86年組の意地――本田、長友、岡崎らはいかにして日本代表の中核を成していったのか?
「努力に勝る天才はない。サッカーの巧さなら、天才と言える選手はいた。でも『持っている力』ではなく、『出す力』の強い選手が生き残ってきた。今の代表メンバーを見ると、まさにそう感じる」 そう語るのは、04年、本田に初めて日の丸をつける機会を与えた、当時のU-19日本代表監督の大熊清(現C大阪強化部長)だ。
星稜高3年の本田は、石川県選抜として、本来のボランチではなく左SBとしてプレーしていた。その試合を視察した大熊は「ステップなしの強いキックで、いとも簡単にサイドチェンジしていた」と一目惚れ。チームに新たな活力をもたらすはずだと感じ、代表招集を決めたのだ。
ひとつ年上の85年組には平山相太(現FC東京)、カレン・ロバート(現ソウル・イーランドFC)、増嶋竜也(現柏)、兵藤慎剛(現横浜)、中村北斗(現福岡)ら、高校サッカー界に新たな隆盛をもたらした実力派が揃っていた。05年6月のワールドユースに向け、大熊率いる年代別日本代表は、彼ら85年組を中心にベースが固まりつつあった。
そんな先輩たちへ挑みかかるように本田は猛アピールを続け、本大会21人のメンバーに食い込む。迎えた地元オランダとの開幕戦では、レギュラーの梶山陽平(現FC東京)が怪我明けで万全でなかったこともあり、ボランチとして先発の座を掴んだ。
ところが試合開始から守備に忙殺された本田は、64分に交代を告げられる。試合も1-2で敗戦……。するとその後の3試合、本田に再び出番が訪れることはなかった。対世界はおろか、チーム内の競争でも徹底的に差を突き付けられた試練の大会となった。
一方、同じ86年組である滝川二高の岡崎慎司(現マインツ)は、年代別代表に呼ばれることさえなかった。むしろ同校で2トップを組んだひとつ年下の森島康仁(現磐田)のほうが高い評価を得ていた。東福岡高の長友佑都(現インテル)に至っては、ボランチとしてレギュラーの座さえままならず、無名に近い存在だった。
いずれも大熊らスタッフのチェックリストには載っていたが、あくまで「代表候補」止まりだった。
06年から10年までA代表のコーチを務めた大熊は、彼らの急激な成長を間近で目撃する。年齢のみならず、あらゆる面で子どもから大人へと変貌を遂げていったのだ。そんな86年組に大熊はある共通点を見出していた。
「自ら『学ぶ』、『やってやる』、『盗んでやる』と常に能動的だった。なにより彼らはサッカーに対し愚直だった。力のある選手に揉まれるなかで、いかにして高いレベルで力を出
すかというところを体得していった」
やがて86年組の本田、岡崎、長友は日本代表の主力へ成長していく。
一方、85年組は総じて伸び悩み、これまでワールドカップのメンバーに選ばれたのはブラジル大会の伊野波雅彦(現磐田)のみ。最新のメンバーに選出されたのも、水本裕貴(現広島)だけだった。
86年組の才能を引き出したひとりが、北京五輪代表チームを率いた反町康治(現松本監督)である。
06年の反町体制の発足時は、やはり先のワールドユースに出場した85年組を重用した。しかし08年の北京五輪本番までに、レギュラーのほぼ全員が入れ替わった。ただその間、常に主力として起用されたのが本田だった。なにより彼の「吸収力」を、反町は高く評価していたのだ。
ミスの原因を客観的に分析し、次の機会には修正する。昨日より今日、今日より明日と、なにかしら変化が見て取れた。自己主張しつつも自らを客観視できる本田の内面に、反町はプロ魂を感じ取っていた。
