「美しい」について[4]〜外の美・内の美・内から外への美/村山 昇
〈じっと考える材料〉
玲子:
ああ、MIKAKOってやっぱりきれいな顔だちだなぁ。わたし、大人になったら整形手術しようと思ってるの。目を二重まぶたにして、鼻すじもすっと通す。人生変わるだろうな。少なくとも、毎朝自分の顔を鏡で見るときの劣等感にはさよならね。
夏穂:
わたしは整形手術には抵抗があるな。そこまでしなくても、って感じ。
玲子:
それは夏穂が顔に劣等感がないからよ。ちょっとした整形であれば、それはお化粧したり、かつらをつけたりすることとたいした違いはないわ。歯並びをよくする矯正だって整形のうちよ。
翔太:
いくら見た目を整えても、玲子のそのきつめの性格をどうにかしないと男子にはモテないと思うぜ。やっぱり大事なのは内面じゃないの。
夏穂:
整形について親はどう思うかしら?
玲子:
整形でちょっと目や鼻をいじるだけで、わたしは自分の顔に自信が持てる。そして毎日がウキウキできる。それこそわたしの内面が変わって、明るく変われるときよ。親だって、劣等感でふさぎこんでる娘を見るより、そっちの明るい娘を見るほうがうれしいにちがいないわ。
夏穂:
玲子は自分の顔のことを悪く思いすぎ。たとえば、あなたが写真部の活動で何かを真剣に撮ってるときの顔はとても素敵よ。
翔太:
ぼくも母親によく言われる。あんたはサッカーしてるときが一番いい顔だって。
玲子:
そうやって素のままでいいよって言ってくれる人がいればいいけどさ……
□ 将来、整形を施したいという玲子に対し、あなたならどんなことを助言してあげますか?
見た目をかっこよくしたい。その欲求はまったく自然のものです。その欲求が人間にあるからこそ、この世界は装飾やデザインにあふれ、視覚的に豊かになっているのです。また、あなたたちはいま、いろいろなものを見て、それにあこがれて、それをまねたいという気持ちが強い年代です。「まねる」とは「まなぶ=学ぶ」という言葉ともつながっていて、成長には欠かせない要素です。ですから、玲子がモデルのきれいさを追いかけ、自分も同じようになりたいと思うのは悪いことでもなんでもありません。ただ、それは「美を求める心」の第1段階であることを理解する必要があります。
きょうは、その「美を求める心」を3段階に分けて説明しましょう。3段階とは───
第1段階が「かっこいいものを持ちたい」
第2段階は「美しく生きていきたい」
そして第3段階が「身の回りの環境を美しくしよう」
という心の成長です。人はまず、ものごとの外面のきれいさ、かっこよさに目をひかれます。色彩的にきれいなもの、形状的にかっこいいもの、装飾的に見栄えのするものなどをめでるとともに、それらを物として所有したいと思います。それらを手に入れ、自分の一部にしてしまうことで、自分もかっこよくなれると思うからです。そういった意味で、この第1段階にいる人間が強く持っているのは「外面的な美を所有する心」です。
ところが美は、これまで考えてきたように、目に見えやすい外面的な美だけでなく、目に見えにくい内奥的な美もあります。ここで、彫刻家の巨人オーギュスト・ロダンの言葉を紹介しましょう。
「美は性格のなかにあるのです。情熱のなかにあるのです。美は性格があるからこそ、もしくは情熱が裏から見えてくるからこそ存在するのです。肉体は情熱が姿をやどす型(かた)です」
「内面からの肉づけがないなら、輪郭は脂(あぶら)を持てない。しなやかにならない。堅い陰(かげ)で乾(ひ)からびる」
「われわれが輪郭線を写し出すときは、内に包まれている精神的内容でそれを豊富にするのです」
「一切の生は一つの中心からわき起こる。やがて芽ぐみそして内から外へと咲き開く。同じように、美しい彫刻には、いつでも一つの強い内の衝動を感じる」。
───『ロダンの言葉』(高村光太郎訳) *一部現代的かなづかいに変換
少しむずかしい表現になっていますが、とても大事なことをふくんでいるので、繰り返し読んで味わってください。
美に透徹したロダンがここで言っているのは、ほんとうの美は内側からの精神(情熱や性格、衝動とも言っている)のわき出しにある。外側の肉体(輪郭とも書いている)はそれを受け止める型である、ということです。そのためロダンは弟子たちに、彫刻は外側だけをとりつくろって形を出そうとするな。内面からの精神のわき出しを心の目で見よ、それを表現せよと教えたのです。
彫刻家と同じように、わたしたちも成長するにしたがって、ものごとの内側から出てくる強さや輝きを感じとれるようになります。ものごとをじっと見つめ、その内側に健康的な躍動や精神的な充実などを見出すと、「あぁ、美しいな」となります。これが第2段階への入り口です。
この段階に入ってきた人は、美しさのほんとうの出所(でどころ)はものごとの中身であると確信します。ですから、自分自身においても中身を大事にしようと思いはじめます。自分が献身的に没頭できるなにかを見つけて、自分の中身・人生の内容を充実させようとします。第2段階で強まってくるのは、そんな「内奥的な美に生きる心」です。
ロダンが書いたように、ほんとうの美は内から外へ咲き開く。ところが、内側だけ美しいというのはいまだ完全な姿ではありません。中身の充実が外に表れてこそ完成します。内奥的な美に生きる人は、やがて、内に持つ精神(情熱、性格、衝動など)と調和する形で外にあるものを変えていこうとします。外にあるものとは、自分の身体や持ち物、自分が過ごす空間です。これらは広く「環境」と言っていいでしょう。つまり「環境的な美を求める心」が強く出てくるのが第3段階です。
千利休を例にあげてみましょう。千利休は茶道の大家で、「わび茶」といわれる分野を完成させたことで知られます。「わび茶」とはその名のとおり、「わび(侘び)」の精神を、茶を点(た)てる作法として表わすことです。
