前回までのあらすじ

北岡涼子、30歳、元女優。社会人経験なし、資格なし、貯金なし。芸能界で活躍したが、徐々に干されて今に至る。就職活動をしようにも、「綺麗」以外の特性がないため続々と不採用通知を受け取る。

そんななか大先輩の小田につれられて足を踏み入れた、銀座の超高級クラブ『銀華』の由紀ママにひょんなことから店にスカウトされ、夜蝶デビューを果たす。

片桐から思いを打ち明けられプロポーズにOKした涼子。5年後、仕事はどうなっている? そして片桐との関係は!?

第15話:崖っぷちアラサー奮闘記:ついにプロポーズ!どうせ結局、最後は男で決まる!?



片桐からプロポーズを受けたおよそ5年後。涼子は由紀ママから譲り受けた金密陀色の色留袖を身にまとい、まだ誰も出勤していない店内に、チーママのすみれと向かい合って座っていた。

「それで、お話っていうのはなにかしら?」

あえて余裕ある微笑みで問うと、すみれが涼子の目を見据えた。

「ママ、わたしあと2週間でこのお店を辞めさせていただきたいんです。実はある方からママになるお誘いをいただいて、決めました」

やはりそうだったか、と涼子は思った。

夜の銀座で引き抜きは珍しくないが、大勢の指名客を持つチーママを失うことは店にとって大損害である。しかし涼子が事前にキャッチした極秘情報では、すみれを引き抜いた店の親会社は経営難だという。

そんな店に移ってもノルマでがんじがらめにされるのが関の山である。涼子は自分の店よりも、いままで可愛がってきたすみれの行く末が心配だった。いまならまだ引き返せる。

「ねえ、すみれさん。考え直していただけないかしら」

涼子の言葉に、すみれが意地悪く口を歪める。

「ママ、もしかしてわたしに嫉妬してるんじゃないですか? ママよりうんと若い20代のわたしが、雇われでも銀座でクラブをオープンさせたらきっと、このお店は閑古鳥が鳴きますもんねえ」

「違う、違うのよすみれさん……」

「嘘つかないでよ、それがママの本音でしょう? それに、いまだから言いますけど、もうお客にはお店を移る話をしてあるんです。だからこのお店に未練はないわ。今日までお世話になりましたッ!」

乱暴な仕草でソファーから立ち上がると、すみれは一度も振り向くことなく店のドアへと向かう。

「近いうちにすみれさんとライバルになるのね。でもわたしは負けない。地元に戻れないわたしには、東京しか居場所がないんだから」

すみれの後ろ姿を見送りながら、涼子は自分にそうつぶやいた。

「はい、カーットッ!!」
店内に響く大声を放った後、このドラマの監督が涼子に笑いながら近づき、ポンと肩を叩いた。

「いい芝居でしたよ。北岡さん、明日もこの調子でお願いしますね」
「ありがとうございます」涼子は監督に頭を下げた。

5年前、涼子は本名の「北岡涼子」で女優に復帰した。事務所で最古参の敏腕マネージャーと関係各所を訪ね、「どんな役でもいいのでお願いします。」と地道な営業活動を続けた。

事務所と熟考を重ね、単価をグンと下げたことが功を奏し、端役からはい上がり今回のドラマでは銀座のママ役を獲得したのだった。

このドラマのモチーフは由紀ママである。銀座のママが老人ホームの建設に着手する噂を聞きつけたマスコミが由紀ママの身辺調査を行った。

すると「銀座では珍しいパトロンを持たずに店を一流にのし上げた伝説のママ」という事実も判明し、その半生を単発のドラマにする企画が実現した。

自分が由紀ママを演じることになったのはまったくの偶然だった。涼子はプロデューサーと由紀ママの自宅に挨拶を兼ねて訪問した日を思い出す。


挨拶した日に由紀ママが涼子に打ち明けた事情とは……。



「これもなにかの縁ねえ。どうせなら涼子さん、わたしの着物を着てお芝居してみたらいかがかしら」

その方がよりリアルになるとプロデューサーが大賛成し、譲り受けたのが今日の着物である。

久しぶりの再会に話が盛り上がったふたりは、プロデューサーが帰った後もお茶を飲みつつ語らい合った。その場で由紀ママから「近いうちに『銀華』を手放すわ。」と打ち明けられた。