結果、ボランチ、トップ下、サイドハーフ、CF、ウイングと、本田は五輪チームでも、その後のキャリアでも、あらゆるポジションで自らの特長を出しつつ、どの監督からも信頼を得た。かたやCSKAモスクワ時代にはトップ下でのプレーにこだわり、ポジションを守り抜いたこともある。柔軟さと一徹さを臨機応変に使い分けてきたのだ。
星稜高3年の本田は、石川県選抜として、本来のボランチではなく左SBとしてプレーしていた。その試合を視察した大熊は「ステップなしの強いキックで、いとも簡単にサイドチェンジしていた」と一目惚れ。チームに新たな活力をもたらすはずだと感じ、代表招集を決めたのだ。
ひとつ年上の85年組には平山相太(現FC東京)、カレン・ロバート(現ソウル・イーランドFC)、増嶋竜也(現柏)、兵藤慎剛(現横浜)、中村北斗(現福岡)ら、高校サッカー界に新たな隆盛をもたらした実力派が揃っていた。05年6月のワールドユースに向け、大熊率いる年代別日本代表は、彼ら85年組を中心にベースが固まりつつあった。
そんな先輩たちへ挑みかかるように本田は猛アピールを続け、本大会21人のメンバーに食い込む。迎えた地元オランダとの開幕戦では、レギュラーの梶山陽平(現FC東京)が怪我明けで万全でなかったこともあり、ボランチとして先発の座を掴んだ。
ところが試合開始から守備に忙殺された本田は、64分に交代を告げられる。試合も1-2で敗戦……。するとその後の3試合、本田に再び出番が訪れることはなかった。対世界はおろか、チーム内の競争でも徹底的に差を突き付けられた試練の大会となった。
一方、同じ86年組である滝川二高の岡崎慎司(現マインツ)は、年代別代表に呼ばれることさえなかった。むしろ同校で2トップを組んだひとつ年下の森島康仁(現磐田)のほうが高い評価を得ていた。東福岡高の長友佑都(現インテル)に至っては、ボランチとしてレギュラーの座さえままならず、無名に近い存在だった。
いずれも大熊らスタッフのチェックリストには載っていたが、あくまで「代表候補」止まりだった。
06年から10年までA代表のコーチを務めた大熊は、彼らの急激な成長を間近で目撃する。年齢のみならず、あらゆる面で子どもから大人へと変貌を遂げていったのだ。そんな86年組に大熊はある共通点を見出していた。
「自ら『学ぶ』、『やってやる』、『盗んでやる』と常に能動的だった。なにより彼らはサッカーに対し愚直だった。力のある選手に揉まれるなかで、いかにして高いレベルで力を出
すかというところを体得していった」
やがて86年組の本田、岡崎、長友は日本代表の主力へ成長していく。
一方、85年組は総じて伸び悩み、これまでワールドカップのメンバーに選ばれたのはブラジル大会の伊野波雅彦(現磐田)のみ。最新のメンバーに選出されたのも、水本裕貴(現広島)だけだった。
86年組の才能を引き出したひとりが、北京五輪代表チームを率いた反町康治(現松本監督)である。
06年の反町体制の発足時は、やはり先のワールドユースに出場した85年組を重用した。しかし08年の北京五輪本番までに、レギュラーのほぼ全員が入れ替わった。ただその間、常に主力として起用されたのが本田だった。なにより彼の「吸収力」を、反町は高く評価していたのだ。
ミスの原因を客観的に分析し、次の機会には修正する。昨日より今日、今日より明日と、なにかしら変化が見て取れた。自己主張しつつも自らを客観視できる本田の内面に、反町はプロ魂を感じ取っていた。
結果、ボランチ、トップ下、サイドハーフ、CF、ウイングと、本田は五輪チームでも、その後のキャリアでも、あらゆるポジションで自らの特長を出しつつ、どの監督からも信頼を得た。かたやCSKAモスクワ時代にはトップ下でのプレーにこだわり、ポジションを守り抜いたこともある。柔軟さと一徹さを臨機応変に使い分けてきたのだ。