米ボルティモア・オリオールズ和田毅に、左肘の靭帯損傷が明らかになった。バック・ショーウォルター監督が発表した。

 今季からオリオールズでプレーしている和田は、キャンプ中に左肘の違和感を訴え、故障者リスト入り。マイナーリーグで調整を続けていたが、事態は風雲急を告げた。

 和田は近日中にロサンゼルス再検査を受ける予定だが、復帰についてショーウォルター監督は、「希望はあると思う。手術を受ける可能性もあるが(手術をせず)リハビリを経て戻れるかもしれない」と語った。

 現時点では故障の原因は明らかではないが、考えられるのは日本での過度な投げ込みだ。人間の体がそもそも、ピッチングするように設計されていないことは以前にも紹介した(http://blog.livedoor.jp/yuill/archives/51657833.html)が、わが国ではアマチュア時代から、投手の肩は連日投げ込むことによって作られると信じられている。
 スポーツ医学が発達した今でこそ、ブルペンに科学が入り込むようになったが、それでも投げ込みや、長いイニングのピッチング、連投を拒否する投手は根性なしのレッテルを貼られる。

 そんな根性野球はかつて、治療やリハビリの現場にも見られた。

 ロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)で活躍した村田兆治は1983年、左腕の腱を右肘に移植するトミー・ジョン手術を受け、1984年に883日ぶりに復帰。翌1985年には17勝5敗93奪三振カムバック賞を受賞したが、異常の発覚から復帰までの道のりは、今から見れば常軌を逸している。

 村田が異変に気付いたのは、1982年シーズンの開幕直後。右肘に痛みを感じた。その後も痛みを押してマウンドに上がったが、その度に痛みは激しくなり、やがて登板も不可能になった。

 当時は今以上に根性野球が幅を利かせていたが、村田はまさにその象徴。ピッチャーは練習を休むべからずと考え、ブルペンで連日100球以上も投げ込んだ。試合では、文字通り一球入魂。状況や体力に応じ、手を抜くことを知らなかった。
 そんな村田の肘がプロ15年目の1982年、悲鳴を上げたのは、ごく自然な成り行きだった。

 2軍落ちした村田だったが、それでも根性野球を貫いた。電気ショックマッサージなどの治療を受ける一方で、投球練習を続けた。「一生懸命投げ続けていれば、いつか、なにかの拍子に純粋な気持ちが通じ、ふと痛みが消えるのではなかろうか」と信じた。
 見かねた球団幹部が「そんなにまで自分の身体を苛め続けたら、本当に投げられなくなる」と戒めても、「腕が折れるまで投げ続けるつもりです」と突っぱねた。

 もちろん、肘は回復することなく、むしろ悪化。腕を肩より上に上げることができなくなり、球団もついに、原因が明らかになるまで投球練習を控えるよう、正式な命令として通告した。

 失意の村田がすがったのはだった。禅とは大乗仏教の一派で、剣豪宮本武蔵が「剣の道は禅の道なり」と書き残している。球界でも、「打撃の神様」と言われた川上哲治王貞治一本足打法を教えた荒川博などが、練習方法などに取り入れていた。
 宮本武蔵の「五輪書」を愛読し、禅僧が執筆した仏教思想書である「正法眼蔵」を読んだ村田は、和歌山県白浜町修行とも言える荒治療を断行。氷のように冷たい滝に打たれながら座禅を組み、霊感マッサージを受けた。焼酎に8年間浸し続けたマムシの皮を患部の肘に巻きつける、蛇皮療法までも試みた。

 まさに鬼気迫る様相だったが、事態はいっこうに回復しない。自宅で投球練習を再開しても、痛みは引いていない。むしろ、瘤のような腫れが肘に浮き出ており、同僚のレロン・リーは「見るだけで吐き気を催すような症状だった」と振り返っている。

 そんな村田も、ついに夫人の勧めで、肘にメスを入れる覚悟を決めた。米国人医師、フランク・ジョーブ博士によるトミー・ジョン手術だ。
 だが、手術室でも村田は最後まで根性野球を貫いた。ジョーブ博士が勧めた痛み止めの注射を拒否したのだった。

 村田の復帰で球界もようやく最新医学に門戸を開いたのだが、当時は村田のような根性野球が当たり前。西鉄ライオンズ(埼玉西武ライオンズ)のエース、稲尾和久も、肩を故障した際、鉄球を投げて肩を作り治すという暴挙に出た。自棄になったのではなく、それが正しい治療法だと信じていた。

 だが、わが国から根性野球が消えたかと言えば、そうではない。先に紹介したように、高校野球をはじめアマチュア野球では、未だ根性が賛美され、プロでも先発投手の完投、リリーフの連投が讃えられている。音を上げれば、根性なしだと後ろ指を指される。

 その結果、腕に自信がある投手はアメリカに亡命するのだが、ようやく辿りついたときには、すでに満身創痍になっているかもしれない。