と一言。続く4月5日の横浜ベイスターズ戦でも、同点の12回裏から登板し、金城龍彦と多村仁に打たれてサヨナラ負けを喫し、2回連続で黒星が付きます。

解雇直後の浅草観光も話題に


この時点で首脳陣からクローザー降格の烙印を押されたミセリは、4月7日の横浜戦における5点ビハインドの場面で3度目のマウンドを踏みます。ここでも、決して足の速くない種田仁に盗塁を許すわ、一昨日サヨナラ安打を打たれた多村にホームランを浴びるわで、1回3失点の散々な出来。「こんなリトルリーグみたいに狭い球場でやっているからだ」と責任逃れの珍言を吐き捨てたのが印象的でした。
そして、4度目の登板は4月10日の中日戦。巨0-10中の9回表に登板するという、完全な敗戦処理投手としての扱いでした。ここでは2安打を喫するも、奇跡的に無失点で1回を切り抜けます。

これほど酷い投球内容にも関わらず、契約上では二軍に落とすことが出来なかっため、球団側はもてあましました。そして開幕から1ヶ月と経たない4月19日には、早くも戦力外通告。球団史上最速で解雇されるという珍記録を残したのです。

なお、解雇当日に東京ドームにやってきたところを報道陣に囲まれ、コメントを求められたミセリは「喉が痛いから話すことはない。もう行かなくてはならない」とし足早に去っていったとのこと。ところが、その直後にミセリは妻子と共に浅草観光に訪れたといいます。

このように短い日本滞在期間のわりに、豊富なネタを提供したということで、彼の名は悪い意味で永遠に語り継がれていくことでしょう。
(こじへい)

※イメージ画像はamazonより野球小僧remix プロ野球[外国人選手]大事典 (白夜ムック)