「後継者が育たなかったのよ。50歳をすぎてから体力もガクンと落ちたし、あのお店に力を注ぐより、湘南に建てる老人ホームの経営に全力を尽くしたいの。

いつかはわたしも住むことになるでしょうし。それにねえ、東京はわたしの年になると、時間の流れが早すぎるの。

いままで銀座で戦ってきたんだもの。老後ぐらいはゆっくり暮らしたいじゃない」

うふふ、と笑いながら言う由紀ママを見ていると、涼子は過去のあの出来事がふと脳裏をよぎった。

「そういえば杏奈さんってどうしているんでしょうね……」
「ああ、そういえば」由紀ママがティーカップを置いた。

「最近あの子がいかがわしいビルに入って行く姿を見たお客様がいらっしゃるの。おそらくそういう場所で働いているんでしょうねえ。

涼子さん、わたし長く生きてきて実感しているんだけど人間はね、自分で蒔いた種は自分で刈り取る仕組みになっているのよ」

そうかもしれない、と涼子は頷いた。だが涼子は、杏奈の現状を聞いても遥か遠い過去のようにしか思えずにいた。杏奈が店を去ってからともに陰謀を企み自分を陥れようとした田中麻由子も、ぱったりと姿を見せなくなったことが一因かもしれない。

そんな思い出に耽っていると、また監督が大声を張り上げた。
「久しぶりに早く終わったから、みんなで飯でも行くか!」

「北岡さんはどうしますか?」スタッフが涼子に問う。
「まだ主人とすごす時間がほしいんです……。だから今日はこれで失礼させていただきますね」

そう告げてマネージャーの車に乗り込みスマホを見ると、紗耶香からLINEが届いていた。

「久しぶりに会いたいな。でも涼子は忙しいよね?」
「紗耶香の方はどうなの? わたしは3日後なら大丈夫」

5年の歳月とあの出来事を経て、ふたりは名前を呼び捨てにする関係にまで親しくなっていた。あの出来事が起きた当時の紗耶香の対応に、いまでも涼子は感謝している。

涼子が『銀華』を辞めた後も、紗耶香はホステスとして働き続けた。

「彼氏がいないと時間を持て余しちゃう」
同棲を解消した紗耶香はそう自虐しつつ、昼間はネイリストとして腕を磨き、貯蓄に励んだ。その努力が実を結び今年、自由が丘に店をオープンすることが決まった。

「でも、小さなマンションの一室だけどね」

涼子のマンションで同居していたころ何度か施してもらっていたし、女優に復帰してからもネイルは紗耶香の世話になり続けている。紗耶香の実力を自分は充分解っている。

――できる限り協力しよう。
紗耶香を思い、現場から遠ざかる車に乗っている涼子には、このスタッフの声は届いていない。

「北岡さんって一途だよなあ。ご主人とは確か、ヨリを戻して結婚したんじゃなかったっけ」


涼子が結婚した相手とは!?



――いけない。早く章ちゃんの夕食の支度をしなくちゃ。

ふたりで一夜をすごして以降、涼子は片桐を「章介さん」と呼んでいた。仲が深まってからは「章ちゃん」か「章介」と呼ぶようになり、それはいまも続いていた。

「ほかに好きな人ができたの」
拓海にそう伝えたのは、章介と一夜をすごした直後である。

「急にそんなことを言われてもあきらめられないよ」
粘る拓海に、涼子はできれば言わずにおこうとしていた決定打を放った。

「わたしと麻由子さんを同時進行したこと、なにかあったときにわたし思い出しちゃう。やっぱり水に流すなんてできないよ。だからもう、無理なの」

「そうか、そうだよな……」

しょぼくれた拓海に傷を和らげる言葉をかけようとしたが堪え、それがふたりの最後になった。あれから一切、連絡を取っていない。

キッチンに立つと、いまも耳に残り自分を支える章介の声が蘇る。

「もう一度女優に挑戦してみたらどうかな。涼子が芝居をしてるところ、僕も見たいし。それに、涼子が一番いきいきできる仕事が女優なんじゃないのかな」

優しく力強い後押しで復帰を決めたが、章介は涼子を再び、スポットライトが当たる世界へ戻してくれただけではなかった。メディアに登場する機会が増えつつある涼子が父の励みとなり、脳梗塞で倒れる以前のような元気さが戻ってきたと、先日の電話で母が言っていた。章介は父の健康という、嬉しい副産物までもたらしてくれたのである。