「わび」の精神とは、自然のままの不揃いの状態、不完全な状態、簡素な状態のなかに悟りを得ようとする意識です。そういう精神性に美を見出す千利休は、当然、自分の環境も「わび」させていくのが美しいと確信していました。そのため、質素な身なりをし、林のなかにとけ込む小さな茶室を設けます。ごつごつしただけの器を使い、木枝を削って茶さじを作り、庭で取った草木を竹の筒に生ける。千利休は内から外へ、「わび」という美を一貫させていったわけです。
そのように第2段階で内奥の美をしっかりとらえる人は、外側にある環境もそれに応じて美しくしたいと思います。これが第3段階の美を求める心です。「外側の美」にこだわるという点では、第1段階も第3段階も同じです。しかし本質的には大きくちがいます。
第1段階の心が欲しているのは、かっこいいものを所有することです。かっこいいとは見た目がいいねとか、デザインがウキウキするね、すごくかわいいね、買いたいな、持ちたいな、というふうに感情を高揚させる視覚的な刺激です。しかし、かっこいいものは、往々にして、すぐに飽きがきます。流行や他人の影響を受けることが大きく、自分の内面の奥深いところとつながっていないがために長続きしません。
それに対し、第3段階の心が求めるのは、自分が一番落ち着ける環境です。ここで言う“落ち着く”とは、自分の精神が「こうありたい」と目指す状態と、身の回りのものの状態が調和していて、心身ともに平安なことをいいます。
そこで求める美は、必ずしも流行を追ったものではなく、それを所有しなければ気がすまないといったことでもなくなります。あくまで、自分が内面で大切にしていることがまずあり、それに合わせるように、持ち物はこういう様子のものがいいな、身なりはこんな感じにしていこう、毎日過ごす部屋はこういうふうに変えていこうとなります。それはつまり自分なりの美しさを外側へ創造することであり、内側の意志とつながっています。
* * * * *
さて、設問に移りましょう。玲子は将来、整形手術をして顔を変えたいと言っています。玲子はいま思春期の女の子で、きれいさにあこがれたり、自分の容姿にコンプレックスを持ったり、夢を想像したり、ともかく頭や心があちこちに激しく動く年ごろです。みな、そういう時期を経て、精神的に大人へと向かっていくものですから、いま頭や心にわいてくることを無理やり押さえ込むことはありません。おおいにあこがれ、おおいに想像をふくらませればよいでしょう。そのなかで、「整形したい」という気持ちについては答えを急ぐのではなく、少し時間を置いてみましょう。つまり、じゅうぶん成人になったとき、再び考えてみることにしたらどうでしょう。
というのも、玲子はいま「美を求める心」の第1段階に入ったばかりです。世の中にあるかっこいいものにいろいろ魅了されるまっさかりです。そして自分もそれを持ちたいと思う。それを持つことによって自分もかっこよくなれると思う。自分の容姿に自信がないので、なおさらそう思うわけです。だから玲子は、ある種、熱病のなかで「わたしもきれいになりたい。人から注目されたい」という欲求にとらわれている状態です。
若いころのそういう熱病的な欲求は、ときに夢や志に発展していくので、あっていいものです。しかし、玲子の欲求は少し注意が必要なのです。なぜでしょう───。
たとえば「ぼくは将来、プロサッカー選手になりたい!」という少年の熱病的欲求と、玲子のそれとはどこが違うか考えてみましょう。プロサッカー選手になるためには、長い時間をかけて能力を鍛えていく努力が必要になります。その過程には、失敗も成功も、運も不運もあるでしょう。それを乗り越えていく精神力も欠かせません。ところが、玲子の望みである整形は、手術代さえ用意すれば数時間でそれが手に入ってしまうのです。
少年は鍛えた能力や精神力を自分の内面に残すことができます。たとえプロ選手になれなかったとしても、それらはその後の人生でおおいに自分を助けてくれるでしょう。けれど、整形で手に入れるかっこいい二重まぶたや鼻すじは、いわば部品を買って表面に付けるものであり、内面に蓄積されるものではありません。
玲子はそれによって自信がつき明るくなれると言います。たしかに一時的には気分が高まるかもしれません。しかし、さらに歳をとってくると、今度はくちびるが気に入らないとか、シワが出てきたからシワをなくしたいとか、そんなようなことでまた自分の外見にがまんができないことにならないでしょうか。結局それは、永遠に見た目に支配される生き方になりはしないでしょうか。
見た目はどうでもいいという問題ではありません。見た目をよくする努力は必要です。ただ、「内奥の美」を知ったうえでの見た目をどうするかと、「内奥の美」を知らずに外見だけどうするかではまったく異なるのです。
そういった意味で、玲子はこの先、いろいろに見聞をして、経験を重ねて、「美を求める心」の第2段階に入っていくことです。中身の充実から外へ咲き出す美がどういうものかがわかってくると、考え方も変わってくるでしょう。いや、そのときに、やはり「整形をしたい」ということになるかもしれません。それはそれでいいのです。おそらく、自分の内側になにか固い思いがあるのでしょう。少なくとも、いまのようにあこがれ気分だけで言っているのとはちがう次元から出た答えのはずです。
人の美しさとはどういうものであるか。あるいは、人を美しくさせるものはなにか。この問いにどんな答えを持つかは、自分が「美を求める心」の第1段階の住人なのか、それとも第2段階、第3段階の住人なのかでまったくちがってくるものです。
[文:村山 昇|イラスト:サカイシヤスシ]