『銀華』では涼子が本心をさらすまで客に徹してくれて、道に迷う涼子を温かい手で背中を押してくれた。その愛に応えるため、女優を続けながらも涼子は愛情を込めた料理を作り続けているのである。

そんな強い絆で結ばれたふたりがヨリを戻す、つまりは一度別居したというのは、まったくのデマだった。

――マスコミは時に好き勝手なことを書くものよね。夫婦の絆なんて所詮、他人には解らないものだから仕方ないけど。

真実は章介が経営する不動産会社のとある地方支店だけが売上が落ちたため数月間、章介が出張していただけなのである。
――でも、章ちゃんの本当の食の好みはマスコミもしらないかも。

家ではハンバーグやミートソースのパスタなど、子供が好むようなメニューを章介はねだった。今夜はこれも章介が大好物のカレーである。

作り終えると、いつもの場所に食事を運ぶ。


涼子が食事を運ぶ“いつもの場所”とは……。



仏壇の前にしつらえた小さな食卓にカレーを置くと、涼子は手を合わせた。

――章ちゃんがいなくなってから1年半経ったよ。

涼子は章介が事故死したあの日を、いまでも忘れていない。半年の交際を経て夫婦となったふたりの結婚生活は、猛スピードを出した果てにハンドル操作を誤った対向車と章介が運転する車の正面衝突によって、僅か3年で終わりを迎えた。

毎朝外出前に交わす恒例のキスとハグ。それが章介との最期になってしまったのである。

1年半が「まだ」か「もう」か涼子にはいまだに解らない。だって章介を失った日々は、自分が死ぬまで続くのだから。

警察署で章介の顔にかけられた白布を取って対面しても、涼子は章介が亡くなった事実がうまく飲み込めなかった。

「章ちゃんにはもう二度と会えないし触れることもできないんだ」
そう実感したのは、遺体が火葬炉にじりじりと運び込まれる瞬間だった。

「やめて! 燃やさないでーっ!!」

泣き叫びながら棺の移動を制止させようとしたが、周囲に身体を抑えられたその日から、涼子の涙は止まらなくなった。

泣いても泣いてもあふれてくる涙でまぶただけではなく顔全体がむくみ、食欲などわかない。1日中カーテンすら開けない部屋で酒を飲み、嘔吐する日々を繰り返した。

他者との接触すら拒むようになり唯一、事務所とだけは連絡を取っていたが、「大丈夫ですから。」としか応じられない。

その状態から救い出してくれたのが紗耶香だった。

「今日からしばらくわたし、この家に居候するから」

突然訪問してきた紗耶香はたとえ涼子が手をつけなくてもふたりぶんの食事を作り、頃合いを見計らって話しかけてくる以外は淡々と日常生活をこなし、仕事にも行く。その、ごく普通に生きる姿を見せられて涼子は「このままじゃ駄目になる。女優の仕事まで失ってしまう。」と自覚し、立ち上がったのだった。

――章ちゃん、わたし今日も女優頑張ってきたよ。

涼子は今日の出来事と1週間後から撮影が始まる映画について、心の中で章介に報告をする。21歳の人気女優が主演を務める作品に、涼子は主人公にとって“話が解る”叔母役として出演する。

こうして蕾が花開くようにゆっくりと仕事が得られるようになったのは、全て章介のおかげだと涼子は信じてやまない。

――わたし、女優を続ける限りは東京に住むからね。

手を合わせたまま、これまで幾度も繰り返した決意を報告する。

章介が眠る青山墓地がある東京から、涼子は離れたくない。章介の両親は「涼子ちゃんはまだ若いんだから……。」と再婚を勧めるが、涼子と同じく章介もひとりっ子である。

愛する人を生んでくれた両親の老後が心配にならないわけがない。その上、自身の両親の老後。二組の老夫婦を看取るためには、涼子は女優として稼ぎ続けなければならないのである。

「勝負をするなら東京だと思って、逗子の自宅を売り払ったんです」

先輩女優が以前、ある雑誌のインタビューで語っていたが、涼子は同感している。由紀ママのように「地方」で「のんびり」暮らす想像は、二組の老夫婦を見送った後ではないと自分にはできない。

「出産を考えると結婚できない自分に焦る」

同年代の女性たちはよくそう言うが、涼子は子供がほしかったわけではなく、“章介の子供”がほしかった。

――だからわたし、再婚しないよ。

涼子は仏前で「二夫に見(まみ)えず」を誓うのだった。

文/内埜さくら